第27話
朝日が昇るにつれ、要塞都市の外縁に広がっていた焦土の匂いは、すっきりと澄んだ朝露の気配にかき消されていった。
昨夜の魔獣の大群を完全に退けたことで、街には確かな落ち着きが戻っている。避難してきた人々を収容するための仮設宿舎が手狭になってきたため、俺は朝一番から西側の区画へと足を運んでいた。
「レオン先輩、こっちの基礎杭の魔力線、予定通り五歩間隔で配置完了しました! ご確認をお願いできますか」
小走りで駆け寄ってきたノアが、羊皮紙の図面を広げて見せる。
宮廷魔術師団のローブではなく、動きやすい麻の上着を着た彼は、額に汗を浮かべながらも引き締まった顔つきをしていた。
「うん、問題ない。各杭の接続角を三度だけ内側に傾けてくれ。そうすれば、地盤を固める補助結界の干渉が起きにくくなる」
「なるほど……反発し合う余剰魔力を相殺するんですね。すぐ修正します!」
ノアは短く頷き、携帯用の魔導コンパスを手に作業へ戻っていった。
宮廷にいた頃は周囲の顔色ばかりを窺っていた男だが、実務に集中している今の動きには無駄がない。渡した指示を正しく理解し、着実にこなしてくれる助手の手腕は、都市の拡張作業において大いに役立っていた。
俺は腰の工具袋から触媒の粉末を取り出し、地面に描かれた術式ラインの結節点へ均等に撒いていく。
淡い青の光が地面を這い、土がわずかに締まる感覚が足裏に伝わった。これで雨が降っても泥濘むことはないし、外壁から漏れる微小な余波も完全に遮断できる。
「手際が見事すぎて、見ていて飽きないな」
背後から朗らかな声が届いた。振り返ると、アリアが湯気の立つ木製の水筒と二つの陶器の杯を手に歩み寄ってくるところだった。
「アリア。そっちの炊き出しの手配は片付いたのか?」
「ええ。昨晩の保存食に加えて、農地で収穫されたばかりの新鮮な芋を使ったスープを配り終えたところよ。皆、温かい食事と頑丈な壁にすっかり安心して、涙を流して感謝していたわ」
アリアは杯の一つを俺に差し出しながら、柔らかく目を細めた。
受け取った杯からは、乾燥させた野草を煎じた香ばしい湯気が立ち上っている。
「それは良かった。ただ、人が増えればその分、生活用水と衛生面の結界も補強しなきゃならない。午前中には西区画の浄化ラインを繋げてしまいたいところだ」
「相変わらず休むことを知らないのね。でも、まずは一杯飲んで。父も言っていたわ、要のあなたが倒れたら元も子もないって」
「倒れるような無理はしていないさ。王都にいた頃に比べれば、睡眠時間は三倍以上確保できている」
事実だった。かつては誰にも知られぬまま、夜通し大結界の綻びを一人で縫い合わせ、朝になれば無能と罵られながら雑務をこなす毎日だった。それに比べれば、作業の成果が目に見え、周囲が正当に協力してくれる現在の環境は、驚くほど精神的な負荷が軽い。
茶を一口含むと、心地よい苦味と温かさが喉を通り、胃の腑に染み渡っていった。
そのとき、都市の正門の方角から、ざわめきが波のように広がってきた。
ただの歓声や作業の喧騒ではない。怒号と、侮蔑の混じった重苦しい声だ。
「何事かしら……」
アリアが眉をひそめ、門の方角へ視線を向ける。
ノアも手を止め、不安そうにこちらを見た。俺は杯を傍らの木箱に置き、二人に歩調を合わせて大通りへと向かった。
門前の広場には、大勢の避難民と自警団の兵士たちが人垣を作っていた。
その中央を、数名の武装した護衛兵が、縄で両手を固く縛られた一人の男を引きず参るようにして歩かせている。
泥と埃に塗れ、かつて豪奢を極めていたはずの緋色のローブは無残に裂けていた。
恰幅の良かった体つきは見る影もなくやつれ、脂ぎっていた頬はげっそりと削げ落ちている。
ガイウスだった。
「離せ……! 私は宮廷魔術師団長だぞ! 貴様らのような下民が、私に触れていいはずがないだろう!」
かすれた声で喚き散らすが、周囲の避難民たちから向けられるのは、凍りつくような冷笑と憎悪の視線だけだった。
「魔術師団長だと? どの口が言いやがる!」
「結界が破れた瞬間、自分だけ真っ先に安全な地下へ逃げ込もうとしたくせに!」
「あんたが無能なせいで、俺たちの街も家も魔物に食い荒らされたんだ」
罵声とともに、投げつけられた小石がガイウスの額に当たった。男は悲鳴を上げて地面に転がり、泥水に顔を突っ伏す。
護送を率いていた兵士の隊長が、群衆を押し通って前へと進み出た。彼はアリアと俺の姿を認めると、深く頭を下げた。
「アリア様、レオン殿。王都の生き残り部隊より、本件の処遇についてご報告いたします」
兵士は懐から、煤で汚れた巻物を取り出した。
「王都大結界の完全崩壊に伴うスタンピードにより、王都機能は壊滅いたしました。国王陛下の命により、結界管理の最高責任者でありながら防衛義務を怠り、保身のために職務を放棄したガイウス元団長を重罪人として捕縛。辺境伯領の地下牢獄への身柄引き渡しを執行いたします」
地面に倒れ伏していたガイウスが、ビクリと肩を震わせた。
