第28話
新設された第二居住区の周囲には、真新しい木材と漆喰の匂いが満ちていた。
俺は手元の羊皮紙に引かれた魔力流動の設計図へペンを滑らせ、防壁の基部に埋め込んだ結界石の同期状態を確かめる。王都から押し寄せてきた難民たちの受け入れは順調に進み、仮設の天幕は日ごとに頑丈な木造家屋へと建て替えられていた。街全体を覆う多層結界は極めて安定しており、外縁の索敵網が異常を捉えることもない。
かつて王都の地下で誰にも気づかれずにこなしていた作業が、ここでは目の前で形になり、人の営みを支えている。
「……おい、レオン」
不意に背後から、擦れたような、粘りつく声が投げかけられた。
ペンを止めずに視線だけを向けると、泥で汚れた外套に身を包んだ男が立っていた。周囲の護衛兵たちに警戒されながらも、必死に取り繕った笑みを貼り付けている。王国の宰相、ローレンスだった。
かつて宮廷で見た豪奢な衣装の面影はどこにもない。仕立ての良い上着の裾は裂け、冷徹さを誇っていたはずの顔つきには焦燥と困惑が刻み込まれていた。結界が崩壊し、魔物の大群によって壊滅的な打撃を受けた王都の現状を、その姿そのものが雄弁に物語っていた。
「何の用だ、ローレンス」
俺は図面から目を離さず、淡々と返した。
「レオン君、単刀直入に言おう。王都へ戻ってきてほしいのだ」
ローレンスは周囲を用心深く見回しながら、一歩前に踏み出した。
「あのガイウスという無能がしでかした不始末は、すでに王国として断罪した。あ奴は全責任を負わされ、地下牢に投獄されたよ。君の正当な働きを理解できず、あまつさえ解雇するなど言語道断の愚挙だった。私からも心より詫びを入れよう」
言葉の端々に慇懃無礼な響きが残っている。彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、両手で差し出してきた。
「これは国王陛下の親書だ。君を宮廷魔術師団の長として迎え、同時に王都再建の最高責任者たる地位と、伯爵の位を授けるという約定だ。過去の不遇を埋めて余りある報酬と権限を用意した。どうだね? 君のような卓越した才覚の持ち主が、このような辺境の僻地で朽ち果てるのは国家の損失だ。王都へ戻り、再び中央の頂点でその腕を振るうべきだ」
朗々と語られる甘言の数々。だが、その瞳の奥には、崩壊した王都の権力基盤を立て直すための便利な道具を取り戻したいという、浅ましい計算だけが見え隠れしていた。
俺が応じる前に、足音がひとつ響いた。
「お断りいたします」
涼やかな、だが氷のように冷たい声が遮る。歩み出てきたのは、軽装のメイド服を纏ったミリアだった。彼女は腰の短剣に手を添えたまま、侮蔑を隠そうともしない目でローレンスを見据えていた。
「な、なんだね君は。私はレオン君と国家の将来について話しているのだ。無礼であろう」
「無礼なのはどちらでしょうか」
ミリアは静かに、しかし一言ごとに釘を刺すように言葉を紡いだ。
「王都が健在であった頃、レオン様が夜を徹して大結界を維持されていた労苦に、あなた方はただの一度でも目を向けましたか? 目に見える派手な攻撃魔法ばかりを重用し、防衛の要であったレオン様を『雑用』と蔑んで追い出したのは、他ならぬあなた方です。要石の記録が白日の下に晒され、結界が崩壊して都が蹂躙されてから慌てて頭を下げるなど、見苦しいにも程があります」
「ぐっ……そ、それは前団長の独断であり、私としても……」
「組織の長たる者が部下の専横を放置し、結果として国を危機に晒した時点で、あなたの無能さは証明されています。今さら都合よく呼び戻そうなどと、虫が良すぎるのではありませんか」
正論の刃で容赦なく切り捨てられ、ローレンスの顔がみるみるうちに赤黒く染まっていく。普段なら平民の言葉など歯牙にもかけない男が、完全に言葉を失っていた。
俺は設計図を巻き取り、ようやくローレンスに視線を向けた。
「ミリアの言う通りだ。俺は退職時、規定通りに引き継ぎ資料と制御端末を残して王都を去った。それを受け取った上で破棄し、結界を維持できなかったのはあんたたちの責任だ。俺が関与する筋合いはない」
