第五十五話
大きな水槽が光を通して煌めく。
大中小、様々な水槽の中。
色とりどりの魚が泳ぎ回る。
「……水族館って……久しぶり……」
「葵せーんぱい!
今日は楽しみましょうね!」
「華乃ちゃん……今日は誘ってくれて、ありがとう。
しかも、割引券まで……ちょっとお財布が厳しかったから……助かっちゃった。
(お洋服の代金で貯金も減るから…………今日を最後に節約、頑張らなきゃ……)」
白っぽいストライプのワイシャツ。
濃紺のトップス。
無難なスラックス。
デートと言うよりは、通勤用の服をそのまま着ているような葵の装い。
「葵先輩!
まずは何を見ましょうか?
イルカのショーは十時からで…………。
あ! セイウチもショーが有るみたいですよ!」
「イルカショー……セイウチって大きい方だっけ?
似た感じの動物で……あれ?
ラッパを吹くのはオットセイだったっけ?」
「たぶん?
ショーを見たらきっと分かりますよ!」
「そうね」
微笑み合う二人。
「……やっぱり……華乃ちゃんは、私服も可愛いね。」
華やかなフリル付きのトップス。
シンプルなマーメイドスカート。
服装が華やかなぶん、シンプルなピアス。
「だって、大好きな葵先輩とのデートですもん。
気合の一つも入ると思いませんか?」
「っ……あ、えっと……ご、ごめんね。
私…………あんまり、デートって感じの服じゃないね。」
人付き合いも無く、最低限の服しか持っていない葵。
デート用の服など、未知の領域だった。
「良いんです!
私が勝手に気合を入れているだけなんで!
それに……私は、葵先輩が横にいてくれるだけで嬉しいですよ!」
「華乃ちゃん…………ありがとう」
微笑む。
胸が温かくなる。
「さっ! 行きましょう!」
「うん」
差し出された手を取る。
「あっち!
あっちで、イルカショーが有るみたいですよ!」
「華乃ちゃん、慌てなくてもまだイルカショーまで時間が有りますよ」
早く早く、と葵を急かすように引っ張る。
大丈夫だと華乃へ微笑む。
二人は水族館の人並みに消えていくのだった。
大きな水槽の前。
ゆらゆらと漂う海月の群れ。
赤、青、紫……揺れながら、変わる色。
「…………きれい…………」
海月の水槽を見上げる葵の横顔。
何処か寂しげな微笑み。
変わる色に照らされて、儚く消えてしまいそうな風情があった。
「…………」
「……華乃ちゃん……?」
ビロンとカメラの電子音が鳴った気がした。
「葵先輩……ちょっと話しませんか?」
海月の水槽の前。
ベンチを指し示す華乃。
「…………?」
示された通りにベンチに座る。
「……葵先輩って……備品室の出来事って覚えてますか?」
「備品室……?」
唐突な華乃の問いかけ。
すぐには思い当たらない。
「…………何か、あった……あれ……?」
胸がざわつく。
何かを忘れている。
だって……あの日、逃げないと決めた……切っ掛けは……
「やっぱり、忘れてる。
……それが、自己防衛反応の健忘ってやつですか?」
「……自己防衛……?」
艶やかな唇。
何かが引っ掛かる。
「……備品室で二人っきりになって……私が葵先輩にキスしたんですよ」
華やかな笑み。
肉食獣の瞳。
溢れ出した欲に晒されて……
「っ…………わた、し……」
「……思い出しました?
まー……私が退室した後までは、わかんないですけど……ねぇ?
あのまま、犬飼さんって引き下がったんですか?」
「っ…………」
脳裏に蘇る余裕のない表情。
欲を押し留めるために深く吐き出された吐息。
目の前の葵を求める、煮え滾った瞳。
狼が低く唸るように、押し殺された感情。
『……誰にも、触れさせたくない女性ひとを……』
『……目の前で奪われかけて……何も感じないほど……余裕は、ありません……!』
『葵先輩が選んだ相手が……俺だったら、嬉しい……』
葵がもう……失ってしまった彰良からの想い。
「……何も、無かった……というか……」
あの時は……はっきりと告げられていないけど、彰良は葵を異性として見てくれていた?
「もう…………嫌われちゃった、から……」
胸が痛い。
この感情は、何なのか?
