第1話
王都の朝は早い。石畳を叩く馬車の蹄の音と、商人たちの活気ある声が窓の外から響いてくる。
だが、宮廷魔術師団の執務室に足を踏み入れた俺の頭の中は、泥のように重かった。
「おいおい、また酷いツラをしてるな、レオン」
自分のデスクに腰を下ろした直後、頭上からねっとりとした声が降ってきた。
見上げると、片眼鏡をかけたザイードが、薄ら笑いを浮かべてこちらを見下ろしている。彼の背後では、若手のノアが気まずそうに視線を彷徨わせていた。
「おはようございます、ザイードさん」
「毎晩毎晩、夜の街で遊び歩いてるからそんなクマができるんだ。ただでさえ攻撃魔法一つ満足に使えない雑用係のくせに、素行まで悪いとはな。宮廷魔術師団の面汚しめ」
ザイードの嘲笑に、周囲の魔術師たちもクスクスと笑い声を漏らす。
俺は小さく息を吐き、手元の書類に視線を落とした。
「すみません。少し趣味の夜更かしが過ぎたようです」
淡々と事実と異なる返答をする。反論する気すら起きなかった。
俺が毎晩、王都の歓楽街で遊び歩いているというのは、彼らの勝手な思い込みだ。
実際は全く違う。俺は毎晩、王都全体を覆う巨大な防壁――大結界の修復作業に追われているのだ。
王都の住人や、ここにいる宮廷魔術師たちは、あの防壁を維持不要の永久機関だと誤認している。だが、形あるものは必ず劣化する。結界も例外ではない。
経年劣化によって日々生じる無数の綻びを、俺が毎晩、要石と呼ばれる制御端末を通じて膨大な魔力を注ぎ込み、人知れず修復し続けている。
その過酷な魔力操作の代償が、この目の下の酷いクマと、慢性的な疲労感だった。
「ふん。まあいい。お前のような底辺は、せいぜい書類整理と備品の管理でもやっていればいいさ。俺たちエリートは、これから演習場で高位の攻撃魔法の訓練があるんでね」
ザイードは自分のローブの襟を誇らしげに正し、ノアを連れて執務室を出て行った。
ノアはすれ違いざまに、申し訳なさそうな顔で小さく頭を下げた。彼は俺がただの雑用係ではないことに薄々気づいているようだが、ザイードたちに逆らう勇気はないのだろう。
俺は静かに立ち上がり、書庫へ向かった。
誰にも評価されない、見えない功績。
だが、それでよかった。俺は自分の実力を正確に把握している。彼らが結界魔術を地味だと見下そうが、俺の価値が下がるわけではない。
昼前、俺は師団長室に呼び出された。
重厚なマホガニーの扉を開けると、豪奢な装飾が施されたローブを着崩したガイウスが、革張りの椅子にふんぞり返っていた。
「呼びましたか、団長」
「ああ、レオン。単刀直入に言おう。お前は今日付けでクビだ」
ガイウスは、まるで夕食のメニューでも決めるかのような軽い口調でそう告げた。
俺は表情を変えず、彼の顔を真っ直ぐに見つめ返した。
「理由を伺っても?」
「決まっているだろう。我が宮廷魔術師団は、王国最強の矛でなければならない。派手な攻撃魔法こそが至高であり、我々の存在意義だ。だが、お前はどうだ? 入団以来、攻撃魔法の訓練には一切参加せず、裏でコソコソと書類整理や備品管理ばかり。そんな『雑用係』に払う給料は、我が師団にはない」
ガイウスは薄ら笑いを浮かべながら、俺を指差した。
彼の言葉には、結界魔術に対する決定的な無理解と軽視が滲み出ている。
防御や支援の魔法の仕組みを全く理解できない彼は、目に見える派手な成果しか評価できないのだ。
「……なるほど。よくわかりました」
俺は短く答え、懐から分厚い束を取り出してガイウスの机に置いた。
「なんだ、これは」
「業務の引き継ぎ資料です。それと、こちらが備品の返却になります」
俺は資料の横に、手のひらサイズの黒い石を置いた。
