第五十三話
暗い雲から降り注ぐ雨。
一週間の始まりの月曜日の朝。
色とりどりの傘が会社のエントランスへ消えていく。
「おっはようございまーす、葵先輩!」
「おはよう、華乃ちゃん」
始業時間よりも、だいぶ早い時間帯。
まだ、出勤している人間もまばらな総務課。
「葵先輩!
金曜日はアンコ巻きをありがとうございました!
とっても、美味しかったです!」
「ありがとう。
金曜日は華乃ちゃんだけ残業をして貰って、ごめんね……」
「そんなことはないですよ!」
申し訳なさそうな葵に、華乃は微笑む。
「…………」
「……華乃ちゃん?」
明るかった笑顔。
急に真面目な表情で、華乃は葵を見つめる。
「何か……ありました?」
「え? 何も……ないけど……?」
困ったような葵の微笑み。
「……葵せんぱ……」
「おはようございます。」
さらに、問い掛けようとした華乃の声をタイミング悪く遮った。
「おはようございます、犬飼くん」
「っ……お、はよう……ございます……」
普段通りの微笑み。
その他大勢の……一人の先輩として、完璧な笑顔。
「……あのっ……ジャケット、を……」
「……ありがとうございました。
迷惑をお掛けして、すみません。
クリーニング代は、後日改めてお渡ししますね。」
「っ……いえ、自分は……」
「ごめんなさい、犬飼くん。
……私、お金関係はしっかりとしておきたいの。
人の好意に胡座をかきたくないから。」
きっぱりと線を引く。
超えられていたはずの…………先輩と後輩の距離。
――――始業のチャイムが鳴る。
週末を越えた、金曜日の不祥事という大嵐。
鳴り止まない電話の呼び出し音。
消えることのない保留のランプ。
通常とは違う、緊迫の業務に追い込まれていった。
午前中、正午を過ぎても、減ることのない電話。
「……せんぱーい……もう、疲れちゃいましたぁ……」
「……私も……さすがに、堪えたなぁ……」
人も疎らな食堂。
通常業務であれば、誰も使用しない時間帯の食堂。
「……交代……休憩できるだけ、マシなんですかねぇ?」
「そうだね……交代で、ご飯食べれるだけマシなのかも……」
金曜日の夜の黒木が残した不祥事に対する会見。
一定の評価を得られたものの、クレームの電話が尽きることはない。
「…………葵先輩、犬飼さんと何かありましたよね?」
「ぶふっ……?!」
お弁当が食べ終わり、お茶を飲もうとした瞬間。
華乃から飛び出た問い掛け。
「っ……けほっ……か、かのちゃ……?!」
咳き込む葵の背中をさする華乃。
「私の目は誤魔化せませんよぉ」
「うっ……」
「で?」
「…………私、が……わるいの……」
事務服のスカートをギュッと握る。
「私が……犬飼くんに、迷惑をたくさん掛けちゃったから……」
「……迷惑、ですか……。
(……お犬様なら、それを逆手に取って……距離を詰めそうなもんだけど。)」
想像しただけで腹立つが。
「……男の人にね、慣れるための練習相手になってくれるって……。
ほら、犬飼くんは優しいから、人の嫌がることはしないでしょう……?」
「……あ゛?」
地獄の底から響きそうな声音。
心底、嫌そうな表情。
……視線を下げて呟く葵には見えなかったが。
「色々あって、金曜日と土曜日の夜に泊めてもらうことになって……」
「(……あの、犬っころ……!
私が残業させられているのを良いことにっ!)」
「……土曜日の夜にね、あき……犬飼くんが……男の人みたいな雰囲気で覆い被さって来て……」
「(マジ処す)」
「私……混乱して泣いちゃったんだと思う。
でも、それは……練習でしてくれたことで……私の、ためだったのに…………困らせてしまって……」
スカートを握る手に力がこもり、喉が引き攣る。
「…………日曜日にね、目を合わせてくれないし…………私、空気になっちゃったみたいで……」
「…………」
「一緒に居るのも嫌だったのかな……?
別の部屋に行っちゃって、眼の前で扉が閉まって…………私、嫌われちゃったみたい。」
「っ……何ですか、ソレ……」
涙を堪えている雰囲気はない。
……だって、堪えるだけの涙なんて、とっくに流し終わって枯れ果ててる。
「……無理に笑わなくて良いですよ」
「華乃ちゃん?」
勢いよく、葵の手を掴む。
「葵先輩!
明後日の祝日!
私と水族館へ行きましょう!」
「え……?」
「水族館の海月!
めっちゃ綺麗ですよ!
癒されること間違いなしです!」
「……そう、だね……私、行ってみようかな。
華乃ちゃんとなら……きっと楽しいだろうし。」
家族以外の誰かと初めて行くの、と表情が和らぐ。
……壊れそうな痛々しい表情が、和らいだことに安堵する。
「葵せーんぱい!
今日の定期の備品チェック、私が変わります!
……犬飼さんと二人っきりなんて……気不味いでしょ?」
「……でも、仕事に私情は……」
「ぶっちゃけますけど、ああいう電話対応って大っ嫌いなんです!
午前中だけで堪忍袋の緒が切れそうで……第一!
悪いのはっ!ぜーんぶ黒木の野郎しゃないですか!
今度会った時には!
あの尻を蹴り飛ばしてやるんですから!」
「華乃ちゃんったら……」
鼻息荒い華乃に笑ってしまう。
「だから、私が暴れるのを防ぐと思って……ね?」
「…………ありがとう、華乃ちゃん」
葵にも、華乃が自分に気を使ってくれていることが痛いほど分かった。
だからこそ、今回は甘えることにしたのだった。




