静謐法
――コレスタニア国境 関所 夕刻
関所は、思っていたよりもずっと大きかった。
街道を塞ぐ形で灰白色の石壁が左右の丘まで延びており、中央の門は馬車が3台並んで通れるほどの幅がある。門の手前には屋根付きの審査場が4列。並んでいる旅人はまばらで、審査場の数と釣り合っていない。
そして、静かだった。
「……おい、なんだこれ。」
カインが小声で言った。関所というのは騒がしい場所だ。荷を検める音、値を巡る押し問答、待たされる旅人の愚痴。ヴォーマでもリアッツォでもトラングでもそうだった。だがここには、そのどれもがない。聞こえるのは書類をめくる音と、遠くで馬が鼻を鳴らす音だけ。並んでいる旅人たちは、まるで葬儀の列のように黙って順番を待っている。
「私語は禁止、ってわけでもなさそうだな。」
前の方では商人が審査官と何かを話している。ただその声が、極端に小さい。
列に並んで待つ間、悠仁は審査場を観察した。屋根の下には書見台が並び、羊皮紙とインクの匂いが風に乗って届いてくる。関所というより、役場か、あるいは図書館の匂いだった。審査官たちの指先には一様にインクの胼胝があり、腰の剣より、胸の羽根ペン差しのほうが使い込まれている。武で守る国境と、紙で守る国境がある。ここは後者だと、匂いが先に教えてくれた。ミーナが爪先立ちで列の先を覗き、フルールは風向きが変わるたびに小さく首を傾げていた。待ち時間は長かったが、誰の腹の虫も鳴らなかったのは、昼の宿場でカインが多めに握り飯を作らせたおかげである。
「次の方、どうぞ。」
順番が来た。審査官は40絡みの男で、物腰は驚くほど丁寧だった。
「ようこそコレスタニアへ。本日はどのようなご用件で。」
「冒険者です。首都カンタヴィアへ向かいます。こちらを。」
悠仁はウェイルとセダの身分証明書を提示する。審査官は書面を検めると、ほう、と小さく息を吐いた。
「これはご丁寧に。……では、お決まりの申告をお願いします。楽器はお持ちですか。」
「持っていません。」
「歌集、詩集、戯曲、その他朗唱を目的とした文書は。」
「ありません。」
「扇動的文書、諷刺画、および印章のない印刷物は。」
「……ありません。」
審査官は一つ一つ、悠仁の目を見て確認しながら、手元の書面に丁寧な字で記入していく。
「結構です。それから、これは義務ではなくお願いなのですが。」
審査官はそこで初めて、書面から顔を上げてにこりと笑った。
「国内では、お声を少しだけお控えください。歌は、ご遠慮ください。皆様の旅が良いものになりますように。」
拍子抜けするほど、あっさりと審査は終わった。罰則の話も、脅し文句もなかった。ただの、お願い。
「ふんふんふーん……ふん?」
そして、次の瞬間だった。荷台の脇で順番を待っていたミーナの鼻歌に、審査場の空気がぴたりと止まった。
並んでいた旅人が一斉にミーナを見た。責めるような目ではない。強いて言えば、車道に飛び出しかけた子どもを見る目だった。審査官が静かに歩み寄る。
「お客様。」
「ふぇっ!?あ、はいっ!」
「当国では、歌唱はご遠慮いただいております。鼻歌も、歌唱に含まれます。」
「あっ……えっと、ごめんなさい……?」
「いえ。国境の内側ではまだ努力義務ですので、罰則はございません。門の向こうからは、静謐法の適用となります。……お気をつけて。」
審査官は深々と頭を下げて、持ち場へ戻っていった。ミーナは真っ赤になって荷台に飛び込んでくる。
「ちょっとぉ!なんなのよこの国ぃ……!」
「声がでかい。」
「うぅ……。」
カインに突っ込まれて、ミーナは小さくなった。声が小さくなったのは反省したからというより、周りの旅人たちの視線に飲まれたからだろう。誰も何も言わない。誰も怒っていない。ただ、全員がミーナの鼻歌を「聞こえなかったこと」にして、静かに列を進めていく。その徹底ぶりが、逆に薄ら寒かった。
