第35話
地鳴りが足裏から脛へと這い上がってくる。視界を埋め尽くす狂乱の群れは、平原の窪地へ完全に雪崩れ込んでいた。
「レオン様、第一波、境界線を越えます!」
背後で観測器を抱えたノアの引き攣った声が飛ぶ。
俺は右手の親指と中指を重ね、静かに力を込めた。
百を超える魔獣の突進力。巨体と疾走が一体となったその凄まじい衝撃の勢いは、まともに受け止めれば強固な城壁すら容易に削り取るだろう。だが、最初から受け止める必要などない。
「起動」
パチンと、乾いた指弾の音が夜気に響いた。
荒野に打ち込んだ十二本の杭が一斉に共鳴し、地表を青白い幾何学模様が走る。空間そのものが歪むような低い唸りとともに、半透明の光膜が扇状に展開された。
俺が独自に設計した迎撃術式――『指向性衝撃結界』だ。
先頭を走る牙猪の巨躯が、見えない壁に激突した。
本来なら防壁を砕くはずの凄まじい衝撃。だが術式はそれを一点に留めず、光の格子を通して瞬時にその威力を真逆の前方へと反転させた。
ドォォォォンッ!
大気を破断する轟音が炸裂した。衝撃波の放出方向は、前だ。魔獣自身が叩きつけた暴力が、そっくりそのまま前方への指向性を持った巨大な暴風となって逆流する。
先頭集団が自らの突進力で撥ね飛ばされ、後続の群れへ猛烈な勢いで叩きつけられた。玉突きのように連鎖する反発の衝撃が密集した窪地の中心で跳ね回り、群れ全体を内部から押し潰していく。
空を舞う大百足がねじ切れ、巨大な岩蜥蜴が甲羅ごとひっくり返る。殺到していた赤い眼光の波が、前進を完全に阻まれて自壊していった。
「ノア、余剰出力の逃がし弁を開け。杭の魔力草に流せ」
「は、はいっ!」
ノアが青ざめた顔を引き締め、手元の補助盤を操作した。術式の末端から溢れ出た衝撃の余波が、触媒杭の根元に巻き付けられた魔力草へと吸い込まれていく。
青白い奔流を呑み込んだ魔力草は、まるで夜露を浴びたように生き生きと葉脈を青く輝かせ、余剰エネルギーを無害な魔素へと瞬時に分解していった。地脈を汚すことなく、逆に土地の魔力純度を高める触媒としての特性が見事に機能している。
数瞬の後、平原を覆っていた地響きが嘘のように止んだ。
立ち込める土煙が引いていくと、そこには折り重なって昏倒した魔獣たちの静かな山が築かれていた。死滅した個体は少なく、大半は強烈な反発衝撃で頭を揺らされ、意識を刈り取られている。
第二外郭の防壁には、小石一つ飛んできていなかった。
「……信じられない」
ノアが測定器を胸に抱えたまま、放心したように呟いた。
「数百頭の突進が、壁に触れることすらなく……。衝撃の余波も、完全に抑え込まれています。外郭の石材、どこにも亀裂すら入っていません」
「相手の勢いを利用しただけだ。力任せに受け止めるから壁が壊れる。向きを変えて返してやれば、消費する魔力も最小限で済む」
俺は息を整えながら、倒れ伏す魔獣たちの元へと歩み寄った。転がっている牙猪の頭部に手をかざし、残留魔力を探る。
「やっぱりな。頭部の魔力中枢に、強制励起の魔力回路が焼き付けられている。粗雑だが、暴走の指向性だけは正確にこの街へ向くよう調律されていた」
隣国の術式士の腕前は決して低くない。だが、結界魔術の基礎理論を雑に流用しているせいで、術式の繋ぎ目に特有の淀みが生じている。手口の癖は完全に把握した。
「レオン!」
頭上から澄んだ声が響き、第二外郭の新設防壁からアリアが駆け下りてきた。背後からは大剣を肩に担いだダルクが、目を丸くして続いている。
「無事ですか!? あの凄まじい音は……」
アリアは息を切らしながら俺の前に立ち、平原に広がる光景を目にして言葉を失った。防壁の手前数十歩と離れていない位置で、巨大な獣の群れが綺麗に一掃されている。
「怪我はないよ。予定通り、外郭の手前で突進の衝撃をそのまま跳ね返した」
「嘘だろおい……」
ダルクが顎髭を撫でながら、昏倒した岩蜥蜴の巨体を爪先で小突いた。
「あれだけの群れが突っ込んできて、防壁の警鐘すら鳴らさずに片付けちまうとはな。おいレオン、街の中を覗いてみろよ。誰一人起きちゃいねえぞ。赤ん坊すら泣かさずにスタンピードを鎮圧しちまうなんて、お前さんの結界はどうなってやがる」
「街に騒音を届けないよう、遮音の術式も外枠に組み込んでおいたからな。余計な混乱を起こして民を怯えさせる必要はない」
「ふふ、本当に……あなたの技術には、驚かされてばかりですね」