彰良といた時にだけ起こった現象。
動悸も、息苦しさも、胸が締め付けられる痛みも…………全部、彰良にだけ起こる。
「…………」
泣きそうな横顔。
苦しげな表情。
横目に見て…………
「……クソ犬のためじゃないですからね」
葵に聞こえないように、小さく呟く。
「……華乃ちゃん?」
「ねえ……葵先輩」
首を傾げる……無防備な葵。
「……キス、しても良いですか?」
「…………え?」
葵の顔を覗き込むように。
妖しげな色香を纏った華乃が囁く。
「私……葵先輩を泣かしたい訳じゃないんです。」
強い光を宿した瞳。
「備品室で、無理矢理キスしたのも反省しています。
……傷付けてしまって、ごめんなさい。」
「か、のちゃん……」
「もう、絶対に葵先輩を傷付けたりしません。
何よりも、誰よりも、大切にします。」
二人の距離が、顔が近付く。
ベンチの上で葵の手が、華乃の手に捕まる。
「ね? 私とキスして、私を……選んで……?」
一瞬だけ迷う。
「…………っ」
選べない。
だって、華乃への気待ちは親愛や友愛で……たった一人に向ける愛ではないから。
「……選べませんか?」
「っ……私は……」
「でしょうね」
「え……華乃ちゃん……?」
戸惑う葵に、華乃は美しく微笑む。
今まで見た、どの笑顔よりも美しく……輝く笑顔。
「すっっごく納得いかないし!
悔しくて堪らないけどっ!
……葵先輩の気持ちが、誰に向いているか知っていましたから。」
「私の、気持ち……?」
「ほんとーにっ!
あの時も言いましたけど、葵先輩って鈍いですよね。」
しょうがない人だと、華乃は苦笑する。
「敵に塩を送るのは、私のキャラじゃないけど……葵先輩のためだし」
「…………?」
一度だけ……目を伏せて、諦めも宿った微笑みを浮かべる。
「……キスしても良いですか、って聞いたのが……犬飼さんだったら、どーします?」
「っ……?!」
目を見開く。
頬に熱が集まる。
心臓が跳ねる。
「……ソレが、答えですよ。」
「いや、私は……」
否定しようとする。
嫌われてしまった相手に、不毛過ぎる。
「側にいたい、側にいてほしい」
「っ……」
「触りたい、触ってほしい。」
「華乃ちゃん……っ……」
「手を、繋ぎたい。
安心する。
特別になりたい。
……笑顔を向けてほしい……」
ぜんぶ……全部、思い当たる。
「ちが……」
「違いませんよ。」
逃さない。
逃げるなんて、許さない。
「……葵先輩は、犬飼さんが……好きなんですよ。
……もちろん、恋愛感情で……ね?」
「っ……わたしっ……」
息が詰まる。
突き付けられた。
逃げないと決めたのに……無意識に逃げていた感情。
「…………気が付いても……もう、遅いんだよ……っ……」
自分で言葉にして、自分で傷つく。
「だって……犬飼くんは……私のことを、きらいだもの……」
葵の存在を見なくなった彰良。
迷惑ばかり掛けて、嫌われた葵が出来ることなど…………何がある?
出来ることなんて、これ以上迷惑を掛けないように。
嫌われないように。
「…………」
奥歯を噛み締める。
葵に泣く資格なんてないから。
「葵先輩……賭けをしませんか?」
「賭け……?」
華乃の"賭け"という言葉に、眉間にシワが寄る。
「もし……犬飼さんが夜中の零時までに葵先輩を迎えに来たら、葵先輩の勝ち。」
葵の眉間に気が付かないフリをする。
「迎えに来なかったら、私の勝ち。
……葵先輩の全部を……私にください」
「……華乃ちゃん、そういうのは……」
「わかってます。」
葵の言いたいことは百も承知。
でも、華乃は引くつもりは無かった。
「あは!
私の勝手な賭けですけど、最後まで付き合ってくださいね!」
「…………犬飼くんは……来ないよ」
「だったら、私の勝ち!
明日の朝まで……一緒、ですね!」
「…………そう、だね」
困ったように微笑む。
一度目も、二度目の恋も…………壊れてしまった。
「……私なんかを欲しいなら……もらって、いいよ……」
自暴自棄になる。
「ありがとうございます!
葵先輩のこと、絶対に大切にしますね!」
微笑んで、抱き着く。
壊れかけた葵の心を引き留めるように。
「あ!
葵先輩、オットセイのショーが始まるみたいです!
良い場所が取られちゃう前に、移動しましょうっ!」
「……そうね」
儚く微笑む。
そんな葵に気が付かれないように……華乃は、スマフォを操作する。
「……塩を送るのは……マジで、最後だから。」
メッセージアプリ。
"送信完了"の表示が、一度だけ点滅するのだった。




