第三話
静かなオフィスの中をカツカツと革靴の音を立てながら去って行く拓矢の背中に向けて、葵はため息をつく。
「……犬飼君、巻き込んでごめんなさい。」
内心では拓矢に対し本当に面倒くさい男だと舌を出しながら、葵は庇ってくれた彰良へ謝罪の言葉を口にする。
「いえ……その、すみません。
かえってご迷惑だったのでは……?」
余計なことをしたのではと眉を下げる彰良に対し、葵は微笑む。
「いいえ、私も困っていたから助かりました。
犬飼君、本当にありがとう。」
「それならば良かったです。」
葵の感謝の言葉に彰良は困ったように微笑みを返す。
「ただ……その、しばらく時間をおいて帰った方が良いかもしれません。
……黒木さんは、その……執念深そうと言いますか……」
「そうですね。
あの手のタイプはプライドが傷付くと面倒な性格ですから……」
ため息交じりの心底嫌そうな葵の言葉に、彰良は目を瞬かせる。
「あ……犬飼君は帰って大丈夫ですからね。
私のことは気にはしなくて良いですから……」
「いえ、自分も一緒にいます。
引き返してくるか、待ち伏せする可能性はゼロでは有りません。
……それに、その……立花先輩がお嫌でなければ……話をしてみたくて、ですね。」
「……嫌ではないけれど……私、と?」
微かに頬を赤らめてオドオドと葵の気持ちを、彰良は自信なさげに確認しようとする。
その姿に、拓矢を前にした時の頼もしさは影を潜めていた。
「話すのは構わないけれど……私は、面白い話なんてできないけれど……それでもいいですか?」
「はい、是非!」
助けてもらったし、と思いながら葵は遠慮がちに尋ねれば、彰良は満面の笑顔で嬉しそうに答えた。
「(本当に大型犬に懐かれたみたい……)」
葵には飼い主に構ってもらえて嬉しくて尻尾をブンブン振り回すゴールデンレトリバーが彰良に重なって見えた。
「では、立花先輩にお尋ねします。
先輩は数字に強いと言うか、経理部に所属されていましたか?
それに、宛先間違いで英文メールが送られてきた時も慌てていませんでしたし……。」
「……えーっと……うん、まぁ……。
(そう来たか……あんまり手の内は晒したくないんだけどなぁ……)」
予想外の話題を振られて視線を逸らす葵を、黒縁眼鏡の奥の瞳がジッと見つめる。
「えー……手習いに齧った程度……」
「齧った程度で財務諸表が読めますか?
ガッツリとした英語の長文を日本語レベルで読み解けますか?」
「…………。
(バレてーら。
お尋ねってレベルじゃなくて、コレは当てに来てない?
あれ……?
でも、それって逆に……)」
確信を持って尋ねられた内容に、葵は内心で舌を巻く。
しかし、葵は彰良の言葉に小さな引っ掛かりを覚える。
「……犬飼君」
「はい」
「私が数字に強いとか、財務諸表が読めるとか……。
英語の長文メールが勘違いで送られてきたとか、何でわかるんですか?」
「……あ……」
葵の問い掛けに対して彰良は「しまった」という表情を浮かべる。
「私の能力を判断できるレベルの知識が有るから分かることですよね?」
「それは……その……」
「入社二年目の一般社員レベルの知識ではないと思いますけど……?
(好奇心は猫を殺す、的な?
猫って言うよりは大型犬だけど。)」
逸らしていた視線を彰良へと葵が真っ直ぐに向ければ、今度は彰良が葵から視線を逸らした。
「ごめんなさい、踏み込み過ぎましたね。」
「いえ、その……自分こそ、踏み込み過ぎてすみませんでした。」
何方からともなくクスリと笑って、葵と彰良は謝罪を交わす。
「本当にすみません……自分は最近、その……立花先輩のことが気になっていて……」
「私のことがですか?
それは……珍獣的な意味合いで?
(まぁ……こんなに冷めた可愛げのない女は珍しいよねぇ……。
同僚からは地味子呼ばわり、後輩からは珍獣扱いか……。)」
「違います!
そういうことではなく!」
とうとう珍獣扱いか、と乾いた笑いが零れ落ちそうな葵に対し、全力で手を振って彰良は否定する。
「ちがっ、違うんです!
えっと、その……ものすごくプライベートに踏み込んでしまう質問ですし……」
「…………?」
だけど、でも……と迷っている様子の彰良を首を傾げて葵はジッと眺める。
「あの……もしお嫌でしたら答えなくて構いません!
ただ、その……黒木さんとの関係が不思議だなぁ……と。」
「……!」
遠慮がちに問いかけられた内容に、葵は苦笑する。
「やっぱり、気になりますよね。
……うん……犬飼君は助けてもらったし、巻き込んじゃったから……」
しょうがないよね、と諦めたような、何処か悲しげな表情で葵は話し始めるのだった。




