声の小さい街
――翌朝 ポルタセーラ 市場通り
朝のポルタセーラは、よく晴れていた。
「補給の担当を決めるぞ。食料はミーナとフルール、消耗品はステラ、装備の点検はカイン。俺とアリスは聖堂と組合に顔を出して、カンタヴィアまでの道の情報を集めてくる。昼に宿で合流だ。」
「はーい……っと、ちっちゃい声で。はぁい。」
ミーナが早速自分の声量と格闘している。昨日の鼻歌の一件がよほど堪えたらしい。
市場通りは、朝から賑わっていた——という表現が、この国では正しいのかどうか。人出は多い。売り物も豊富だ。ただ、呼び込みの声が、ない。
代わりに、店先には木の札が下がっていた。『今朝の卵、大きい』『昨日の倍、甘い』『触ってよし』。売り手は客と目が合うと、にこりと笑って札を指す。値段の交渉は指と、小さな石板と、白墨で行われていた。声の代わりに、札と笑顔と身振りが市場を回している。
「……なんか、慣れてくると悪くない気もしてくるな。」
「そうですね。静かですけど、冷たくは、ないんですよね。」
アリスと並んで市場を抜けながら、悠仁は少しずつこの国の輪郭が掴めてきた気がしていた。彼らは言葉を禁じられているのではない。言葉を、慎重に、大切に、少しずつ使っている。まるで水の乏しい土地の人間が水を使うように。
その先の四つ角で、それを見た。
3つか4つくらいの女の子が、母親と手を繋いで歩きながら、機嫌よく何かを口ずさみ始めた。旋律とも言えない、子どもの、ふにゃふにゃとした歌だった。
母親は立ち止まらなかった。怒りもしなかった。ただ空いている方の手をそっと娘の口元に当て、腰をかがめて耳元で何かを囁いた。女の子はきょとんとして、それからこくんと頷いて歌をやめた。
それだけだった。母娘はそのまま、パン屋の札を眺めに行った。
「…………。」
悠仁もアリスも、しばらく何も言えなかった。
あの母親の手つきは、慣れていた。何十回、何百回と繰り返してきた、流れるような仕草だった。そこには暴力も、恐怖も、罪悪感すらもなかった。転びそうな子を支えるのと同じ、ただの、優しい躾だった。
「……悠仁さん。」
「あぁ。」
「私、いま、初めてちょっと怖かったです。」
「……あぁ。」
怒鳴られていたら、まだ分かりやすかった。泣いていたら、まだ救いようがあった。あの子は多分、大人になる頃には口ずさむこと自体を忘れる。そして自分の子どもの口元に、同じように優しく手を当てるのだろう。
悠仁は一瞬、満員電車の朝を思い出しかけた。誰に言われたわけでもないのに全員が黙っている、あの箱。似ている、と思いかけて、すぐに打ち消した。あれはただの疲れと気遣いだ。ここのは、違う。ここの静けさには設計者がいる。誰かがいつか、理由があって、この国の口元に手を当てたのだ。その理由を、この国は「公の場で問うことを控えるべきこと」に分類している。設計図だけあって、署名のない建物の中を歩いているような心地だった。
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――ポルタセーラ 聖堂
ポルタセーラの聖堂は、街の規模の割に立派だった。白い石造りで、天井が高く、そして当然のように静かだ。もっとも聖堂というのはどこの国でも静かな場所なので、ここでは初めて違和感のない静けさとも言えた。
カンタヴィアまでの街道情報を書き写し、スキル関係の掲示を確認して、用事は簡単に済んだ。
組合の掲示で一つだけ目を引いたのは、依頼札の右肩に必ず推奨レベルが振ってあることだった。声の小さいこの国では、依頼の危険度を口上で説明する代わりに、数字が働いている。数字は、静謐法に触れないのだ。
掲示の隅には、月末のスキルレベル認定試験の日程も貼ってあった。声の大きさは国ごとに違っても、この書式だけは、大陸のどこへ行っても同じだった。
帰り際、悠仁はふと足を止めた。
聖堂の入り口脇。そこに、他の国と同じように、公示板があった。
『前週の死亡冒険者数 公示』
