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第9話

夜風が心地よく頬を撫でていった。


広場の方からは、魔物撃退を祝う宴の喧騒が響いてくる。肉の焼ける香ばしい匂いと、村人たちの明るい笑い声。つい先ほどまで死の恐怖に直面していたとは思えないほどの活気だ。


俺は防壁の近くに立ち、青白く発光する結界の表面を静かに見つめていた。魔力回路は安定している。この状態なら当分、綻びが生じることはないだろう。


「レオン様! 本当にありがとうございました!」

「あんたがいなけりゃ、今頃俺たちは魔物の餌食だったよ!」


通りがかった村人たちが、次々と声をかけてくる。その瞳には、純粋な尊敬と感謝が宿っていた。俺は軽く手を挙げて応えながら、不思議な感覚を味わっていた。

王都では、どれだけ結界を維持しても誰一人として気づくことはなかった。だがここでは、俺の技術が直接人々の命を救い、こうして目に見える形で報われている。


「レオン。こんなところにいたのか」


背後から声がかかり、振り向くとバルドが酒杯を二つ持って歩いてくるところだった。彼の顔は赤く上気しており、上機嫌であることが一目でわかる。


「バルドさん。宴の主役が抜け出していいんですか」

「主役はお前だろう。ほれ、一杯どうだ」


差し出された木杯を受け取る。果実酒の甘い香りが鼻をくすぐった。バルドは隣に並び立ち、俺と同じように防壁を見上げる。


「見事な手際だった。この村の歴史上、あれほどの魔物の群れを無傷で退けたことなど一度もない。改めて礼を言わせてくれ」

「俺は自分の仕事をしただけです。それに、この村の環境が俺の結界術と相性が良かったのもあります」


謙遜ではなく事実だ。王都では見向きもされない魔力草が、ここでは無尽蔵に手に入る。結界の触媒として、これほど恵まれた環境はない。


バルドは杯を煽り、真剣な眼差しを俺に向けた。


「単刀直入に言おう。レオン、お前をこの村の防衛責任者として正式に迎え入れたい。もちろん、相応の報酬と待遇は約束する」


その言葉に、俺は少しだけ目を丸くした。客人としてではなく、正式な役職を与えられるということだ。


「王都の連中はお前の価値を理解できなかったようだが、ここでは違う。お前の力が必要だ。どうだろうか」


バルドの真っ直ぐな言葉が、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。

自分の能力が正当に評価され、必要とされること。それは、俺がずっと求めていたものだった。


思えば、ここに至るまでの道のりは奇妙なものだった。

宮廷魔術師団の執務室で、団長のガイウスから不当な解雇通知を受けたのは、つい最近のことだ。


『お前はただの雑用係だ。誰でもできる仕事しかしていない落ちこぼれに払う給料はない』


派手な攻撃魔法を至上とする彼は、俺が毎晩王都の大結界を修復しているという見えない功績を完全に軽視していた。

俺は自分の真の価値を理解していたが、あえて反論しなかった。結界の仕組みすら理解できない無能な権力者に、これ以上自分の能力を搾取されるのは御免だったからだ。一度見限った相手に妥協するつもりは毛頭ない。