泥まみれの顔を上げた彼の視線が、人垣の先にある俺の姿を捉えた。
男の濁った瞳に、すがるような光が宿る。
「レ、レオン……! レオンじゃないか!」
ガイウスは縛られた両腕を振り回しながら、膝でにじり寄ってきた。
衛兵が槍の柄で制止しようとするが、男は狂ったように泥を掻き分け、俺の足元へ頭を擦りつける。
「頼む、レオン! 私を助けてくれ! お前なら……お前の結界術なら、王都を元通りに修復できるはずだ! 大結界さえ戻れば、私の罪も軽くなる! 頼むから戻ってくれ!」
そのなりふり構わぬ姿に、周囲の避難民たちから失笑が漏れた。
「おい、見ろよ……あれが王都の最高峰魔術師だとさ」
「散々レオン様を役立たず扱いして追い出したくせに、全部失ってから泣きつくなんて、見下げ果てた男だ」
ノアが苦い表情で視線を逸らし、アリアは静かに怒りをたたえた瞳で男を見下ろしている。
俺は足元で震える元上司を、ただ無機質に見つめた。
感情の波は一切立たなかった。怒りも、憐憫も、嘲笑う気持ちすら湧いてこない。ただの、完全に終わった過去の残骸がそこにあるだけだった。
「ガイウス」
静かに名を呼ぶと、男は救いを見出したかのように顔を上げた。
「あ、ああ! なんだ!? 戻ってくれるのか!? お前を副団長にしてやる! いや、私が退いて団長の座を譲ってもいい! だから――」
「退職の際、業務の引き継ぎ資料と制御端末の要石は、すべて規定通りに引き渡したはずだ」
感情を交えず、淡々と事実を告げる。
「お前はそれをゴミと言って床に投げ捨て、要石をただの文鎮と呼んで引き出しに放り込んだ。そして即日退職の念書にサインさせた。すべて手続きは完了している」
「そ、それは……! お前がもっと分かりやすく説明しなかったのが悪いんだろう!? あんな難解な数式と術式、誰が読めるというんだ! 毎晩お前が一人で修復していたなど、聞いていなかった!」
ガイウスは喚き、唾を飛ばした。
「要石の記録を解析して、ようやく分かったのだ! あの巨大な術式を、たった一人で維持していた化け物が誰だったのかを! それを黙っていたお前の悪意だ! 私を陥れるための罠だったに違いない!」
どこまでも他人のせいにするその物言いに、アリアが一歩前へ出ようとした。だが、俺は軽く片手を上げて彼女を制した。
言葉を重ねて反論する必要すら感じなかったからだ。
「引き継ぎ書には、基礎理論から日常のメンテナンス手順まで、一切の省略なく書き残してあった。読めなかったのはお前の実力不足であり、読もうとしなかったのはお前の職務怠慢だ」
俺はガイウスの目を見据え、はっきりと言い切った。
「俺は俺の仕事をした。そして、正当に評価されない場所を去った。それだけだ。王都がどうなろうと、お前がどう裁かれようと、現在の俺には何の関係もない」
「レ、レオン……! 見捨てるのか!? この私を、かつての上司である私を見捨てるというのか――!」
「衛兵。連れて行ってくれ」
俺の合図ひとつで、護衛兵たちが容赦なくガイウスの両脇を抱え上げ、無理やり引きずり起こす。
「やめろ! 離せ! レオン、頼む! 許してくれ、悪かった! 私が間違っていた! お前は雑用なんかじゃない、本物の天才だ! 認める、認めるから助けてくれぇぇぇっ!」
絶叫と号泣が、街道の彼方へと遠ざかっていく。
哀れな男が要塞都市の頑丈な石造りの牢獄へと連行されていく様を、集まった人々は冷ややかな沈黙で見送っていた。
魔術の真価を理解せず、他者の成果を搾取し、権威に溺れた者の当然の末路だった。王都は崩壊し、権力構造は瓦解した。かつて俺を縛り付けていた理不尽な組織は、もうどこにも存在しない。
「……すっきりしました」
ぽつりと呟いたのはノアだった。彼は少し凭れていた肩の力を抜き、自嘲気味に笑った。
「僕も昔は、あの人の顔色ばかり気にして、先輩の凄さから目を背けていました。もしあのまま王都にいたら、僕も同じように破滅していたはずです。ここに来られて……先輩の下でやり直す機会をもらえて、本当によかった」
「お前が自分で決めて、ここまで走ってきた結果だ。過去を悔やむより、引いた線の角度を直しに行け」
「はいっ! すぐ終わらせます!」
ノアは深く一礼すると、晴れやかな足取りで西区画へと走っていった。
群衆もまた、それぞれの日常へと散っていく。壊れた建物を直す槌音や、炊き出しの鍋を洗う金属音、子どもたちの笑い声が、再び心地よい生活のざわめきとなって街を満たし始めた。
「お茶、冷めてしまったかしら」
アリアが木箱の上の杯を手に取り、少し困ったように小首を傾げた。
「いや、まだ温かい」
俺は杯を受け取り、残っていた茶をゆっくりと口に含んだ。
素朴だが力強い大地の香りと、柔らかな温もりが身体を満たしていく。
ガイウスが連行されていった背広の向こう、鉄壁の防壁の外側には、どこまでも広がる青い空と荒野が続いていた。
俺はその光景を一瞥することもなく、目の前で微笑むアリアに向き直り、温かい茶の香りに目を細めた。