王都の大結界を制御するための端末、『要石』だ。
ガイウスは怪訝な顔で分厚い資料をパラパラとめくった。そこには、結界の修復手順や魔力回路の調整方法、要石のメンテナンス手順が詳細に記されている。
だが、専門的な理論がびっしりと書き込まれたそのページを見た瞬間、ガイウスの顔に苛立ちが走った。
「チッ、なんだこの意味不明な文字列は。こんなゴミ、読めるか!」
ガイウスは資料を乱暴に床へ放り投げた。
さらに、机の上の要石を指先で弾き、引き出しの中に無造作に放り込む。
「ただの文鎮までわざわざ返しにくるとは、ご苦労なことだな。まあいい、未払いの給与は放棄するという念書にサインしろ。そうすれば、即日退職を認めてやる」
「構いませんよ」
俺は差し出された羊皮紙に、迷うことなくサインした。
自分の能力を不当に安売りするつもりはない。一度見限った相手に、これ以上付き合う義理もなかった。
この男に結界の真実を語ったところで、理解できない焦りから激怒するだけだ。無能な権力者に自分の人生を搾取され続けるくらいなら、未払い給与など安い手切れ金である。
「よし、これで厄介払いができた。さっさと荷物をまとめて出て行け、無能め」
満足げに笑うガイウスに背を向け、俺は師団長室を後にした。
胸の奥にあったのは、怒りでも悲しみでもなく、ただ深い安堵だった。
自分のデスクに戻り、私物を麻袋に詰め込む。
もともと私物は少なく、荷造りは数分で終わった。
周囲の魔術師たちは、俺が解雇されたことをすでに知っているのか、遠巻きに冷ややかな視線を送ってくる。
「……先輩」
背後から、消え入りそうな声がした。
振り返ると、ノアが立ち尽くしている。彼の顔には、明確な罪悪感が浮かんでいた。
「荷物はこれだけだ。今まで世話になったな、ノア」
「あの、僕……何も言えなくて、すみません……」
ノアの震える声に、俺は小さく首を振った。
「気にするな。あんたはあんたの立場を守ればいい。権力者に逆らって居場所を失うのは、賢い選択じゃない」
「でも、先輩は……本当は……」
「俺は俺の価値を認めてくれる場所を探すだけだ。じゃあな」
言い淀むノアの肩を軽く叩き、俺は執務室を出た。
王城の長い廊下を歩き、正門を抜ける。
振り返ると、青空の下にそびえ立つ巨大な防壁が見えた。
何百年も前に建造され、俺が毎晩命を削って維持し続けてきた王都の盾。
規定通り、引き継ぎ資料と要石は渡した。
彼らがそれをどう扱うかは、もう俺の知ったことではない。
王都のしがらみから解放された自由な空気を胸いっぱいに吸い込み、俺は街道へと歩き出した。
向かう先は決めていない。だが、この広い世界のどこかに、俺の結界魔術を正当に評価し、平穏に研究を続けられる場所があるはずだ。
足取りは、朝とは比べ物にならないほど軽かった。
◆ーーーー◆
日が落ち、王都に夜の闇が訪れた。
師団長室の暗がりの中。
ガイウスの机の引き出しに放り込まれた黒い要石が、微かに明滅を繰り返していた。
それはまるで、主を失ったことに対する警告音のようだった。
王都を囲む巨大な防壁。
その最上部、誰の目にも触れない場所に、ピシリと小さな亀裂が走った。
長年の経年劣化に耐えきれなくなった魔力回路の一部が、ついに悲鳴を上げたのだ。
亀裂は音もなく、しかし確実に広がっていく。
だが、王都の住人たちは誰もその異変に気づかない。
歓楽街では酒杯が交わされ、宮廷魔術師たちは明日の演習に向けて深い眠りについている。
絶対の安全を誇っていたはずの王都の盾が、今、静かに崩壊へのカウントダウンを始めていた。
彼らがその真実に気づくのは、もう少し先のことになる。




