第3話
王都から続く街道を歩き続けて、三日が過ぎていた。
空は高く、足元の土は乾いている。王都の分厚い石畳とは違う、柔らかな感触が心地よかった。
背負った荷物は少ない。宮廷魔術師団の制服はとうに捨て、動きやすい実用的なローブに着替えている。
足取りは驚くほど軽かった。毎晩のように大結界へ魔力を注ぎ込み、朝には泥のような疲労を引きずって出勤する日々は、もう終わったのだ。
これからは、自分のために魔法を使う。
誰かに不当に評価されることも、無能と罵られることもない。
歩みを進めていると、風に乗って微かな血の匂いが鼻を突いた。
立ち止まり、視線を上げる。街道の先、鬱蒼と茂る森の入り口付近から、金属のぶつかる鋭い音と、獣の低い唸り声が聞こえてくる。
面倒事には巻き込まれたくないが、見捨てる理由もない。
俺は足音を殺し、声のする方へと近づいていった。
木々の隙間から覗き込むと、一台の馬車が横転していた。
周囲を取り囲んでいるのは、漆黒の毛並みを持つ十数頭の魔物だ。鋭い牙を剥き出しにし、獲物を品定めするようにじりじりと距離を詰めている。
その中心で、二人の人影が背中合わせに立っていた。
一人は、亜麻色の長い髪を束ねた少女。貴族の令嬢のような気品ある顔立ちだが、身に纏っているのは実用的な軽装の鎧だ。手にした細身の剣には、すでに魔物の血がこびりついている。
もう一人は、メイド服を着た女性。両手に投げナイフを構え、鋭い視線で魔物の動きを牽制している。
「ミリア、右から来るわ!」
「わかっています、アリア様。ですが、数が多すぎます……!」
メイド服の女性――ミリアがナイフを投擲する。刃は魔物の眼球に正確に突き刺さったが、倒れた一頭の隙間を埋めるように、別の三頭が同時に飛びかかった。
少女――アリアが剣を振るうが、魔物の硬い毛皮に弾かれる。
体勢を崩した彼女の喉元へ、最も巨大な魔物が牙を剥いて迫った。
絶体絶命。
俺は小さく息を吐き、右手を前に出した。
詠唱は必要ない。
頭の中で術式を構築し、魔力を流し込む。
「――展開」
短い呟きとともに、アリアに飛びかかっていた巨大な魔物の周囲の空間が、不自然に歪んだ。
直後、魔物の巨体が空中でピタリと静止する。
見えない箱に閉じ込められたように、手足をもがかせても一歩も前へ進めない。
「え……?」
アリアが呆然と声を漏らす。
俺は右手の指を、ゆっくりと内側に曲げた。
「圧縮」
ギチッ、と嫌な音が響いた。
不可視の結界の箱が、内側に向かって急激に収縮する。
逃げ場を失った魔物の体は、四方からの圧倒的な圧力に耐えきれず、一瞬にしてひしゃげた。悲鳴を上げる暇すらない。
どさりと、原型を留めない肉塊が地面に落ちる。
残りの魔物たちが、仲間の突然の死に怯み、一斉にこちらを振り向いた。
俺は森の影からゆっくりと歩み出る。
「悪いが、少し急いでいるんだ」
魔物たちが怒り狂い、一斉に俺へと殺到してくる。
ミリアが危ないと叫んだ。
だが、俺は歩みを止めない。
迫り来る魔物の群れに対し、今度は広域の結界を展開した。
俺と彼女たちの前に、透明な壁が立ち塞がる。
突進してきた魔物たちは、全力でその壁に激突した。
鈍い衝突音が連続して響く。自らの勢いを跳ね返された魔物たちは、頭蓋を砕かれ、次々と地面に転がっていった。
わずか数秒。十数頭いた魔物の群れは、一匹残らず物言わぬ屍へと変わっていた。
静寂が降りた森の中で、俺は軽く手を払い、二人の元へと歩み寄った。
「怪我はないか」
淡々と尋ねると、アリアは大きく目を見開き、信じられないものを見るように俺を見つめた。
「あ、あなたは……? 今のは、一体……」
「ただの結界魔術だ。通りすがっただけだから、気にするな」
俺の言葉に、アリアは慌てて姿勢を正し、深く頭を下げた。
「助けていただき、本当にありがとうございます。私はアリア。こちらは護衛のミリアです。あなたの圧倒的な魔法がなければ、私たちは命を落としていました」
凛とした声には、確かな敬意が込められていた。
だが、その横でミリアはナイフを構えたまま、俺を鋭く睨みつけている。
「お嬢様、お下がりください。この男、素性が知れません」
ミリアは俺とアリアの間に割って入り、冷たい声で言った。
「これほどの魔法を無詠唱で、しかも一瞬で展開するなど……王都の宮廷魔術師でも不可能です。あなた、一体何者ですか。目的は何です?」
「ミリア、やめなさい! 命の恩人に対して無礼です」
