第26話
数千頭に及ぶ魔獣の進軍が、荒野の大地を激しく揺るがしていた。
荒野の地平線を埋め尽くした魔物の本隊が、津波となって押し寄せてくる。王都を蹂躙し、巨大な石壁すら軽々と突破してきた異形の群れだ。その総数は優に数千を超え、立ち上る黒い瘴気は空を覆い隠すほどだった。
避難してきた人々が息を呑み、恐怖に顔を青ざめさせるのが肌で伝わってくる。
だが、要塞都市の外周を覆う青いドーム――俺が展開した多重反発結界は、微動だにしなかった。
先頭を走る巨大な剛角獣が、全速力で光の壁へと激突する。
次の瞬間、轟音と共に衝撃波が外側へ向けて弾け飛んだ。結界の表面に刻まれた幾何学模様が鋭く明滅し、魔獣の突進力を寸分違わずそのまま反転させて撃ち返す。
頭骨を砕かれた魔獣が悲鳴すら上げられずに吹き飛び、後続の群れをなぎ倒した。何十、何百という魔物が次々と結界の境界面に衝突しては、自らが放った衝撃に呑まれて粉砕されていく。
「……す、すごい……」
「嘘だろ……? 王都の大結界を一瞬で食い破ったあの化け物どもが、掠り傷一つつけられないのか……!?」
胸壁の上や広場から見守っていた王都からの難民たちが、目を見張って震える声を漏らす。
彼らの記憶にある防壁は、魔物に削られ、軋み、容易に崩れ去る脆いものだったはずだ。だが、あれは経年劣化を放置され、日々の細やかな魔力循環を奪われて腐り落ちた出がらしに過ぎない。
真に組み上げられた結界術がどれほどの強度を持つのか、彼らは今ここで初めて目の当たりにしていた。
「レオン殿! 結界の負荷はどうだ!?」
防壁の上へ駆け上がってきた領主のバルド様が、分厚い手で手すりを叩きながら叫んだ。その隣には、腰の剣に手を添えたアリアが並び立つ。亜麻色の髪を風になびかせ、彼女の眼差しは揺るぎない信頼をこちらへ向けていた。
「問題ありません、バルド様。魔力草を媒体にした循環路は完全に安定しています。外殻の歪みは皆無です」
「ははっ、頼もしい限りだ! あの大軍勢を前にして、傷一つ負わんとはな!」
バルド様が豪快に笑い飛ばす。その堂々たる態度に、張り詰めていた周囲の兵士たちの顔にも笑みが戻った。
「レオン」
アリアが歩み寄り、落ち着いた声で俺を呼ぶ。
「防衛は完璧です。ですが、あの数をただ防ぎ続けるだけでは、荒野の瘴気が領地を汚染してしまいます。何か手立てはありますか?」
「ああ、準備はできている」
俺は視線を正面の群勢へと戻した。結界の外では、衝突死した同胞の死骸を踏みつけながら、狂乱した魔獣たちがなおも光の壁を叩き続けている。
ただ受けるだけの盾で終わらせるつもりは毛頭ない。
「アリア、少し眩しくなる。目を細めていてくれ」
「ええ、分かったわ」
指先を鋭く弾くと、青いドームの表面に刻まれた十重の術式環が一斉に噛み合い、低く唸りを上げた。
展開している多重結界は、外からの衝撃を吸収し、運動エネルギーとして蓄積する構造になっている。数千頭の魔物が突進し、叩きつけてきた破壊の力は、すべて結界の内部回路へと充填されていた。
要石のメンテナンスもせず、ただ派手な火力ばかりを誇っていた連中には、この術理の真髄など永久に理解できないだろう。
王都の崩壊後、泥に塗れて土下座し、復帰を哀願してきた元上司の姿が脳裏をかすめる。彼らは事態が手遅れになって初めて、俺が残した資料の価値に気づき、要石のログを暴いて真実を知ったのだ。だが、自分たちの都合で雑用と切り捨てたものを、危機になったからと都合よく呼び戻せるはずがない。
俺は規定通りにすべてを引き継ぎ、あの場所を去った。見切りをつけた過去に、差し伸べる手など持ち合わせていない。
「術式反転――位相変換、全出力解放」
俺の呟きとともに、蒼藍色だった結界が、一瞬にして白銀の輝きへと変貌した。
ドームの外壁に集束されていた膨大な運動エネルギーが、純粋な指向性熱波へと変換される。結界の表面全体から、太陽の破片のような閃光が四方八方へと放射された。
