第十七話
美しく華やかなのに、猛毒を含んだ捕食者の笑い声。
扉の閉まる音が嫌に大きく響き、華乃の足音が遠ざかって行く。
「(わた、し……っ…………だめ…………!」
差し出してしまった心。
許してしまった……素肌に触れる感触。
強引に求められ……最後は許してしまった"過去"の自分。
「(いや……なのにっ…………!
……突き飛ばせた……はずなのにっ……)」
蘇る過去の亡霊。
忌まわしい記憶の破片。
「(……どうして……突き飛ばせなかったの……?
…………わたし、は……本当に、いや……だった……?)」
揺れる瞳。
「(いや、だった……いやだったはず、なのに……どうして、動けなかったの……?)」
浅くなる呼吸。
「(……わたし……また、くりかえすの……?)」
過去の痛みと否定の海に、沈んでいく心。
「……葵、先輩」
……だが、沈み掛けた心を掬い上げた声。
「っ……!」
押し殺した低い声で呼ばれた名前。
ビクリと跳ね上がる心と体。
「……あ、あの……!
ご、ごめんなさい……い、ぬかい、くん……!
もう……だい、じょうぶ……だから……」
「何を、考えていたんですか……?」
離して、と続けられるはずだった言葉は遮られた。
「え……な、なんでもな……」
「誤魔化さないでください……」
「あ……え……?」
抱き締める力が一瞬だけ、息苦しい程にきつく締まる。
「……彰良、です……」
「犬飼、く……」
「お願いします……葵、先輩……今だけ、今だけは……名前で、呼んで欲しい……」
苦しげに寄せられた眉。
震えて掠れた……低い声。
「…………あ、きらくん……」
「っ…………!」
逡巡しながらも呼ばれた名前。
ピクリと反応する大きな体。
「自分、は……俺は……あんな風に、見せ付けられて……黙っていられるほど、綺麗ではありません……!」
零れ落ちた本音。
「彰良、くん……お、ねがい……まっ……」
聞きたくない。
これ以上、突き付けられたくない。
……自分の、弱さを……
「……誰にも、触れさせたくない女性を……」
狼が低く唸るように、押し殺された感情。
「……目の前で奪われかけて……何も感じないほど……余裕は、ありません……!」
彰良の隠されていた感情が滲む。
「…………っ」
喉の奥でつっかえ、出て来ない言葉。
少しでも距離を取ろうと身じろぐ。
「葵先輩……お願いです……逃げないでくれ……」
「……わ、わたし……」
耳元で囁かれた、溢れ出しそうな熱を押さえ込んだ声。
「どうか……離れないで……」
お互いの鼓動が聞こえそうな距離。
暴れる心臓。
それは……混乱や恐怖、それとも別の何かだろうか?
「……彰良、くん……」
縋るように、弱々しい声。
顔を上げれば、重なる視線。
黒縁眼鏡の無い、涼やかな目元。
「……俺が……怖い、ですか……?」
「……こわ、い……?
……わ、からない……でも……」
思い出すのは……葵を助けようと駆け付けてくれた姿。
酔って眠った葵を傷付けなかった……心を守ってくれた彰良。
「……彰良、くん……は、怖くない……気がする……」
「っ……!」
震える声と喉が鳴る音が重なる。
「すこしだけ、怖い……けど、彰良くんは……安心、する……」
怖いのに……安堵する。
安心感のある背広。
ギュッと握って、勇気をもらうように無意識に溢れた言葉。
「……やっぱり……葵先輩は、卑怯だ……!」
肺に溜まった熱い息を吐き出す。
「彰良くんに……うそは、つきたくない……から……」
過去の痛みが消えることはない。
怯えて竦む心は嘘じゃない。
……だが、側にいたい……離れたくない、と願う自分も……確かにいた。
「……葵先輩……」
吸い込まれるような深い色の瞳。
近付く二人の距離。
「……嫌なときは、言ってください。」
本当は……華乃のように有無を言わさずに奪ってしまいたかった。
「……今は……まだ、止まれます、から……」
だが、その行為が葵を傷つけるならば……。
「…………」
早まる鼓動。
出せない声と惑う心。
「(……彰良くん、から……逃げたくない……)」
揺れる瞳を閉じることも出来ず、見詰め続ける。
「…………っ」
背広を掴む指先に力が籠る。
「……葵、先輩……」
罅が入った理性。
二人の吐息が交わり、唇が近付く。
「……っ……」
身体に力がこもり、固く目を閉じる。
そして、唇が重なる…………寸前に、彰良は動きを止めた。
「っ…………」
近付いていた顔を離し、苦しげに大きく息をつく。
「……すまない……」
低く、掠れた声。
「……葵先輩に……無理を、させたくない。」
重なることなく離れた唇。
「……これは……俺の我が儘です。」
「……あ、きら……くん……?」
変わりに、二人の額が重なる。
「俺を……いや、違うな……」
微かに首を傾げる。
「葵先輩が選んだ相手が……俺だったら、嬉しい……」
愛しさを隠すことなく、細められた瞳。
「……待ってますから……」
「…………」
胸の奥が熱を持つ。
重ならなかった唇に、寂しさを覚える。
「……ただ……すみません……」
身の内に燻る熱を、理性で押し殺す。
「……もう少し、もう少しだけ……このままで……いいですか……」
抱き締める腕の力が……微かに強まる。
「…………うん……」
懇願するような声。
葵は迷いながらも……微かに頷くのだった。




