影の谷① 高原の影
――チェルヴァルテ高原
都へ着く前に、道は一度、空へ寄り道をする。
声の小さい街を出た街道は、最後の峠にかかる手前で高原に出る。羊の背みたいになだらかな丘が続くその高原に、チェルヴァルテの街はあった。羊毛の街だ。国境に近く首都から遠いぶん静謐法の手綱も緩く、宿の親父は声が大きかったし、市場では呼び売りが歌に近いことまでやっていた。同じ国とは思えない、と言ったら、親父は笑った。
「法ってのは、羊と同じでね。山を登るほど、痩せるんですよ」
ステラの目当ては眠り羊――ソムニヴェッラの毛布だった。毛に微睡む油分を含む羊で、この街の毛布は「数えるまでもなく眠れる」のが売り文句だという。買い付けの交渉を横で聞いていたが、女商人二人の値の削り合いは、正直、ワイバーンの滑空より怖かった。
その市場が、昼過ぎに、静かになった。
丘の上から、男が転げるように駆け下りてきた。牧童頭だという。羊がまた三頭やられた、と男は言った。またか、という顔を、市場中がした。
「狼か?」とカインが聞くと、男は首を振った。狼なら弓で追える。熊なら罠が組める。そうじゃないから、困っている。
「――鹿です。翼のある、大鹿の群れ。ひと月前から、北の谷に棲みついて」
「鹿が、羊を?」
「喰うんです。あの鹿は肉を喰う。……けど、旦那がた、問題はそこじゃあねえんだ」
男は言いよどみ、丘の上を振り返った。夕方に近い陽が、草の斜面に俺たちの影を長く伸ばしていた。
「あれの影を、見ちまったら分かる。この街の猟師はもう、誰ひとり、あれに矢を向けられません」