いつもの、あれだ。ALGOが義務付けたという死者数の公示。ヴァリエスタでも、リアッツォでも、カシュカントでも、聖堂の入り口には必ずこれが貼られている。
「……なぁ、アリス。」
「はい?」
「この国、書いていいことは法律で決まってるんだよな。」
「そう、みたいですね。」
「じゃあ、これはいいのか?」
死者の数。冒険者が何人死んだかという、この国の基準で言えばどう考えても「穏当」ではない数字が、検閲の印もなしに、聖堂の一等地に堂々と貼られている。しかも書式は他の国と寸分違わない。ポルタセーラの街の中で、ここだけが「よその世界」のままだった。
「……言われてみれば、変ですね。市場の値札にまで気を配る国なのに。」
「だろ。」
試しに、通りかかった聖堂の職員に聞いてみた。職員は穏やかに微笑んで、こう答えた。
「聖堂の掲示は、聖堂のものですので。」
「静謐法の対象外、ということですか?」
「聖堂の掲示は、聖堂のものですので。」
同じ答えが、同じ抑揚で返ってきた。それ以上でも以下でもない、綺麗に閉じた答えだった。職員は深々と一礼して、奥へ消えていった。
(……国が、全部の言葉を管理してる。なのに、聖堂の言葉にだけは手を出さない。出せないのか、出さないのか。)
(この国は、何を恐れて――何と、取引したんだ?)
答えの出ない問いは、いつもの抽斗にしまった。抽斗はもう、だいぶ重くなってきている。
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――同日 昼 宿屋「石鹸草の宿」
「戻りましたー……あれ、ステラさん、どうしたんですか?」
宿の食堂で合流したとき、アリスが最初に気づいた。ステラの機嫌が、目に見えて悪かった。買い出しの荷物は完璧に揃えてある。帳面の記載も完璧だ。ただ、その帳面を閉じる手つきが、いつもより2割ほど強かった。
「……別に。」
「別に、じゃないでしょ。ほら。」
ミーナがひょいと、卓の上に一冊の本を置いた。旅の途中でステラがずっと探していた、薬草図鑑の改訂版だった。
「本屋で見つけたのよ。そしたらこの子、手に取って、開いて、そのまま棚に戻したの。珍しいでしょ。」
「……。」
悠仁は本を開いてみた。すぐに分かった。
扉のページ。題名の真上に、青黒いインクで四角い印が捺されていた。『検閲済 コレスタニア領検閲局』。印は几帳面な四角で滲み一つなく、題名の文字に少しだけかかっていた。
「……題名に、かかってるんだな。」
「……余白は、いくらでもあるのに。」
ステラは窓の外を見たまま、静かに言った。
「……わざわざ、題の上に捺すの。この国は。」
それきりステラは何も言わなかった。怒鳴りもしなければ、批判の演説もしない。ただその日の午後、ステラは買い出しで余った銅貨をきっちり帳面に記載して、あの図鑑だけを買わなかった。
夕方、ミーナがこっそり図鑑を書店へ返しに行った。その時に見たものを、ミーナは夜になってから小声で報告した。店主の老人は返された図鑑を受け取ると、棚へ戻す前に、扉を開いて、題名の上の検閲印を親指の腹でそっと拭ったのだという。印は、拭ったくらいで消えるインクではない。消えないことは、店主が一番よく知っているはずだった。それでも拭うのだ。多分、一冊ずつ、毎回。
「……買えばよかったかしら、って、ちょっと思っちゃった。」
ミーナの報告を、ステラは帳面から顔を上げずに聞いていた。聞き終えてから、短く一言だけ返した。
「……その店、明日、もう一回行く。」
検閲印(制度)
コレスタニア領内で流通する全ての書物・印刷物に捺される検閲局の証印。印のない書物の所持は違法となる(旅行者の持ち込み分は入国時の申告で例外的に許される)。印は伝統的に書物の扉、題名の直上に捺すこととされている。検閲局はこの位置について「読者が最初に目にする場所に国の保証を示すため」と説明しているが、位置の由来を記した公文書は現存しない。




