対ワイバーン⑨
ワイバーンの顔がこちらを向いていないのだ。悠仁は先ほどの攻撃が自身へターゲットを向けさせる攻撃になってしまったと考えていたが、それは誤りで…。
「ランダムターゲットかっ!」
ターゲットが悠仁に移ったのではない。ランダムターゲット。上位モンスターに見られる特徴、なぜそれを考慮していなかったのか。絶望しても遅い。ワイバーンの口からオレンジ色の火球が、よりにもよってカインとアリスのいる場所に向けて放たれた。眠るカインも、立てぬアリスも、その場から動けない。それを見たフルールが走り出す。しかし、フルールの足をもってしてもさすがに火球よりも早く動くことは無理だ。
「Yujiさん!あれをっ!」
それはフルールもわかっているようで、悠仁に指示を飛ばしてくる。あれ、ただの指示語なのだが、悠仁には何を指しているのかが手に取るように分かった。長く組んだ仲間の、たった一言。悠仁は杖を構えて、持てる最大の魔力を注ぎ込んで詠唱を開始する。
「律せよ其の心 朱く染まる騒擾の中でも 常に蒼く響け」
全力で走り始めたフルールは、カインに向けて一直線に走り出す。離れているにもかかわらず、目で追うのが精いっぱいな速度で。火球とフルール、どちらが先に届くか――その差はもう、瞬きひとつ分しかない。悠仁は狙いが逸れないようにしっかりとそれを目で追って魔法を発動する。
「コンセントレーション!」
魔法が発動した瞬間、フルールの姿が消えた。
ドォォォォオオンッッ!!
直後、轟音と共にカインたちがいた場所が黒煙に包まれる。地面が震え、足の裏から衝撃が突き上げてくる。
「アリスッ!カインッ!!」
噴石が火口から飛び出すように、巻き上げられた黒煙から土や石がボンボンと飛び出して、飛んでいる。熱を帯びた風が、悠仁の頬を叩いた。
(くそっ…どうなった…!)
黒煙のせいで何も見えない。アリスも、カインも、それらを助けに行ったと思われるフルールの姿も。煙の壁の向こうは、ただの黒だ。
(どこだ…。)
これはHOPE。数値化された命は、いくら努力しても時に紙切れのように容易く消え去る。それを何より知っている悠仁は、崩れ落ちそうな膝を右の拳で殴りつけて走り出す。アリスのアクセラレーションがなければ動けすらしなかっただろう。悠仁が走り出したその時。
ボンッ!
くぐもった音を立てて、一際大きい塊が地面に落ちた。
(!?)
そして、それは驚くことに動き出したのだ。悠仁が目を凝らして見ると、煙の中で蠢くその塊が、ゆっくりと形を取り戻していく。そこには全身が黒く染まった仲間の姿があった。
「アリスッ!カインッ!フルールッ!」
コンセントレーションをかけられたフルールは常軌を逸した速度と、判断速度の上昇によって2人の救出に成功したようだった。それが見えた悠仁、ミーナ、ステラは束の間の安堵を漏らす。無事ではない、ただ死んではいない。それでも、その一線の差が、今は何よりも大きい。
「………。」
立ち上がったのはアリスとフルール、カインは相変わらず地面に倒れている。そんなカインのことはアリスが対応しているようだった。煤に塗れた手で、それでも傷口を押さえている。
「よかっ……。」
安堵を口にしかけた悠仁の声が、途中で止まる。フルールの顔は血で赤く染め上げられており、豊かな表情は能面のように消えていた。
「……ぃ………に……。」
何かをぶつぶつ口にしているようだが、離れている悠仁には何も聞こえない。ただ、ただ事ではない空気に包まれているのは間違いない。背筋を、冷たいものが撫でていく。
「深冷な水底に私は居る」
突然フルールの口が動き出す。攻撃を放ったワイバーンは何事もなかったかのように体を起こしているが、その動きは少し精細さに欠けている。流石に今の攻撃はそれなりの体力を使ったのだろう。フルールは、そんなワイバーンを視線だけで殺すかのような威圧感で詠唱を続ける。一歩、また一歩と、ワイバーンへ向けて歩を進めながら。
「嗚呼寒い冷たい何故私はここにいる 憎い憎い何故私がここにいる 瞋恚に塗れた指先は 氷の如く冷たく 罪無き者を引き込んだ」
背筋が凍るとはこのことだろう。比喩表現はない、辺りの気温は急激に落ち始めワイバーンの周囲の草は白く凍り始めている。まだ魔法名を口にしていないのに変化し始めている環境。吐く息が、白い。深く考えなくてもまずいことはわかる。
「ちょっ…!!」
危険を感じ取ったミーナがワイバーンから距離を取って悠仁の近くまで撤退する。
「まずいっ!」
ミーナが下がってきた。理由はわからないが、フルールが周りを見ずに行動しているのは間違いない。ワイバーンも危険を察知したようで回避しようとしたが、凍り始めている足元がそれを許さない。翼を広げるが遅かった。どんどんと下がっていく気温、使用者であるフルールは涙を流していたがその涙も地面に落ちる前に凍り付いていた。頬を伝う筋が、そのまま霜の線になる。そして前兆が実現する。
「ラースサイレンス」
フルールが魔法名を口にすると、鳥肌が止まらないような気温にまで落ち込んでいる辺りは少し薄暗くなる。そしてさらに気温が低下し、空気中に含まれている水分はダイヤモンドダストのようにハラハラと地面に落ち始めた。光の粒が、音もなく舞う。そしてその時が訪れる。
ガシャンッッ!!