アリアがふっと口元を緩め、凛とした眼差しを向けてきた。
「誰も傷つけず、街の静寂すら乱さない。領民たちがあなたに全幅の信頼を寄せる理由が、今夜改めてよくわかりました」
「褒めても何も出ないぞ。それより、喜ぶのはまだ早い」
俺は山脈の稜線へと視線を向けた。遠見の術具でこちらの様子を監視していたあの魔力の気配は、魔獣群が無力化された直後に慌てて消失している。
「これは単なる魔獣の暴走じゃない。隣国による威力偵察だ。防壁の強度とこちらの即応能力を試すための捨て石にすぎない。今回の結果を受けて、敵は間違いなく次の手を打ってくる」
アリアの表情が引き締まり、少女は静かに頷いた。
「ええ。旧王国の庇護を失ったこの都市を、格好の獲物と見定めているのでしょう。ですが、私たちは屈しません。この街は、私たちが自らの手で守り抜く場所です」
気丈に前を見据えるアリアの横顔には、かつて王都の言いなりだった頃の迷いは微塵もなかった。
◆ーーーー◆
冷え切った夜風が、国境山脈の岩肌を撫でていく。
岩陰に潜んでいた二人の工作員が、信じられないものを見たというように激しく歯を鳴らしていた。手にした遠見鏡の筒が、小刻みに震えている。
「化け物か……!? 誘導杭で凶暴化させた魔獣の群れが、防壁に掠りもしないだと……? 術式の波形が完全に反転して自滅した……あんな結界理論、本国の魔導院でも見たことがないぞ……!」
「馬鹿な、報告とまるで違う! おい、早く本隊へ知らせるぞ!」
男たちは黒い外套を翻し、転がるように尾根の獣道へ駆け出した。
早く本隊へ戻らねばならない。この都市に配備されている防衛戦力は、事前に得ていた「辺境の貧弱な自警団」などという情報とは根本から異なっている。この異常事態を将軍へ報告し、作戦の再検討を具申しなければ――。
「報告なら、私が代わりに届けてやろう」
背後から落ちてきた氷のような声に、男たちの心臓が跳ね上がった。
先頭の男が咄嗟に身を捻り、懐から小型の魔導通信機を取り出して握り潰そうとした。機密を隠蔽するための自壊措置だ。
だが、その指が通信機の魔導核に触れるよりも早く、白刃の閃光が闇を裂いた。
硬質な金属音とともに、通信機が男の手から弾き飛ばされる。
「しまっ――」
反撃のために短剣を抜こうとした男の首筋に、冷酷な切っ先がピタリと突きつけられた。同時に、もう一人の工作員も背後の岩陰から飛び出した兵たちに瞬く間にねじ伏せられ、地面へ組み伏せられる。
一歩でも動けば頸動脈を切り裂く間合い。
革鎧を身に纏った騎士――ヴィクターが、感情を削ぎ落とした鋭い眼光で男を見下ろしていた。
作戦室で結界の起動と魔獣の無力化を見届けたヴィクターは、退路を断つべく手勢を率いて山道へ先回りしていたのだ。
「無駄な足掻きはやめろ。周囲の退路はすでに我が哨戒隊が封鎖している」
暗がりの中から、音もなく数名の兵が姿を現し、男たちの四方を固めた。
拘束された男は舌打ちし、忌々しそうに顔を歪める。
「……辺境の猟犬が。王都から逃げ出してきた落武者が、いつから隣国の正規軍に刃を向ける度胸を持った?」
ヴィクターは侮蔑の言葉に眉一つ動かさず、左手で男の外套を乱暴に引き裂いた。
懐から零れ落ちたのは、精巧な暗号符牒が刻まれた金属板と、厳重に封印された羊皮紙の巻物だった。王家の印章ではない。隣国正規軍、その第一先遣軍司令部が発行した軍事文書だ。
ヴィクターが巻物の封を親指で弾いて開き、冷徹な視線で文面を走らせる。
数行を読み進めたところで、その武骨な眉がわずかに寄った。
「威力偵察の任を終え次第、本隊の進軍路を確保せよ、か。……ずいぶんと具体的な予定が記されているな」
巻物の末尾には、はっきりと記されていた。
魔獣誘導による防衛網の麻痺に乗じ、辺境要塞都市を迅速に制圧・併合するための進軍命令。これは偶発的な小競り合いなどではない。国家の意志として計画された、明確な軍事侵略の証拠だった。
「貴様らの小細工は、レオン殿の結界によって完全に粉砕された。次はお前たちの番だ」
ヴィクターは切っ先を僅かに押し込み、冷然と告げた。
「この書状と貴様らの身柄は、領主邸へ届ける。我が街が、貴様らの理不尽な侵略にどう答えるか……その目でしかと見届けるがいい」
東の地平線が、白み始めていた。
だが、夜明けの光が照らし出した山脈の向こう側には、冷酷な軍旗を掲げた隣国の先遣部隊が、すでに国境線へと歩を進めつつあった。