音は遅れてやってきた。
空気が焼き切れる甲高い共鳴音とともに、視界のすべてが純白の光で塗り潰される。
轟音すら置き去りにした光の奔流が、要塞都市を取り囲む荒野を余すところなく薙ぎ払った。結界に群がっていた数千の魔物たちは、悲鳴を上げる隙すら与えられず、光に触れた瞬間に細胞の一つ残らず分解され、塵となって霧散していく。
数千の咆哮と地鳴りが、一瞬で掻き消えた。
数秒後、光の余波が収まり、吹き荒れる熱風が結界の排気弁から逃げていく。
目を開けた誰もが、外の光景に言葉を失っていた。
先ほどまで地平線を埋め尽くしていた魔物の大軍勢は、影も形もなく消滅していた。残されたのは、綺麗に整地されたかのように平坦になった荒野と、青く晴れ渡った広大な空だけだった。
一匹たりとも、都市の境界線を越えさせることはなかった。
静寂が要塞都市を包み込む。誰もが呼吸を忘れ、目の前に広がる圧倒的な結果を呆然と見つめていた。
やがて――。
「……勝った……?」
誰かがぽつりと呟いた。
「勝ったぞ……! 俺たちの勝ちだァーッ!」
兵士の一人が槍を突き上げて叫んだのを皮切りに、城壁の上から、そして街中の広場から、割れんばかりの大歓声が爆発した。
「うおおおおおっ! 一撃だ! あの大群が一瞬で消し飛んだぞ!」
「レオン様! レオン様万歳!」
「助かった……! 本当に助かったんだ……!」
難民たちの中には、涙を流しながら抱き合って座り込む者や、天を仰いで祈りを捧げる者の姿があった。王都を追われ、絶望の淵を彷徨っていた彼らにとって、この勝利は単なる防衛ではなく、生きる希望そのものの獲得だった。
「見事だ、レオン殿! 実に見事な手際だ!」
バルド様が歩み寄り、豪快に俺の肩を叩いた。その顔には、領民と街を守り抜いた男としての誇りと、深い感謝が満ち溢れている。
「お前のような傑物を迎え入れることができたのは、我が領の最大の幸運だ。心から礼を言う」
「ありがとうございます、バルド様。ですが、これは皆が迅速に避難を完了し、迎撃の体制を支えてくれたおかげです」
俺が淡々と応じると、隣にいたアリアが柔らかく目を細めて微笑んだ。
「ふふ、相変わらず欲がありませんね、レオン。あなたがどれほど途方もない奇跡を起こしたか、もっと誇っても良いのですよ?」
「奇跡じゃないさ。計算通りの術式を動かしただけだ」
「そういうところも、あなたらしいですけれど」
アリアはそう言って、鈴を転がすような声で笑った。その表情には何の打算もなく、ただ純粋な敬意と親しみが滲んでいる。
王都の宮廷魔術師団にいた頃、俺に向けられていたのは無理解と嘲笑だけだった。どれほど完璧に防壁を保っても、誰にも気づかれず、ただの雑用として扱われていた日々。だが、ここには違う空気が流れている。俺が成した仕事を正当に理解し、信じて背中を預けてくれる人々がいる。
王都は自らの傲慢さによって崩壊し、ガイウスたち首謀者は職務放棄と結界破壊の責を問われて投獄されたと聞く。身から出た錆というほかない。彼らが失ったものの大きさに悔し涙を流そうと、もはや俺の知ったことではなかった。
俺は、俺の力を必要とし、正しく受け止めてくれるこの土地を選んだのだ。
「さあ、レオン殿! 今夜は勝利の宴だ! 街中の酒と肉を振る舞うぞ!」
「ええ、お父様。避難してきた方々にも温かい食事を配りましょう。これからの復興に向けて、皆で力を合わせなければ」
バルド様とアリアが言葉を交わし、兵士たちへ次々と指示を出し始める。街中から湧き上がる歓喜のざわめきが、心地よい波となって耳朶を打った。
胸壁から見下ろす要塞都市は、力強い生命の熱気に満ちている。
荒野を渡る風が、穏やかにローブの裾を揺らした。俺は仲間たちの輪の真ん中で、これまでにない確かな充足感とともに、これからの都市の未来へと静かに思いを馳せていた。