俺は未払い賃金の放棄を条件に、即日退職の念書を書かせた。

そして、結界の制御キーである『要石』を、何も知らない門番に押し付けたのだ。


『規定通りの引き継ぎは済ませました。あとはそちらで勝手にやってください』


そう言い残し、規定通りの引き継ぎを終えた俺は、未練など一切なく王都を後にした。

自由の身となった俺は、あてのない旅に出た。その道中で、魔物に襲われていたアリアを救出したのだ。


『助けていただいて、ありがとうございます。私は辺境の領主の娘、アリアと申します』


彼女の案内で、魔物の脅威に晒されるこの辺境の村へと向かうことになった。

あの時、王都を去る決断をしていなければ、アリアと出会うことも、この村に導かれることもなかっただろう。

すべてが繋がり、今、俺はこの場所に立っている。


「……喜んでお受けします」


俺はバルドの目を見て、はっきりと答えた。


「おお! そう言ってくれると信じていたぞ!」


バルドは豪快に笑い、俺の肩をバンバンと叩いた。痛いが、その手には確かな温もりがあった。

辺境での新たな人生が、今、完全に幕を開けたのだ。俺は残りの果実酒を飲み干し、小さく息を吐いた。


◆ーーーー◆


王都、宮廷魔術師団の執務室。

ノアは机に突っ伏しそうになるのを必死にこらえていた。目の下には濃いクマができ、視界がぼやけている。


「また東区画で小型魔物の侵入です! 第三小隊、至急応援を!」


伝令の焦燥しきった声が響き、執務室は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

ここ数日、王都のあちこちで異常事態が起きている。絶対安全であるはずの大結界に綻びが生じ、そこから低級の魔物が入り込んでくるのだ。

宮廷魔術師団は昼夜を問わず駆り出され、対応に追われていた。


「ノア! ぼーっとしてないで早く来い!」

「は、はい! 今行きます!」


先輩魔術師の怒声に弾かれたように立ち上がり、ノアは杖を手に取った。

足取りは重く、魔力も底を尽きかけている。東区画に到着すると、すでに数匹の魔狼が民家を襲おうとしていた。ノアは炎の矢を放つが、疲労のせいで威力が足りず、魔狼を仕留めきれない。他の魔術師たちも同様に動きが鈍っていた。


(おかしい……絶対に何かがおかしい)

息を切らしながら、ノアは心の中で呟いた。

大結界は維持不要の永久機関だと教えられてきた。しかし、現実は違う。結界は確実に劣化している。

そして、この異常事態が始まったのは、レオンが宮廷魔術師団を去ってからだ。


毎朝、誰よりも早く出勤し、酷いクマを作っていたレオン。

周囲は彼を「夜の街で遊び歩いている」と嘲笑していたが、ノアは薄々気づいていた。あの疲労は、膨大な魔力を消費した結果ではないかと。

レオンがいなくなったことによる影響の大きさを、ノアは今、肌で痛感していた。


数時間の討伐任務を終え、泥のように疲れて執務室に戻ると、団長のガイウスが豪華な椅子にふんぞり返っていた。


「ええい、どいつもこいつも騒ぎ立ておって。ただの一時的な魔力不足だ。結界の自然回復を待てば済むことだというのに!」


ガイウスは不機嫌そうに舌打ちをし、報告書を机の端に放り投げた。

彼は結界の異常を根本的に解決しようとせず、すべてを「一時的な現象」と決めつけている。防御や支援の魔法の仕組みを理解できない彼にとって、目に見えない結界の不具合など、どう対処していいかわからないのだ。


「おい、そこのお前! もっと迅速に動けんのか! 私の顔に泥を塗る気か!」


ガイウスは通りかかった魔術師に当たり散らしている。

ノアは躊躇した。権力者に逆らえば、自分も追放されるかもしれないという恐れがある。しかし、このままでは王都が危ない。

意を決して、ノアは一歩前に出た。


「団長……申し上げます」

「なんだ、ノア。手短にしろ」

「レオン先輩が退職時に残した、引き継ぎ資料を確認すべきではないでしょうか。あの中に、結界の修復手順や、要石のメンテナンス方法が記されているはずです」


ノアの言葉に、執務室の空気が凍りついた。

ガイウスの顔が、みるみるうちに朱に染まっていく。


「貴様……私が、あの無能な雑用係の残したゴミに頼れと言うのか!」

「ひっ……!」


ガイウスの怒鳴り声に、ノアは肩をビクンと震わせた。


「専門用語を並べ立てただけの意味不明な落書きなど、宮廷魔術師団の恥だ! あんな雑用係のゴミなど不要だ! 二度とその名を口にするな!」

「す、すみません……!」


ノアは深く頭を下げ、逃げるように自分の席に戻った。

心臓が早鐘のように打っている。やはり、ガイウスは自分の非を絶対に認めない。レオンの功績を認めることは、自分の無能さを露呈することに他ならないからだ。


ノアは震える手で書類を整理しながら、そっと窓の外に視線を向けた。

夜空を覆う巨大な防壁。王都の象徴である大結界。

その表面に、微かな亀裂が走っているのが見えた。亀裂からは、青白い魔力粒子がパラパラと剥がれ落ちている。

(このままじゃ……本当に結界が崩壊してしまう……)


異常はもはや、隠しきれないレベルに達しつつある。

王都の上層部がこの事態にどう対応するのか、ノアには見当もつかなかった。ただ一つ確かなのは、破滅の足音が確実に近づいているということだけだった。

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