第10話
異常はもはや、隠しきれないレベルに達しつつある。
王都の上層部がこの事態にどう対応するのか、ノアには見当もつかなかった。ただ一つ確かなのは、破滅の足音が確実に近づいているということだけだった。
その破滅の足音は、すでに王宮の中枢にまで響き始めていた。
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重厚なマホガニーの机に、数枚の羊皮紙が乱雑に広げられている。
豪華な調度品に囲まれた宰相の執務室。私、ローレンスは手元の報告書に視線を落とし、静かに息を吐いた。
王都内で相次ぐ小型魔物の侵入。被害はまだ軽微だが、大結界が完璧に機能していれば絶対に起こり得ない事態だ。市民の間にも、徐々に不安の声が広がりつつある。
「ガイウス団長。この異常事態について、合理的な説明を求めますよ」
目の前に立つ宮廷魔術師団長は、恰幅の良い体を縮こまらせ、額にべっとりと冷や汗を浮かべていた。豪奢な装飾が施されたローブが、今の彼にはひどく不釣り合いに見える。
「宰相閣下……これは、その、一時的な魔力不足でして。大結界そのものに致命的な問題が生じているわけでは……」
「ほう。魔力不足ですか」
私は慇懃無礼な口調で応じ、冷ややかな笑みを浮かべた。
「そういえば先日、魔術師団で人員の整理を行ったそうですね」
「は、はい。攻撃魔法も使えない、ただの無能な者を一名解雇いたしました。あんな者は戦力外ですので、師団の運営には全く影響は皆無です」
ガイウスは自分の非を認めまいと、必死に取り繕う。派手な成果しか評価できないこの男にとって、目立たない裏方は不要な存在なのだろう。
無能な駒を躊躇なく切り捨てること自体は、私の価値観とも合致する。国家の利益のためには必要な判断だ。
「なるほど。無能な者を解雇した。そこまではいいでしょう。しかし、問題はその過程です」
私は机の上で両手を組み、ガイウスを冷酷に見据えた。
「未払い賃金の放棄を条件に即日退職を認め、あろうことか結界の要となる端末を、事情を知らない衛兵に預けさせて去らせた。それがあなたの言う『規定通りの引き継ぎ』ですか?」
「なっ……なぜそれを」
ガイウスの顔から血の気が引いた。
「私の情報網を甘く見ないことですね。結界の異常が、その無能な者の不在と関係あるとは思いません。しかし、管理体制の杜撰さはあなたの責任だ。手続きの不備は看過できない問題ですよ」
「も、申し訳ございません……!」
ガイウスは深く頭を下げた。自分の権威と面子を何よりも重んじる男が、無様に取り乱している。
「下がってよろしい。早急に事態を収拾しなさい」
私は冷たく言い放ち、彼を執務室から追い出した。
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王都から遠く離れた辺境の村。
俺は村の周囲を歩きながら、空中に青白い魔力線を紡ぎ出していた。
「よし、これで外周の術式は定着したな」
村を覆う結界の多重化作業。既存の防壁の内側に、さらに強固な物理障壁と魔力感知の網を張り巡らせる。王都の大結界を一人で維持していた頃に比べれば、規模は小さいがやりがいはある。
「ご指定の資材をお持ちしました」
背後からかけられた声に振り向くと、軽装のメイド服に身を包んだミリアが立っていた。彼女の腕には、俺が依頼した大量の魔力草が抱えられている。
「ありがとう、ミリア。助かるよ」
「アリア様が心から笑って過ごせる安全な環境を作るためです。これくらい当然の務めですから」
ミリアは冷静で淡々とした口調で答えながら、魔力草を丁寧に地面へ置いた。彼女はアリアの専属護衛であり、主人の安全を第一に考えている。最初は俺に対しても強い警戒心を抱いていたが、今ではこうして献身的にサポートしてくれている。
