第五十二話
昨日と同じ二人で迎えたはずの日曜日の朝。
だが、少なくとも彰良を取り巻く空気は、明らかに変わっていた。
「……葵、先輩……すみません、その……昨夜は……怖がらせてしまって……。
しかも……女性に許可なく、触りそうになるなど……」
葵に抱き締められて、しばらく。
正気に戻った彰良は、葵から体を引き離し、床の上に正座していた。
「ううん……折角、慣れる練習をしてくれようとしたのに……私の方こそ、ビックリしてごめんね……」
彰良が床に正座したことで、葵も同じように床に座る。
「……慣れる……練習……?」
「え、違うの?
だって……彰良くんは、絶対に嫌なことをしないでしょう?」
「………………」
葵の純粋な信頼が痛い。
「……葵先輩……もし、万が一……自分が無体な真似をしそうになったら…………殺す勢いで殴って頂いて構いません……」
「大袈裟だよ、彰良くん。
彰良くんは、そんなことしないもの。」
「(…………距離、を取らないと……)」
たかが外れかけた理性。
万が一、億が一にでも、葵を傷つける真似などしたくない。
微笑む葵に、彰良は気持ちを新たにするのだった。
彰良が手配していた食パン。
葵ではなく、彰良がトーストして済ませた朝食。
「(…………なんか……へん……)」
昼食すらも、彰良がいつの間にか手配していたパスタを食べる。
「(……目が……合わない……)」
ぎこちない仕草。
噛み合わない視線。
減った口数。
固くなった表情。
…………何よりも、葵から三歩は離れて動く彰良。
「(……私……甘えすぎちゃった……)」
胸が苦しくなる。
「彰良くん、お昼ご飯をありがとう。
夕飯は私が何か作ろうかなって……」
無理に微笑んで、声を掛ける。
「いえ、先輩は無理をしないでください。
ゆっくりと過ごして頂いて構いませんから。」
「……そっか。」
取り付く暇もない。
「あの……私にできること、とか……して欲しいことって、あったり……」
「特に、何も思い付きません。
良かったら、テレビなど見ますか?」
「彰良くんは、一緒に……」
「いえ、自分には必要ありません。」
「…………そっか、ごめんね」
微笑む。
微笑む……が、どうして……こんなにも苦しいのか?
「…………」
葵の表情を見ることなく、彰良は無言で背中を向ける。
「っ……」
手を伸ばしかけて……やめる。
これ以上、彰良を困らせてはいけない。
寝室へ彰良の背中が消える。
葵の眼の前で……扉が閉じた。
「……っ……」
唇を噛み締める。
目の奥が熱くなる。
でも……泣くわけにはいかない。
「……かえらなきゃ……」
だって、ここは……私が泣いて良い場所じゃない……から……。
「…………」
自分の荷物を漁り、渡すはずだった封筒を確認する。
財布からありったけの一万円札を取り出して封筒へ入れる。
持っていたメモ帳に伝言を残す。
「…………」
玄関へ静かに移動する。
「……お世話に、なりました。」
彰良が準備してくれた着替えもすべて置き、着用してきたブラウスとスラックスの葵。
「……ありがとう……さようなら」
深々と頭を下げる。
葵は……振り返ることなく、彰良の自宅を後にしたのだった。
物音なく静かな部屋。
寝室にこもり、特に何をすることもなく時間を消費する。
「……そろそろ、夕飯を用意しないと……」
寝室の扉を開ける。
見回して……気が付く。
「葵、先輩……?」
探す。
嫌な予感がする。
「っ……」
キッチンにも。
洗面所にもいない。
「……どこに……」
ローテーブルの上に気が付く。
メモ用紙と……見覚えのある花がらの封筒。
「ま、さか……」
どくりっ。
心臓が嫌な音を立てる。
震える指先でメモ用紙を取る。
『犬飼くんへ
この度はご迷惑をお掛けして大変申し訳ありませんでした。
犬飼くんが連れて行ってくれた奥多摩湖、とても嬉しかったです。
でも、私は知らず知らずの内に犬飼くんの踏み込んで欲しくない領域を踏んでしまったみたいです。
……何が優しい犬飼くんを傷付けたか分からない私が、これ以上犬飼くんに迷惑をかける訳にはいきません。
封筒の中身だけでは、用意してくれた着替えの料金には足りないと思います。
後日改めて郵便書留で追加の支払いをしたいと考えています。
……犬飼くん、貴方には本当に感謝の心しかありません。
今後は犬飼くんを傷つけ無いように、職場でも細心の注意を払います。
立花 葵』
息が止まる。
封筒を確認すれば、数枚の一万円札。
「…………っ」
玄関へ足早に向かう。
「……ない……」
葵のパンプスが消えている。
「……追い掛けて……」
追い掛けて……どうする?
嫉妬に耐えきらず、怖がらせた男が。
「……俺……は……」
ふらふらと……リビングに戻る。
ソファに力なく座る。
「…………」
傷付けた。
怖がらせたくなくて……
距離を置こうとして…………逆に、傷付けた。
「くそっ…………!」
声を掛けてくれていた。
急に態度が変わった、背中を向けた彰良に声を掛けてくれていた。
……そのすべてを跳ね除けたのは……
「……俺、に……追い掛ける、資格など……」
寝室の扉を閉めたあの時…………葵は、どんな表情をしていたのか?
葵に背を向けた彰良には……分からなかった。
「…………」
静寂に包まれた部屋。
夜の闇に沈んでいくのだった。