荷台の隅で、フルールがそっと席を詰めて、ミーナの袖を二度、つまんで引いた。慰めの言葉はなかった。この国の流儀に合わせたのか、それとも言葉より先に手が出る質なのか。ミーナは俯いたまま、袖をつままれた側の口の端だけ、少し緩めた。アリスは何も見なかった顔で水筒の水を回し、ステラは帳面の端に何かを一行書き足した。あとで悠仁が盗み見たそれは、『鼻歌——罰則なし。ただし全員が忘れない』という、記録者の手つきの一行だった。
(罰則がないのに、これか。)
法律で縛られているというより、もっと柔らかくて、もっと分厚い何かで包まれている。悠仁がそんなことを考えながら馬車を門へ進めた、その時だった。
(――いた。)
門の脇、審査場の屋根の陰。灰色の外套に、無地の仮面。膝の上に板を置き、羽根ペンを走らせている人物がいる。
(審判……。こんなところにまで。)
組合の聴取の隅で。関所の脇で。試験場のロビーで。そして組合のロビーで。これで5度目になる。声をかけても意味がないことはもう知っている。彼らはただ記録する。何を、何のために、誰のためにかは、誰も知らない。
不思議なのは、あれだけ丁寧だった審査官たちが、灰色の記録者には一瞥もくれないことだった。歌一つに立ち上がる国が、素性の知れない記録者を素通しにしている。
(……この国の「静けさ」は、あいつらのことを、どう扱ってるんだ?)
羽根ペンの音は、車輪の音に紛れて聞こえなかった。ただ門をくぐる瞬間、仮面がゆっくりとこちらを向いたのが視界の端に見えた。
隣のカインが、無言で御者台の位置を半分ずらした。悠仁と仮面の間に、大きな背中が入る角度だった。本人は景色を見ている顔をしている。三年も一緒にいると、盾の男の癖は戦場の外でも変わらないのだと分かる。悠仁は何も言わず、手綱を握り直した。礼は、あとで飯を多めに盛ることで払うのがこの隊の相場である。
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――コレスタニア領内 ポルタセーラ街道
門の向こうは、拍子抜けするほど普通の景色だった。
夕暮れの丘陵に葡萄畑が広がり、農夫が手を動かしている。道は綺麗に舗装され、路肩の石標には丁寧な字で距離が刻まれている。空気は乾いて甘く、遠くに関門都市の影が見えた。
ただ、農夫たちは歌っていなかった。
「……畑仕事って、歌うもんじゃなかったか。」
「そうね……。エディオル村でも、アリーシャの近くでも、歌ってたわね。」
ミーナの声はまだ少し小さい。畑の歌、荷運びの歌、井戸端の歌。この世界のNPCたちの生活には、いつも歌があった。気にしたこともないくらい当たり前に、あった。
それが、ない。
手だけが動いている夕暮れの畑は、美しくて、綺麗で、そして絵のように静かだった。
「……着いたら分かるんじゃないですか。この国の人たちが、どうしてこれを選んだのか。」
アリスがぽつりと言った。選んだ、という言い方が少し意外で、悠仁は荷台を振り返った。
「選んだ、と思うか?」
「はい。だってあの審査官さんも、並んでいた人たちも……誰も、我慢してる顔じゃなかったですから。」
アリスの言う通りだった。あれは怯えた顔でも、押し付けられた顔でもなかった。
それが一番、分からなかった。
静謐法(法律)
コレスタニア領全域に敷かれる基本法。公の場における発話・文書・歌唱・演奏について「してよいこと」を定める(「してはいけないこと」を列挙する形式ではない点が特徴で、列挙されていない行為は原則として控えるべきものとされる)。歌唱・演奏に対する規制が最も強く、公の場での歌唱は等級を問わず違法となる。ただし運用は驚くほど穏当であり、初犯はほぼ例外なく「丁寧な注意」で済まされる。罰則よりも、住民の相互の気遣いによって維持されている点が他国の類似法制と大きく異なる。制定は約20年前。制定の経緯を公の場で問うことは、静謐法により控えるべき行為とされている。




