第三十五話
タイル調の壁や床。
キッチンと繋がるカウンター。
小さめのハイテーブル。
大理石風のローテーブル。
マットな質感の大きなソファ。
ダークグレーを基調として、大理石風の素材で統一された彰良の部屋。
「……お、お邪魔します……。
(……彰良くんの、お家にお邪魔したのは二度目だけど……も、ものすごく緊張する…………!
ご、ご飯とか、絶対にこぼせない……!)」
個人宅というよりは、まるで完璧に整えられたモデルルーム。
「葵先輩、キッチンは此方です。」
「はっ、はい……!」
「…………?
何故、そんなに緊張されているんですか?」
彰良の家に足を踏み入れた瞬間から、何故か緊張して身体を小さくしている葵。
自分よりも小さい体を、更に小さくして移動している様子に彰良は首を傾げる。
「…………万が一にも、汚したら大変だと思って……」
「葵先輩はワザと汚すような方では有りません。
それに、汚れた場合は掃除すれば宜しいかと。」
「そ、そうなんだけど……」
「……必要ならば、ハウスクリーニングを頼みますので問題ありません。」
黒縁眼鏡を外すついでに、スマフォを取り出す。
「……あ、彰良くん、ぜったいに汚さないように頑張るから……!
だから、ハウスクリーニングを今すぐに手配しようとしちゃ駄目です……!」
予約しようとした彰良を、葵は必死で止める。
「っ…………?!」
「ダ、ダメですよ!
お願いだから止まって……!」
指先の動きを止めようと慌てた葵は、彰良の腕に縋り付く。
「……わか、分かりましたから、葵先輩……!
ハウスクリーニングの予約は入れません……!
だ、だからっ……ちょっと落ち着いてください……!」
「ほんと……!
ほんとに、頼みませんか……?」
「っ……はい……」
良かった……と葵は胸をなで下ろす。
焦った葵は全く気が付いていないが、半歩分あった二人の距離はゼロになっていた。
「……あ、葵先輩……その、キッチンは……此方に……」
「あ……彰良くん、案内してくれるのを邪魔してごめんなさい。」
「いえ……」
落ち着きを取り戻した葵。
だが、自分が彰良の腕に縋り付いた自覚はないようだった。
「(……あ、おい先輩……の……身体、が……っ……)」
葵が触れた腕が熱を持つ。
「(……か、間一髪というか……。
私のせいで彰良くんにいらない出費をさせちゃうところだった……)」
胸をなで下ろした葵。
「……葵先輩」
「あ、はい……!」
「その……此処がキッチンです。
……調理器具など必要な物はありますか?」
「えっと、フライパンとか色々……必要なんだけど……」
調理に必要なものは、たくさんある。
自分の家ではない以上、勝手に引き出しを開けることは嫌だった。
だが、その都度に彰良へと声を掛け、その手を煩わせることも嫌だった。
「……もし、良ければ……ですが、葵先輩が調理されている間、側にいても良いですか……?」
「え……でも、疲れてるだろうし……」
「疲れていることは、葵先輩も同じかと。
……自分の我が儘に付き合わせていますし……。」
熱を冷ますためにも逸らしたい瞳を耐え、迷う葵を見る。
「それに、自分が側にいた方が……効率的かと思います。」
「……そう、だけど……でも、ね……彰良くん。」
「……はい」
「……半分は……私の、我が儘……かも、です……」
自分の服をキュッと握って、葵は恥ずかしそうに微笑む。
「……彰良くんの家にお邪魔するのは、予想外だったけど…………彰良くんと話したいな、って思ったのは本当ですし……」
「っ…………葵、先輩……それ、は……卑怯です……!
(この人は……自覚がないのか……!
余裕がないと言った……男の家だと……っ……!)」
「……?
えっと……どうして、今卑怯なのかは分かりませんけど……。
彰良くんも、私に対して卑怯なときがありますので、お互いさまかな……と。」
くすくすと笑う葵。
身長差ゆえに見下ろす彰良の視界。
ブラウスの隙間から覗く細い首筋。
唇に添えられた細い指。
……血色の良い唇を塞いだら……どんな表情をするだろうか?
「っ……」
速くなる鼓動。
逆巻く血流。
喉が鳴る。
唇が乾く。
「……彰良くん?」
無防備すぎる、愛する女性。
奪いたい。
……奪いたく、ない……。
「……葵、先輩……」
「…………?」
震えそうになる指先を、ゆっくりと伸ばす。
彰良を見上げる無垢な瞳に映る……獰猛な雄の顔。
「っ…………葵、先輩……髪に、ゴミが……」
暴れかけた欲を、理性でねじ伏せた。
「え……あ、ありがとう」
彰良の言葉を疑うことすらしない葵。
気が付かれないように深く息を吐き出し、拳に力を込める。
「……葵、先輩……少しだけ顔を洗ってきても良いですか……?」
「はい、分かりました。
彰良くん、材料などを広げていても良いですか?」
「はい……すぐに、戻りますので……」
ふらりと立ち去る彰良の背中。
「…………きっと……仕事を頑張り過ぎたのね。」
疲れたときは美味しいご飯!と葵は気合を入れなおすのだった。
大きな鏡と大理石風の洗面台。
「………………」
蛇口の下に頭を差し出し、全開で水を流す。
「…………っ……!」
固く閉じた瞼の裏側。
葵の姿が浮かんでは消えていく。
「……………はぁ……」
身体に籠もった熱が、水を被った分だけ収まる。
「…………っ」
傷付けたくない。
賭けの対象にされたのだ、と語った葵。
欲に任せて触れたら……消えてしまいそうな……最愛の人。
「…………もう、戻れないんだ……!」
葵に出会うまで……白黒だった彰良の世界。
笑顔の仮面の下に欲望を隠した人間。
敵意、悪意、殺意……。
天才気質で、精神発達も早かった彰良。
家族以外に彰良が興味を持つ存在など……無かった。
「…………葵、先輩……」
拒否することも面倒だった父親の勧め。
暇潰し半分に入社して……葵に出会った。
彰良と同じように、他者に壁を作っているにも関わらず…………他者を気に掛け、支える葵。
「はやく……はや、く……」
"俺を選んでください"
その一言は音になることなく、流水と共に流れて消えていった……。