「レ、レオン君! 頼む、考え直してくれ! 君が戻らねば、王都の大結界は二度と修復できないのだ! 残った貴族たちも逃げ出し、王都は完全に瓦解してしまう! 頼む、頼むから……!」
先ほどまでの取り繕った態度は消え失せ、ローレンスはすがりつくように膝を折った。だが、その懇願に響くものは何もない。自分の保身と権力への執着が透けて見えるだけだ。
「あんたがどうなろうと、王都がどうなろうと、俺には関係のないことだ。俺の仕事はここにある」
俺は短く言い捨てると、そのまま背を向けた。ローレンスが何か叫ぼうとしたが、詰め寄る前に護衛の兵士たちによって遮られ、そのまま出口へと押し出されていく。
振り返ることもしなかった。かつて見限った場所の残骸に、割くべき時間は一秒もない。
数刻後、中央広場を抜けて居住区の北側に位置する水路へ向かった。
ここは山からの清流を引き込み、生活用水と農業用水を同時に賄うために新たに設計した区画だ。水路の側壁には防汚と水流安定のための結界術式を刻み込んであり、詰まりや氾濫が起こらないよう工夫されている。
現場に近づくと、水しぶきの音と共に、騒がしい歓声が聞こえてきた。
「うおおおおっ! 見ろよノア、水が勝手にゴミを避けて流れていくぞ! どうなってんだこれ!?」
頭にタオルを巻いたカシムが、水路の縁に身を乗り出して叫んでいた。作業着の袖をまくり上げ、流れてくる小枝が結界の境界面で綺麗に脇へ弾かれる様子を、まるで手品でも見るかのように凝視している。
「カシムさん、危ないですから身を乗り出さないでください! 落ちたら服がびしょ濡れになりますよ!」
その隣で、記録板を抱えたノアが必死にカシムの腰布を引っ張っていた。かつて宮廷魔術師団で青白い顔をしていた青年は、すっかり陽に焼け、額に汗を光らせている。
「何を言ってやがる! この水路の勾配、俺たちが組んだ石組みとレオンの旦那の術式が完璧に噛み合ってんだぞ! 職人として興奮しねえわけがねえだろうが!」
カシムは歯を剥き出して笑い、ノアの肩を豪快に叩いた。ノアは痛そうに顔をしかめつつも、その表情には充実した光が宿っている。
「まったく……旦那の術式が規格外なのは最初から分かってたことでしょうに。ほら、次は南側の導水管の固定です。カシムさんの班が木枠を組んでくれないと、僕の方で術式を定着させられません」
「おうよ、任せとけ! 百年保つ頑丈なやつを組んでやる!」
二人の掛け合いに、周囲で作業していた大工や元避難民の男たちからもどっと笑いが起きた。王都から逃れてきたばかりの頃は怯えた顔をしていた者たちも、今ではすっかり作業の手を動かし、互いに冗談を交わし合っている。
「賑やかですね」
いつの間にか隣に並んでいたミリアが、穏やかな声で言った。
「ああ。少し騒がしすぎるくらいだがな」
俺は苦笑交じりに応じながら、水路の端に刻まれた術式の輝きを確認した。過負荷もなく、極めて滑らかに魔力が循環している。
王都にいた頃、俺の仕事は誰の目にも触れず、ただ滞りなく動いて当然のものとして消費されていた。感謝されることもなく、理解されることもなく、ただ一人で暗闇の中の歪みを修復し続けるだけの日々だった。
だが、ここでは違う。
俺が引いた術式の意味を理解しようとする助手がいて、それに合わせて最高の構造物を作り上げる職人がいて、生活の安全を守るために背中を預けてくれる仲間たちがいる。俺の技術は正しく使われ、正しく評価され、目の前で人々の笑顔に変わっていた。
水路の先では、子供たちが歓声を上げながら水際を駆け抜けていく。空は高く澄み渡り、遠くの山並みが青く煙っていた。
「レオン様、次の区画の設計確認をお願いできますか? バルド様もお待ちです」
ミリアが丁寧な仕草で書類を差し出してくる。その眼差しには、絶対の信頼が込められていた。
「わかった。すぐに行こう」
俺は羊皮紙を受け取り、活気に満ちた街並みへと歩き出した。
騒がしくも平和な日常風景に、自然と口元が緩む。
この要塞都市路路が、これからどれほどの広がりを見せていくのか。新しく築かれていく街の息吹を肌に感じながら、俺は迷いのない足取りで前へと進んだ。




