第三十二話
営業部から始まった大混乱。
一旦は総務課で落ち着きを取り戻したものの、社長室や法務部へと余波は拡大した。
「……本日の20時に会見を開く方針で決まった。」
社長室より戻って来た吉村が、総務課社員を前に告げる。
「皆の活躍により、黒木の関わった案件から追加で三件……問題の確認が取れた。
……此処からは管理職の領域となる。」
やる気のなさそうな気怠げな雰囲気。
だが、その瞳は爛々と輝いている。
「営業部に出向いている佐山くんと兼子さんを除き、総務課社員は原則としてすぐに帰宅してくれ。
そして、会見に関する一報を受けて集まったマスコミに捕まったとしても、担当者に確認するようにと答えてくれ。」
既に定時を過ぎて五分。
吉村は今一度、総務課内を見回す。
「ことがことだ。
……万が一、マスコミに追いかけ回されたり、恫喝されるなど被害が有れば……構わん。
俺が責任を取るから、躊躇わずに警察に連絡してくれ。」
今も昔も質が悪い奴は一定数いる、と吉村は眉をしかめる。
「何か有れば、必ず俺に連絡を取ってくれ。
……まぁ、個人ケータイが恥ずかしかったら、会社に電話でも良いぞ。
これから三日間は、残業が確定だからな。」
金土日と、社長を含む管理職たちは問題の解決に向けて、会社に引き籠もる覚悟を決めていた。
「じゃあ、今日は皆お疲れさん。
気を付けて帰れよー……あ、今日は寄り道するなぁ。」
気が抜けるような言葉を残し、頭を掻きながら総務課を後にした吉村。
吉村が去ったことで、総務課社員達はそれぞれに帰宅の途に付き始める。
「(……華乃ちゃん、大丈夫かな……。
有馬主任に華乃ちゃんの分のアンコ巻きは渡してもらうようにお願いしたけど……)」
華乃がいる営業部を一度覗いて帰ろうかと考える。
「……立花先輩」
帰り支度を進める葵に影が差す。
「犬飼君……?」
「……送ります。」
「え……?」
「女性の方が、絡まれやすいかと。」
確かに、と葵は納得する。
「ありがとうございます、犬飼君。
よろしくお願いします。」
「……はい」
素直に彰良の好意を受け取り、葵は微笑みを返す。
彰良は、一瞬だけ目を逸らす。
「あのですね、兼子さんの様子を見てから帰ろうかと……」
「やめることをお勧めします。」
葵の言葉を遮る。
「急な残業ですし、お夕飯の買い出しとか……」
「佐山先輩がいますし、有馬主任もいますので問題ないと思います。」
「……そっか……あの二人がいるなら……」
「それに、吉村課長が速やかに帰宅することを推奨していました。」
「……そうね。
私が余計なことをしない方が良いですね。」
少しだけシュン……とした葵に、彰良は微かに罪悪感が湧く。
「……余計なこととは、思っていません。
先輩の優しさは、美徳です。
ただ……自分の、立花先輩が危険に巻き込まれて欲しくない……という、我が儘です。」
「え……あ、うん……心配してくれて、ありがとう……」
何となく気恥ずかしい雰囲気になってしまった二人。
どちらともなく、エントランスに向けて歩き出す。
「…………」
「…………」
会社のエントランスには、既に一報を受けた記者やカメラマン達の姿がチラホラと目立つ。
マスコミに捕まらないように複数人で固まり、足早に最寄り駅を目指す社員達。
「……先輩、此方へ。」
「えっ、犬飼君?
そっちは駅とは正反対……」
「……?
ああ、すみません。
自分は電車を利用していないので。」
「電車じゃない……?」
「はい、車で出勤しています。」
真面目に返す彰良に、葵は気を使わせてしまったと慌ててしまう。
「そ、そうなのね……。
い、犬飼君、車通勤なのに、ごめんなさい。
私、今からでも一人で大丈夫だから……」
「……二人です。」
「え……?」
「二人っきりの時は……名前で呼ぶ約束です。」
ふいっと拗ねたように逸らされた視線。
「…………最近、二人になる時間があまりなく……呼んでもらう機会が少なく…………寂しい、と……感じていました」
「っ…………」
彰良の微かに染まった頬に気が付き、葵も視線を下に向ける。
「あ、の……彰良くん……」
「っ……はい……」
下に向けていた瞳を上げ、隣を歩く彰良を見上げる。
「わたし、も……さっき……寂しいな、って思ったんです……。
彰良くんと……二人になる時間が、無いなって…………」
「葵、先輩…………同じ、ですね。」
「そう、ね……同じ、ね。」
くすり、と微笑み合う。
「……もし、宜しければ……」
「……はい……」
「……逸れないように、手を繋ぎませんか……?」
「っ……えっと……」
少しだけ戸惑い、葵は視線を揺らす。
「嫌ならば、無理にとは……」
「……ううん……嫌、じゃない……」
「え……良いんですか……?」
葵の予想外の答えに、彰良は目を丸くする。
「……どうして、驚くの?
だって、一度は繋いだこと……有りますし……」
「っ……あのときは……その、緊急事態でしたから、自分も許可も取らずに失礼な真似を……」
「……失礼、なんかじゃ無いです。
だって……嬉しかったから……」
半歩だけ離れた二人の距離。
頬を染めて、柔らかな笑顔を浮かべた葵。
彰良の体の熱も上がっていく。
「……失礼します」
「……はい」
繋がった二人の手。
痛くないように。
だが……しっかりと離れないように重なった手。
「…………」
「…………」
二人は言葉を交わすことなく歩いて行く。
しかし、無言の二人の間には言葉にはしなくても、柔らかな空気が満ちていた。