「ですがアリア様、辺境のこんな道に、これほどの実力者が偶然通りかかるなど不自然です。警戒するに越したことはありません」
主を命に代えても守る。その強い意志が、ミリアの張り詰めた肩から伝わってくる。
俺は肩をすくめた。
「警戒するのは勝手だが、俺はただの元・雑用係だ。危害を加える気はないし、あんたたちを尾行していたわけでもない」
「元・雑用係……? ふざけないでください」
ミリアの目がさらに細くなる。
だが、アリアはミリアの肩にそっと手を置いた。
「剣を収めなさい、ミリア。この方の目を見ればわかります。私たちを害する意思などありません」
「……しかし」
「これは命令です」
アリアの強い言葉に、ミリアは渋々といった様子でナイフを隠した。だが、俺に向ける視線には依然として強い疑念が残っている。
「不躾な態度をとってしまい、申し訳ありません」
アリアが再び頭を下げる。
「気にしなくていい。護衛としては正しい判断だ」
俺はそう答えながら、足元に視線を落とした。
街道の脇に、見慣れない草が生い茂っていた。
王都の周辺では決して見かけない、青黒い葉脈を持つ雑草。
俺は無言でしゃがみ込み、その草を根元から引き抜き始めた。
「あの……恩人様?」
アリアが不思議そうに声をかけてくる。
俺は手を止めず、次々と草をむしり取っては、腰の袋に詰め込んでいく。
「レオンだ。恩人様と呼ばれる筋合いはない」
「では、レオン様。それは……ただの雑草では?」
「ただの雑草だが、役に立つ」
俺は淡々と答えた。
この草は、微量だが特有の魔力を帯びている。王都の連中なら見向きもしないだろうが、結界術の触媒として使えば、魔力効率を劇的に引き上げることができる。
辺境の土壌にしか自生しないと本で読んだことはあったが、まさかこれほど群生しているとは。
袋が満杯になるまで草を詰め込む俺を、ミリアが気味の悪そうな目で見下ろしている。
「……やはり、頭のほうがおかしいのでは?」
「ミリア」
アリアがたしなめるが、ミリアはため息をついた。
「馬車は完全に壊れてしまいました。馬も逃げてしまい、これでは村まで歩くしかありません」
ミリアの言葉に、アリアは少し思案する表情を浮かべ、やがて俺に向き直った。
「レオン様。もし行く当てがないのでしたら、私たちの村へ来ませんか?」
「村?」
「はい。ここから少し歩いた先にある、辺境の村です。寂れた場所ですが、命を救っていただいたお礼をさせてください。それに……」
アリアは言葉を区切り、まっすぐに俺の目を見た。
「あなたのその素晴らしい魔法の力。辺境の地では、何よりも尊いものです。どうか、私たちの村へお越しいただけないでしょうか」
彼女の瞳には、打算のない純粋な敬意があった。
王都の連中が地味だと嘲笑した結界魔術を、彼女は素晴らしいと言った。
自分の能力を不当に安売りする気はない。だが、正当に評価してくれる場所があるのなら、見てみる価値はある。
「……わかった。案内してくれ」
俺が頷くと、アリアはパッと表情を明るくした。
「ありがとうございます! さあ、こちらです」
歩き出したアリアの背中を追いながら、ミリアが俺の横に並んだ。
「お嬢様が歓迎しても、私はまだあなたを信用していませんからね」
「好きにしろ。俺はあんたの信用を得るために行くわけじゃない」
「……可愛げのない男ですね」
ミリアは鼻を鳴らし、前を歩くアリアの護衛に戻っていった。
太陽が西に傾き始めた頃、木々の向こうに村の入り口が見えてきた。
粗末な木の柵で囲まれた、小さな集落。
見張りの塔は老朽化し、柵の一部は魔物の襲撃を受けたのか、無残にひしゃげている。
王都の堅牢な防壁とは比べ物にならない、あまりにも脆弱な守り。
このままでは、中規模の魔物の群れが来ただけで容易に壊滅するだろう。
「ここが、私たちの村です」
アリアが振り返り、少し寂しそうに微笑んだ。
俺は腰の袋に触れる。
中には、先ほど大量に採取した青黒い雑草がぎっしりと詰まっている。
ミリアが横目で俺の袋を睨み、そんな雑草を抱え込んで一体何をするつもりですかと呟いた。
俺は村の周囲をぐるりと見渡し、頭の中で術式の設計図を組み上げ始める。
「ただの雑草じゃない。これから、少しばかり『雑用』をするための準備だ」
俺の言葉の真意を測りかねて、ミリアが眉をひそめる。
辺境の寂れた村。
魔物の脅威に晒され続けるこの場所で、俺の結界魔術がどれほどの価値を持つのか。
それを証明するための舞台としては、悪くない。
村の入り口をくぐりながら、俺は静かに魔力を練り上げ始めた。