突然の爆音。これから何かが起ころうとしているとわかっている悠仁達ですら竦み上がってしまうその音には、恐怖と憎悪が混じっていた。音源であるワイバーンの足元を見ると、巨大な氷の手と思しき物ががっしりとその足を掴んでいる。
ガシャンガシャンガシャンッッ!!
機械の動作音のようなけたたましい音を出しながら、地面から氷でできた手が伸び続ける。足、腰、翼の付け根とどんどんその手を伸ばしていく。まるで自分と同じ側に堕とそうとしているかのように。
パキパキパキ……。
氷の手で掴まれている場所からパキパキと音がしている。どう考えてもそれは体表面が凍り付いている音だ。鱗の一枚一枚が、白く凍て付いていく。
『ァァァアアアアア!!ガッガッ…!!ギッ…!アッァッ……』
選択を誤ったワイバーンの首へ氷の手が到達する。その手は顔にまで至り、その口を覆いつくす。殺人鬼が罪無き人を溺死させるように。もがく翼が、軋みながら動きを止めていく。そして時までもが凍り付いたと思われたその時、フルールが口を開く。
「アリスさん、あれを。」
声は、凪いでいた。先ほどの威圧が嘘のように静かで、それがかえって悠仁の背を冷やした。
「ひぅ…。え、あ、はいっ…。」
少し怯えたような声を出してしまったアリスは、悴む手で杖を握り、震える声で詠唱を始める。
「わ、我は主の従順なる僕 我を害することは主に仇為すことに等しく その罪は死を以ってのみ赦される 主はここを終わりの地と定めたり 故に罪を償い地に還れ」
レッドキャップの時に使用したあの魔法。ワイバーンが絶命しているかどうかわからないが、この状況で使われれば絶命することは確実だろう。凍り付いた時間と空間の中でそれを邪魔するものなどいるわけもなく、予定調和のように発動される。
「パニッシュメント」
サァァ……。
暗くなった空間に、暖かな光が差し込む。氷の冷気の中で、その温もりだけが場違いに優しい。光の中からは水色の巨大なメイスを持った大きな腕が出現する。それを振り上げる瞬間、大気が持ち上がり、体まで持っていかれるような感覚に襲われる。
ズンッ……。
ワイバーンが小さく見えるほどのメイスは、アリスの指示によって振り下ろされる。可聴限界を超えた音は、最初の着弾音だけが聞こえ、後は無音になる。悠仁達の聴覚を奪い去ったその一撃は、ワイバーンを新聞紙でできた城のようにぐしゃりと潰し去る。砕けた氷と鱗の破片が、音もなく宙を舞った。
「……。」
誰も口を開かない。耳鳴りだけが残った世界で、目の前で起きた状況を脳内で整理している、そんな時。
「……ぁ。」
ドサッ……。
「フ、フルール!」
突然倒れこむフルール。それによって思考が働きだす。止まっていた時間が、また流れ出す。
「そ、そうだっ!カイン、カインを!!」
悠仁が叫ぶ。それを聞いたミーナが走り出す。ミーナを追ってアリスとステラが動き出す。フルールに何が起きたのかはわからないが、それでも致命傷にはなっていないだろう。問題はカインだ。出血は完全に止まったわけではない。悠仁はフルールに申し訳ないと思いつつ、地面に横たえてカインの場所まで走る。
「ど、どうだっ!!」
「今すぐに治療を受けないとっ…!」
アリスが顔を青くして悠仁に叫ぶ。アリス自身の顔色も、決していいとは言えないのに。
「ステラ!あのスクロールを!」
「はいっ!」
ステラは収納の中からスクロールを1枚取り出す。今にもボロボロと崩れ落ちそうなそのスクロールを丁寧に開封し、魔法名を口にする。指先が、慎重に紙の端をなぞった。
「クイーンズリターン」
帰還を表すその魔法を口にした瞬間、ステラとカインの体は黄色い球体に包まれ、それが集束した時、そこにはもう姿がなかった。後には、踏み荒らされた地面だけが残る。
「間に合ってくれ…。」
「悠仁さん、私たちも…!」
「そうだな…。ミーナ、フルールを背負ってもらえるかっ?」
「わ、わかった。」
ミーナが意識のないフルールを背に負う。血に濡れた体が、ぐったりと重い。
「アリス、頼んだ。」
アリスはこくりと頷いて杖を構える。既に魔法を過剰使用しているためポーション酔いが酷いだろうが、ここは耐えてもらうしかない。
「風よ 彼の者達の背には重すぎるその荷を どうか一緒に背負ってあげて」
フルールを背負ったミーナが戻ってくるタイミングで杖を振る。
「アクセラレーション!」
悠仁達の体が緑色の光に包まれて体が軽くなる。馬を逃がしてしまった以上、徒歩で帰るしかない。悠仁達は戦闘後の体に鞭を打ち、死体の回収もせず街へと走り出した。
ラースサイレンス(魔法)
エレメンタリストのみが使用できる6小節の水属性魔法。以前ウンディーネが住んでいた湖で自殺をした女性の恨みを魔法へと昇華させたもの。触れば全てが凍り付く氷の手が地面から出現し、対象を氷漬けにする。憎しみで塗れたその手は、誰であろうと逃がさず、水底へ引きずり込むだろう。
クイーンズリターン(魔法)
リターンの上位魔法。無属性の6小節魔法。6小節と言ってもこれを詠唱できる人物はおらず、魔具によってのみ発動が可能。リターンは1名のみの帰還だが、クイーンズリターンでは2名までの帰還が可能である。戻るのは一番最後に訪れた街の聖堂である。リターンでのみ使用されるポッドが用意されており、そこから帰還できる。上位魔法にキングスリターンがあり、3名までの帰還が可能である。




