第2話
王都を離れてから、どれくらいの距離を歩いただろうか。
街道を照らす朝日が、ひんやりとした朝の空気を温めていく。足元に広がる平原の草花が、風に揺れて心地よい擦過音を立てていた。
足取りは、昨日までの自分とは比べ物にならないほど軽かった。
「規定通りの引き継ぎは、完璧に済ませたからな」
誰に言うともなく呟き、俺は小さく息を吐いた。
未払い賃金の放棄という条件を呑むことで、即日退職を勝ち取った。長年、宮廷魔術師団で「雑用係」として扱われ、正当な評価を受けることもなく酷使されてきた日々は、もう終わったのだ。
退職の際、俺は分厚い引き継ぎ資料をガイウスの机に置いてきた。結界の修復手順から魔力回路の調整方法、触媒の配合比率まで、必要なことはすべてあのマニュアルに記してある。
そして、大結界の制御キーである『要石』は、城門を出る際に門番へ押し付けてきた。
「規定通り、備品を返却する。あとはよろしく頼む」
門番はただの備品だと思って受け取っていたが、規定通りに返却手続きを済ませた以上、俺に責任はない。どうせ巡り巡って、ガイウスの元へ届けられているだろう。
これまでは毎晩、王都全体を覆う巨大な防壁の修復作業に追われ、自分の時間など一切なかった。同僚たちからは「夜の街で遊んでいるからクマができている」と嘲笑されていたが、反論する気すら起きなかった。彼らは結界魔術を「地味で誰でもできるもの」と見下し、その真の価値を理解しようともしなかったからだ。
だが、これからは違う。
王都のしがらみから完全に解放された今、俺の魔力は俺自身のものだ。
自分の能力を不当に安売りすることなく、正しく認めてくれる場所を探そう。そこで平穏に結界魔術の研究と実践を続けるのだ。
広がる平原の風を胸いっぱいに吸い込みながら、俺は清々しい気分で新たな旅路へと歩みを進めた。
◆ーーーー◆
同じ頃。王都の宮廷魔術師団、師団長室。
豪華な装飾が施された椅子に深く腰掛けたガイウスは、机の上に置かれた分厚い紙の束を忌々しげに睨みつけていた。
「ノア。これはなんだ」
低く威圧的な声に、部屋の隅で書類整理をしていたノアがビクッと肩を揺らす。
彼は少しサイズの大きいローブの裾を握りしめながら、おずおずと歩み寄ってきた。
「あ、あの……昨日、レオン先輩が残していった引き継ぎ資料です。床に落ちていたので、拾っておきました」
「私が投げ捨てたものを、わざわざ拾い上げたというのか?」
「ひっ……す、すみません! ですが、少し中身を確認したところ、大結界の修復手順や、魔力回路のメンテナンス方法が詳細に記されているようでして……」
ノアの言葉を聞いた瞬間、ガイウスの顔に明らかな苛立ちが走った。
結界魔術などの防御・支援魔術の仕組みを全く理解していないガイウスにとって、専門的な理論がびっしりと書き込まれたその資料は、自身の無知を突きつけられるようで不快極まりないものだった。派手な攻撃魔法こそが至高であると信じる彼には、裏方の作業など評価に値しない。
「くだらん! あんな攻撃魔法一つ満足に使えない雑用係の書いたものなど、読む価値があるわけがなかろう!」
ガイウスは机の上の資料を乱暴に払い除けた。
バサバサと音を立てて、分厚い束が再び床に散らばる。
「そもそも、王都の大防壁は維持不要の永久機関だ。修復手順などというでまかせを書き連ねて、自分がいかに重要な仕事をしていたかのように見せかけようとする魂胆が透けて見える。本当に浅ましい男だ」
「で、ですが……レオン先輩は毎晩、遅くまで残って……」
「黙れ! 貴様はあの無能を庇うつもりか!」
ガイウスの怒鳴り声に、ノアは顔を青ざめさせて口をつぐんだ。
権力者に逆らえば、自分も宮廷から追放されかねない。生きていく術を失うという恐れが、ノアの良心を縛り付けていた。
「……申し訳、ありません」
「ふん。分かればいい。こんなゴミ、目障りだ。さっさと地下倉庫にでも放り込んでおけ」
ガイウスはそう吐き捨てると、引き出しを乱暴に開けた。
中から取り出したのは、手のひらサイズの黒い石だった。昨日、門番から「レオンが置いていった備品です」と届けられたものだ。
「それと、この気味の悪い石も一緒に処分しろ。ただの文鎮のくせに、昨日から微かに光ったり消えたりしていて鬱陶しいのだ」
ガイウスは黒い石をノアの胸元へ投げつけた。
慌てて受け止めたノアは、その石が微かな魔力を帯びていることに気づいた。だが、これ以上ガイウスの機嫌を損ねるわけにはいかなかった。
「は、はい。ただちに地下倉庫へ運んでおきます」
ノアは床に散らばった資料をかき集め、黒い石と共に抱え込むと、逃げるように師団長室を後にした。
王都の地下深く。
普段は誰も寄り付かない、埃っぽい地下倉庫。
ノアは部屋の片隅にある木箱の上に、分厚い引き継ぎ資料を置き、その上に黒い石——要石をそっと乗せた。
「レオン先輩……」
ノアは気弱な声で呟き、資料の表紙を撫でた。
彼は、レオンの本当の凄さに薄々気づいていた。毎朝酷いクマを作って出勤してくるレオンが、夜の街で遊んでいるわけがないことくらい、少し観察すれば分かることだった。
だが、自分は保身のために彼を見捨てた。その罪悪感が、ノアの胸を締め付ける。
「僕には、どうすることもできませんでした……」
誰に届くわけでもない謝罪を口にして、ノアは重い鉄扉を閉めた。
ガチャリと鍵がかけられ、地下倉庫は完全な静寂と暗闇に包まれる。
誰もいなくなった空間で。
分厚い引き継ぎ資料の上に置かれた要石が、再び微かに明滅を始めた。
本来であれば、毎晩この要石を通じて、レオンの膨大な魔力が大結界へと注ぎ込まれていた。
しかし、彼が王都を去り、誰もメンテナンスを行わなくなった今、要石は主を求めて空虚な信号を発し続けている。
チカッ……チカッ……と。
暗闇の中で繰り返されるその光は、静かな警告だった。
王都の住人たちは、今日も平和な一日が始まると信じて疑わない。
宮廷魔術師たちは派手な攻撃魔法の演習に明け暮れ、ガイウスは自身の権威と面子を保つことだけを考えている。
誰も、足元で進行している致命的な危機に気づいていない。
昨日防壁の最上部に走った亀裂は、すでに微細な魔力の粒子を外へと漏らし始めていた。
大気中に溶け出すその光の粉は、結界を構成する術式そのものが剥がれ落ちていることを意味する。
主の魔力供給を絶たれた要石は、致命的なエラーを知らせるように、不気味な赤みを帯びた発光へと変質していく。
絶対の安全を誇っていたはずの王都の盾。
その崩壊へのカウントダウンは、暗い地下倉庫の片隅で、誰にも知られることなく静かに時を刻み続けていた。




