第34話
新設防壁の見張り台に、夜の冷気が吹き下ろしていた。基礎工事の熱気が引いた石組みの上で、ダルクが羊皮紙の地図を広げる。
「感知盤の反応通り、北東の国境山脈から出た群れが、一直線にここへ向かってきているな」
ダルクの太い指が指し示したのは、北東に連なる山脈の険しい隘路だった。赤い印が不気味な一本の筋を描き、都市のある南西へ向けて伸びている。
隣で円盤型の感知盤を監視していたノアが、緊張した面持ちで頷いた。
「はい、レオン様の見立て通り、魔獣たちに組み込まれた精神誘導術式の波長は乱れていません。縄張り争いも衝突も起きず、完全に統率された速度を維持しています」
「王都の混乱に乗じ、こちらの防衛網の隙を突いてきた隣国の工作……間違いなさそうですね」
アリアが凛とした声で応じ、腰の長剣の柄に手を添えた。亜麻色の髪が夜風に揺れる。その瞳には、恐怖ではなく領民を背負う者としての厳しい光が宿っていた。
「仕掛けられた罠の全容を掴む必要があります。……ダルク、国境の山脈に残した偵察隊とは連絡が取れますか?」
「ああ、山脈の監視に当たらせている俺の部下、ヴィクターの隊なら、とっくに隘路の入口まで詰めているはずだ。緊急用の通信魔導具を繋ぐ」
ダルクが懐から小型の通信石を取り出し、魔力を込めた。微かな魔力の軋みののち、乾いた金属音が石を通じて微かに響いてくる。
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切り立った岩壁が両脇から迫る暗がりの中、私は息を殺して身を潜めていた。膝をついた泥土の冷たさが、革鎧を通して伝わってくる。
目の前を、異様な熱気と腐臭を撒き散らしながら、数十頭の魔獣が通り過ぎていく。赤黒い毛並みの牙猪が、眼を血走らせ、涎を垂らしながらも、脇目も振らずに南西の都市へ向かって駆け抜けていた。
「隊長、足元を」
部下が小声で指差した地面の割れ目に、見慣れないものが突き刺さっていた。指先ほどの太さがある黒い金属の杭だ。群れが通り過ぎた隙を見計らい、私は素早く駆け寄ってそれを引き抜いた。
「魔導誘導杭か……」
掌に収まる杭の表面には、隣国正規軍の特殊工作部隊が用いる特有の刻印が刻まれていた。定規で引いたように緻密で無機質な術式線。魔獣を無理やり前進させるためだけの使い捨て魔導具だ。
ふと、頭上の尾根からわずかに小石が落ちる音がした。見上げると、黒い外套を纏った人影が闇に溶けるように身を引くのが見えた。
「斥候か。群れを都市の喉元へけしかけ、防衛網の強度を観察する気だな」
背後からは、山脈の奥からさらに巨大な咆哮が幾重にも重なって押し寄せていた。先頭集団はすでに谷を抜け、平原へと雪崩れ込み始めている。
私は通信石を口元に寄せた。
「ダルク隊長、聞こえるか。私だ。敵の痕跡を確保した。隣国の工作部隊が魔導誘導杭を用いて魔獣を扇動している。群れの規模は三桁を超える。今すぐ要塞へ戻り、合流する!」
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領主邸の作戦室には、冷え切った夜の空気が立ち込めていた。机の中央に広げられた要塞都市の防衛配置図を囲み、俺たちは短く息を詰める。
先行して戻ったヴィクターが、泥に汚れた黒い杭を作戦机の上に置いた。金属質の鈍い光が、ランプの炎を弾く。
「ダルク隊長、レオン殿。敵は魔獣の群れを突撃させ、外壁の強度とこちらの即応力を測る腹積もりです。後方には観測班が張り付いている」
「なるほどな」
ダルクが腕を組み、唸るように喉を鳴らした。
「問題は、昼間に基礎を打ったばかりの第二外郭だ。正面の石積みは立ち上がりつつあるが、東側の接続部にはまだ壁がねえ。あの隙間から雪崩れ込まれたら、市街地のすぐ手前まで魔獣を招き入れることになる」
防衛隊の戦力だけで平原に出て迎え撃てば、足止めはできても無駄な損害が出る。だが、敵の工作員が監視している以上、隙を見せるわけにはいかない。