俺は魔力草を手に取り、結界の触媒として術式に組み込んでいく。微量な魔力しか持たないありふれた雑草だが、俺の魔力操作を通せば絶大な効果を発揮する。青黒い葉脈から抽出された魔力が、空中に描かれた幾何学模様の陣へと吸い込まれ、強固な被膜を形成していった。
「それにしても……」
ミリアは俺の作業をじっと見つめながら、ふと口を開いた。その瞳には、かつての強い警戒心は微塵もなく、純粋な感嘆の色が浮かんでいる。
「王都の宮廷魔術師団は、よほど見る目がないのですね。あなたのような規格外の力を持つ方を手放すとは」
時折見せる彼女の鋭い毒舌に、俺は小さく苦笑した。
「向こうでは、派手な攻撃魔法が使えないと評価されないからな。俺のやっていたことは、誰でもできる地味な仕事だと思われていた」
俺は作業の手を動かしながら、かつての出来事を思い返した。
宮廷魔術師団の薄暗い執務室。派手な攻撃魔法を至上とする元上司のガイウスから、無能呼ばわりされて不当な解雇通知を受けた日のこと。
俺は王都の大結界を維持している自分の真の価値を完全に自覚していたが、あえて反論せずに受け入れた。自分の実力を安く見積もるつもりはなかったし、一度見限った相手に妥協する気もなかったからだ。
そして、未払い賃金の放棄を条件に即日退職を勝ち取り、結界の要となる端末である要石を事情を知らない衛兵に預けた。分厚い引き継ぎ資料も残したが、どうせ彼らは読みもしないだろう。規定通りの引き継ぎを終えた俺は、未練なく王都を後にした。
「……愚かな人たちです。自らの手で守護者を追い出したことに気づきもしないなんて」
ミリアの言葉に、俺は静かに首を振った。
「もう終わったことだ。俺は今の生活を気に入っている」
王都を去った後、俺は道中で魔物に襲われていたアリアを救出した。
それが全ての始まりだった。彼女の案内で、魔物の脅威に晒されるこの辺境の村へと向かうことになり、俺の新たな人生の幕が開いたのだ。
今、俺の目の前には、自分の価値を正しく認めてくれる場所がある。
結界魔術の研究と実践を自由に行い、村人たちの生活を豊かにしていく。アリアやミリア、そして村の防衛隊長であるダルクたちからの確かな信頼。
「さあ、作業を続けよう。日が暮れる前に、この区画のコーティングを終わらせたい」
「はい。次は何をお持ちしましょうか」
俺たちは穏やかな空気の中で、村の防衛をさらに盤石なものへと仕上げていった。
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王宮の執務室。
ガイウスが退出した後、私、ローレンスは窓の外に広がる王都の景色を見下ろしていた。
空を覆う巨大な防壁。王都の象徴である大結界。
その表面に、微かな揺らぎが生じているように見えた。
「一時的な魔力不足、か」
私は鼻で笑った。
ガイウスの言葉には焦りが滲んでいた。あの男は自分の無能さが露見することを何よりも恐れている。問題が起きれば隠蔽し、他人に責任を押し付けるのが彼の常套手段だ。
結界の異常が、本当にただの魔力不足によるものなのか。
あるいは、彼が切り捨てたという「無能な者」の不在が、私の計算を超えた何らかの影響を及ぼしているのか。
「……おい」
私が声をかけると、部屋の隅の影から黒装束の密偵が姿を現した。
「はっ。ここに」
「ガイウスの報告は虚偽の可能性が高い。あの男の言葉は信用できん」
私は冷酷な声で命じた。
「独自に結界の状況を調べろ。大結界の魔力回路、そして要石の現在の状態。すべて洗いざらい報告しなさい」
「御意」
密偵は音もなく姿を消した。
完璧な計算で築き上げたはずの王都の支配体制。それに綻びが生じることなど、あってはならない。私は魔力を持たないがゆえに、魔法使いという存在を便利な道具として管理してきた。その道具たちが私の予測を超えた事態を引き起こすなど、断じて許されないのだ。
もし王都の真の危機が隠蔽されているのだとすれば、無能な駒は躊躇なく切り捨てるまでだ。
私は冷たい窓ガラスに触れながら、静かに目を細めた。




