第十五話
朝の大騒ぎが嘘のように会社は通常業務が流れ出す。
―――――良くも、悪くも、日常とはそんな物なのだ。
「結局……あの人は戻ってきませんでしたね。」
「ああ、黒木さんのことですか?」
会社の地下にある備品室で、定期チェックをする傍らに葵が呟く。
「……あそこまで騒ぎになって、お仲間と警察に連行されたら……すぐには戻ってこれないでしょうし……」
「好き好んで針の筵に戻りたいなど、余程の馬鹿かと。」
「犬飼くん……」
葵が躊躇った部分を、彰良が容赦なく引き継ぐ。
「……………二人っきりですが?」
「うっ……」
黒縁眼鏡の奥にある瞳が想像できる葵は、目を逸らす。
「……会社では……ムリ、です……。
これ以上……注目を浴びたくありませんし……その……」
葵は目を伏せて呟く。
「犬飼くん、に……もう、迷惑をかけたくありませんから。
(自分の意思で、アイツにやり返せたんだもの。
だから……きっと、もう……私は大丈夫……)」
朝の出来事を思い出して、かすかに震える指先。
誤魔化すようにバインダーを握る力を強め、ペンを走らせる。
「……先輩、らしいですね」
彰良はスッと目を細め、黒縁眼鏡を外す。
「葵先輩」
「犬飼君、名前呼び……は……」
「葵先輩、朝はお疲れさまでした。
少し悔しいですが……自分も見惚れるほどに、格好良かったです。」
「っ…………」
怖がらせないように。
一歩の距離を残して、ゆっくりと葵へと歩み寄る。
「ですが、敵意を向けて怒鳴る相手を怖がらない人間は少ない。
だから……次は自分も葵先輩の横に寄り添わせて欲しい……駄目、ですか?」
「っ……あ……
(……断らなきゃ……逃げなきゃなのに……なん、で……)」
切なげな熱の籠もった瞳に囚われる。
言葉が彷徨い、出て来ない。
「……葵、先輩……」
ゆっくりと……だが迷いを押し殺し、躊躇うことなく葵の頬へと伸ばされる指先。
甘い色の滲んだ、掠れた声。
彰良に囚われて動けない葵は、瞳を閉じることすらできない。
「すみません!
犬飼さん、居ますかぁ?」
空気が弾ける。
明るい華乃の声音に、二人だけの世界が現実に引き戻された。
「っ……!」
葵の肩が跳ね、胸元にバインダーを抱き締める。
「あ、立花先輩もご一緒だったんですね!
もしかして、お邪魔しちゃいましたぁ??」
「そ、そんなことはないです……!
(いっ……今っ、私……な、にを期待した……?)」
微かに染まった頬。
一歩だけ後退った葵に、一瞬だけ目を細め、すぐに華乃は華やかな笑顔を浮かべる。
「あれぇ?
犬飼さんが眼鏡を外しているの、初めて見ました!
……思ったよりも、普通の顔ですね!」
「……貴女に見せる必要は全く有りませんので。
自分は普通の顔でも問題ありませんし、貴女には関係ないかと。」
「えー……何か、犬飼さんってば、私に対して棘がありませんか?
もしかしてぇ……私ってば、犬飼さんの邪魔をしちゃいましたぁ?」
ニッコリと何処か挑発するような華乃の笑顔。
「……自分に用事があったのでは?」
黒縁眼鏡をかけ直し、剣呑な眼差しを華乃に向ける。
「(……あれ……この二人って……仲、悪かったっけ……?)」
明らかに互いに棘のある対応に葵は首を傾げる。
「あっ、忘れてましたぁ!
課長が犬飼さんに聞きたいことがあるって探してましたよぉ!」
「課長が……?」
笑顔の華乃に対して、彰良は眉を寄せる。
「…………」
「犬飼君……?」
「いえ……」
何処か歯切れの悪い彰良の反応に、葵は疑問符を浮かべた。
「あー!
もしかして、私の言葉を疑ってますか。」
「え?」
「…………」
華乃の何を疑うか分からず、葵は彰良へと視線を向ける。
「……先輩、先輩も自分と一緒に……」
「え、いや……まだ、備品のチェックが……」
「せーんぱい!
私がお手伝いします!」
「兼子さんが……?
でも、兼子さんも別の仕事が……」
「だーいじょぶです!
もう、終わらせちゃいましたから。」
「(……兼子さんって……私に対して、こんなに押しが強かったかしら……?)」
邪気のない笑顔。
たが、葵は何処か違和感を感じる。
「……犬飼さんも、子供じゃないんですから……仕事に我が儘を持ち込んじゃダメですよ。
それにぃ……だいぶ、課長を待たせちゃってますし。」
「犬飼君、此処は私と兼子さんで請け負いますから。
もし、急ぎの用事だったら大変ですよ。」
華乃に違和感は感じるものの、仕事は仕事。
葵も彰良へと課長の元へ行くように促す。
「…………っ……わかりました。
先輩……必ず、すぐに終わらせてきます……!」
迷うように視線を彷徨わせる。
だが、グッと手を握りしめ、彰良は足早に立ち去った。
「兼子さん、手伝ってもらってごめんなさい。
私はこっちの棚を確認するから、兼子さんはあちらの棚を頼んでも良いかしら?」
「わかりました、立花先輩。
……すぐに、終わらせます……。」
己へと背中を向けた葵を品定めするように見つめ、ぽってりとした唇を舐めるのだった。




