歌の気配
――ポルタセーラ 南門 翌朝
「お代は結構ですよ。」
出立の朝、宿の女将は悠仁が差し出した宿代の上乗せ分を、笑って押し返してきた。
「2階の板、鳴かせなかったでしょう、あなたたち。ここ数年で一番お行儀のいい冒険者さんたちだったから、まけておきます。」
「……気づいてたんですか。」
「ええ、そりゃあ。……この国はね、お客さん。」
女将は少しだけ声を落として、悪戯っぽく笑った。
「静かな分、みーんな、耳がいいんですよ。」
冗談めかした言い方だったが、南門を出てからも、悠仁はその一言がなんとなく頭から離れなかった。静かな分、みんな耳がいい。それはつまり、この国の人間は、聞こえていないのではないということだ。
聞こえた上で、聞こえなかったことに、している。
女将は見送りの代わりに、石鹸草の小枝をひと束、荷台の隅へ挿していった。「宿の名前の分だけ、旅に匂いを持っていってくださいな」とだけ言って、意味は説明しなかった。乾いていく小枝は、それから数日、荷台の中でかすかに甘く香り続けた。ステラが昨日、二度目に訪れた書店で買ってきた図鑑も、同じ荷台の隅にある。題の上の印はそのままだ。ただ扉の余白に、店主の手で小さく一行、書き足されていた。『良い本です』と。印より小さくて、印より濃い字だった。
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――カンタヴィア街道 2日目
首都カンタヴィアへ続く街道は、南部交易路よりも一回り細く、その分、景色は良かった。丘を越えるたびに葡萄畑と麦畑が入れ替わり、遠くの丘の上には風車がゆっくり回っている。旅人はさらに減り、この日すれ違ったのは巡回の兵と、郵便馬車が1台きりだった。
「平和ねぇ……。」
御者台の隣で、ミーナが伸びをした。
「このまま何にもなきゃいいけど。」
「あんたがそういうこと言うと何か起きるのよね。」
「言うな。俺も今ちょっと思った。」
実際、何も起きなかった。モンスターは街道沿いにほとんど出ない。出ても兎の親戚のようなものばかりで、カインが剣を抜く機会すらなかった。コレスタニアの巡回兵は精強で、装備の質はセダの正規兵に引けを取らない。静かな国は、弱い国ではないらしい。
すれ違う巡回隊を見送りながら、ミーナが小さく唸った。二十人からの武装隊列なのに、足音が揃って一つ分しかしない。鎧の擦れる音がしないのは、留め具の全部に革座金を噛ませてあるからだ。斥候の目で見れば見るほど、あれは行軍ではなく隠密の練度だった。静けさは、この国では作法であると同時に、軍事技術でもあるらしい。ミーナは自分の装備の金具をひとつ指で押さえて、しばらく何か考えていた。
「なぁ、ステラ。この国って軍は強いのか?」
「……大陸で3本の指に入る、って言われてる。特に、魔法工学。」
荷台の奥から、ステラの声が返ってくる。知識の話になると、やはり声に張りが出る。
「魔導具の設計と量産で、この国の右に出る国はないの。セダの領主が『第2のハーダリアになっていてもおかしくない』って言ってたのは、多分、それのこと。兵の数はハーダリアに及ばないけど、装備の質なら上かもしれない。」
「歌は禁止で、兵器は最先端、か。」
「……静かなことと、大人しいことは、別だから。」
ステラの言い方には、昨日の図鑑の一件がまだ尾を引いているような、微かな棘があった。
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――カンタヴィア街道 3日目 夜営地
その夜は、風が強かった。
夜営地は街道脇の小さな窪地で、リンとした夜気の中、焚き火の炎が右へ左へ揺れていた。夕食が済み、見張りの順番を決め、皆が毛布にくるまり始めた頃。
フルールが、顔を上げた。
「……。」
「ん?どうした?」
最初に気づいたのは、隣で火の番をしていた悠仁だった。フルールは答えなかった。首をわずかに傾げ、風上の、南の闇の方へ耳を向けている。その目は、ヒュルテの森で水脈を探していた時と同じ、人ではないものを視る目だった。
「フルール?」
「……いえ。」
フルールは数秒そのままでいて、それから、ふっと表情を緩めた。
「風の音でした。多分。」
「多分?」
「風が、丘の形で……笛みたいに鳴ることが、あるんです。それだと思います。」
そう言ってフルールは毛布にくるまり、おやすみなさい、といつも通りに笑った。
悠仁は、それ以上聞かなかった。
ただ、火の番の残りの時間、悠仁も風の音に耳を澄ませてみた。風は確かに丘の上で鳴っていた。ごう、とか、ひゅう、とか、そういう音だった。
笛のようには、聞こえなかった。
(……考えすぎだ。)
そう思いながらも、悠仁は立ち上がって、風上に積んであった薪の山を毛布一枚分だけ動かした。フルールの寝ている側の風除けが、少しだけ厚くなる位置に。理屈はない。ただ、人ではないものを視る目をした仲間が「多分」と言った夜に、風上を薄くしておく気になれなかっただけだ。フルールの寝顔はいつも通りで、耳だけが、眠りの中でも時々ぴくりと南を向いた。
薪を足して、火の粉が夜空へ散るのを眺める。南の空は厚い雲で、星が見えなかった。首都カンタヴィアまで、あと3日。
歌の道、という名前の都まで。
カンタヴィア街道(地名)
ポルタセーラと首都カンタヴィアを結ぶ街道。丘陵地帯を縫うように走り、大陸でも有数の景観街道として(声の小さな)評判が高い。コレスタニア領内の街道には全て巡回兵が配置されており、その巡回頻度は大陸随一。旅人の少なさと相まって、街道犯罪の発生率は大陸最低水準を保っている。丘の風が強い夜には、地形の作用で風が高く鳴くことがあり、土地の者はこれを「丘の笛」と呼ぶ——呼ぶが、その話を公の場でしたがる者は、いない。