「あの、レオン様……」
ノアがおずおずと手を挙げ、図面の東側を指差した。
「昼間にレオン様が地盤硬化のために打ち込んだ術式杭……あれの余剰魔力導線を迂回させれば、未完成の防壁の手前に仮設の誘導路を作れませんか? 魔獣の群れを、障害物のない外縁平原の窪地へ一方向に流し込むんです」
「いい着眼点だ、ノア」
俺は小さく頷いた。言われた通りの魔力経路を頭の中で組み上げる。
「群れが窪地に集まるなら、都市の防壁にぶつける必要すらない。外縁平原の開けた場所で、すべて受け止める」
「迎え撃つのか? だが、三桁の魔獣だぞ。壁を使わずにどうやって受け止める」
ダルクが眉根を寄せる。俺はヴィクターが持ち帰った杭の先端を指先でなぞった。刻まれた術式は極限まで無駄が削ぎ落とされ、幾何学的な美しさすらある。隣国の魔導院が誇る理論至上主義の産物だ。計算通りに動くことしか想定されていない。
「壁で受け止めると衝撃で地盤が痛む。だから、侵入してきた勢いをそのまま押し返す。指向性衝撃結界を敷く」
「指向性衝撃結界……?」
アリアが首を傾げた。
「簡単に言えば、一方通行の空気の壁だ。前進してくる魔獣の突進の勢いをそのまま反転させ、先頭から順に圧殺する。都市の住民には避難の鐘を鳴らさず、寝かせたままで終わらせる」
「……そんな真似が、本当に可能なのですか」
ヴィクターが驚きを押し殺した声で問うてくる。その双眸には、疑いではなく純粋な畏敬の色があった。
「準備に一時間もあれば十分だ。ノア、触媒の調合を頼む。外郭の備蓄庫にある高純度魔力草の抽出液を四樽、それに硬化鉱石の粉末を混ぜて持ってきてくれ」
「はい、すぐに行きます!」
ノアが駆け出していき、ダルクとヴィクターも視線を交わして頷き合った。
「防衛隊は外郭の内側に伏せさせ、万が一の漏れを警戒させる。レオン、前線はお前に預けるぞ」
「ああ、任せてくれ」
アリアが俺の前に歩み寄り、静かに視線を合わせてきた。
「レオン、無茶だけはしないでください。この都市は、あなたの手で守られて初めて意味を持つのですから」
「分かっている。無茶な仕事は王都で辞めたよ」
淡く笑って応えると、アリアの表情が少しだけ和らいだ。俺は外套を羽織り、深夜の冷気が待つ外郭へと歩き出した。
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深夜。月は雲に覆われ、平原は墨を流したような闇に沈んでいた。
都市の外縁、第二外郭予定地の前方に広がる荒野に、冷たい突風が吹き抜ける。俺とノアは、数十歩の間隔を空けて地面に魔導触媒の杭を打ち込んでいた。掘り返した土の匂いに、魔力草特有の清涼な香りが混ざる。
「レオン様、これで最後の十二本目です」
「よくやった」
俺はノアが埋めた杭の頭頂部に掌を当て、一気に魔力を叩き込んだ。青白い光が地中を奔流となって駆け抜け、十二本の杭を瞬時に繋ぎ合わせて指向性結界の術式を組み上げる。
地平線の彼方から、微かな地鳴りが伝わってきた。
最初は足の裏をかすかにくすぐる程度だった振動が、数分もしないうちに大地全体を揺るがす重低音へと変わる。闇の向こうから、無数の赤い眼光が押し寄せてくるのが見えた。
牙猪の突進、地を這う大百足、巨大な岩蜥蜴。隣国の杭によって精神を焼き切られた魔獣たちが、理性を失った津波となって平原を埋め尽くしている。
その遥か後方、山脈の尾根の上に、微かな魔力の輝きが二つ見えた。遠見の術具でこちらの様子を監視している隣国の工作員だ。要塞都市が狼狽し、未完成の外壁を破られて混乱に陥る様を、冷笑を浮かべて待っているのだろう。
俺は立ち上がり、静かに右手を前方へ向けた。指先に集まった魔力が、夜の空気をキリキリと引き絞る。
術式の骨組みは完成している。あとは、群れが罠の真ん中へ完全に足を踏み入れるのを待つだけだ。
赤い眼光の波が、前方の暗闇を裂いて雪崩れ込んでくる。大地を削る無数の爪音と、血を求める獣の咆哮が、すぐそこまで迫っていた。




