第四十話
柔らかな朝の光。
鼻腔をくすぐる珈琲の深い香り。
「(…………し、おん……にいさ……?)」
珈琲の香りに誘われるように、葵の意識が浮上する。
「(……ん……あっ、たかい……)」
体に掛かっている柔らかな布の感触。
安心する感触を握り締め、引き寄せる。
「(……あ、きら……く……っ?!)」
引き寄せた感触、背広から微かにシトラスの香り。
急速に意識が浮上する。
「えっ……?!
なっ……え、わたし……」
文字通り、飛び起きた葵。
目を白黒させて慌てつつも、無意識に背広を抱き締めていた。
「……おはようございます、葵先輩」
「ひゃっ?!」
ソファの背もたれの向こうからの挨拶。
「あ、彰良くん……?」
「……はい」
「おは、よう……ござい、ます……」
気不味い様子の葵。
葵を直視できない彰良。
「彰良くん……私、寝落ち……しちゃった……?」
「先に……自分の方が、寝落ちして……しまいましたので…………すみません……」
「いえ……そんな……また、背広を借りてしまいました……」
「……自分が葵先輩に、背広を掛けたかったので。」
逸らしていた視線を葵へと向け、微笑む。
「葵先輩の役に立てて……良かったです。」
「っ……」
熱が集まる。
頬が赤く染まる。
だが……心臓が高鳴ることはない。
「(……なんか……彰良、くん……雰囲気が、変わった…………?)」
微笑んでいるだけなのに。
絡め取るような。
匂い立つような。
囚われそうになる、色気。
「葵先輩……?」
「あの、えっと……彰良くん……何かあった……?」
「……何か、とは?」
ラフな黒い服。
微笑みながら近付いてくる。
「……勘違いかもしれませんが……雰囲気が、変わったような…………気が、します……」
意識に反して、固まる体。
目の前に居るのは……安心できる相手のはずなのに、安心できない。
本能が警鐘を鳴らす。
「…………葵、先輩……」
名前を呼ばれた。
安心感を求めて。
背広を抱き締める手に力が籠る。
「…………葵先輩」
細い肩がビクリと揺れる。
「…………自分が頭を撫でられて……その……」
……雰囲気が緩む。
怖い、が霧散していく。
「……寝落ちしたことを……誰にも、言わないでくれますか……?」
「……え……」
「……いい歳をした男が、頭を撫でられて寝落ちするなんて…………誰にも、知られたくありません。」
張り詰めていた糸が緩む。
「そっか…………よかった……。
(いつもの……彰良くんだ……)」
「……良くはありません。
男子の沽券に関わる話かと。」
「うん……そうね、ごめんなさい。
(年下でも、彰良くんも男の人だから頭を撫でられて寝ちゃったなんて恥ずかしいよね。
必死に口止めしたくて、ちょっと怖い雰囲気になってんだ……)」
心の中でほっと胸を撫でおろす。
「葵先輩。
朝食を準備しましたが、先に洗面に行きますか?」
「えっ、朝ごはん……?!
ご、ごめんなさい、また泊めてもらった挙句、迷惑を掛けてしまいました……」
「迷惑などと思っていません。
…………自分がしたいことをしているだけですから。」
「うっ……ありがとうございます。
……彰良くんの優しさに甘えっばなしでダメね……」
思えば迷惑ばかりを掛けている気がして、葵は落ち込む。
「……その分、自分も我が儘を言わせて貰っていますから、お互い様かと。
…………それに、葵先輩にならもっと甘えて貰えると嬉しいです。」
「……そんなことを言うと、彰良くんにもっと甘えてしまうかもしれませんよ。」
「構いません。
葵先輩に甘えて貰いたい……いえ、自分が葵先輩を甘やかしたいので。」
優しく微笑む彰良に、葵の頬に熱が集まり、鼓動が高鳴る。
「葵先輩……?
頬が赤いようですが……風邪を引いてしまいましたか……?」
「っ…………?!」
違和感のない自然な流れで、葵の額に彰良の武骨な手が添えられる。
「……熱は……無いようですが……?」
ビクリと揺れた体に気が付かないフリをして、額から手を離す。
「あ、彰良くん……だ、いじょうぶ、ですから……!」
「……もし、体調が悪いときは教えてください。
自分が寝落ちしたせいで、葵先輩に風邪をひかせるなど……」
悲しげな瞳。
葵を案じている優しさだけを感じる。
「……彰良くんって、異性にモテるでしょう……?
なんか……慣れてる、気がします。」
「いえ……恥ずかしい話ですが、葵先輩に出会うまで他人に興味が無かったので。
異性とお付き合いした記憶は有りませんね。」
欲の発散だけはしましたが、という言葉は胸の中にしまっておく。
「だから、葵先輩のように温かい手料理をご馳走してくださったり、一緒の時間を過ごしたり……。
隣で微笑んでくれる……初めての経験ばかりです。
…………自分は体格も大きいですし、無愛想なので、女性には怖がられますから。」
苦笑する彰良に、葵の胸が苦しくなる。
「……彰良くんは、怖くないです……。」
彰良の服の裾を指先で掴む。
悲しみを労るように言葉にする。
「……体は大きいけど、怖がらせないようにゆっくりと動いてくれるでしょう?
いつも……私を気遣って、言葉を選んでくれているってわかるもの……」
「……葵先輩にだけですよ。」
幸せそうに微笑む。
「葵先輩。
珈琲を淹れ直します。」
「えっ……さ、冷めてても大丈夫……」
「料理は得意ではありませんが、珈琲ならば人並みに淹れることが可能です。
……葵先輩には、美味しい珈琲をご馳走したいので。」
「……ありがとうございます」
彰良は微笑みとともに葵を洗面所へ促す。
「(……やはり、欲を見せると怯えさせてしまう、か……。
葵先輩に側に居て貰うためにも……気を付けないと……)」
洗面所へ向かう葵の背中を見つめながら、彰良は目を細めるのだった。




