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第25話

地鳴りのような轟音が、遥か街道の先から大気を震わせて伝わってきた。


外壁の胸壁から北の荒野を見下ろすと、地平線を黒々と塗りつぶす魔物の群れが砂煙を巻き上げていた。王都を蹂躙し、防壁を食い破ったスタンピードの本体だ。その前方を、逃げ遅れた避難民たちの最後の集団が必死の形相で走っている。


「ひ、ひぃっ……! あんな数、王都の近衛兵団でも防げっこないですよ……!」


隣で双眼鏡を覗き込んでいたノアが、小刻みに震えながら声を上ずらせた。大きなローブの袖を握りしめ、顔面を蒼白にしている。かつて宮廷魔術師団で机上の空論ばかりを教え込まれていた彼にとって、眼前の光景は世界の終わりのように見えているのだろう。


「落ち着け、ノア。敵の進行速度と風向きを計算しろ。お前の仕事は怯えることじゃない」


「は、はいっ……! 風速四、北北西から! 先頭集団の到達まで、およそ三分です!」


ノアは慌てて手元の測定器に魔力を通し、震える指で数値を読み上げた。恐怖に呑まれかけながらも、投げ出さずに役割を果たそうとしている。王都で保身ばかりを考えていた頃とは、目の色が違っていた。


「おいおい、レオンの旦那! 言われた通り、街中の魔力草をありったけ集めてきたぜ!」


階段をドタドタと駆け上がってきたのは、大工の棟梁カシムだった。屈強な男たちを何人も従え、背負い籠いっぱいに詰め込まれた青緑色の草を足元に降ろす。独特の青臭い香りが鼻腔を突いた。


「助かる。カシム、外壁の補強杭の固定は終わったか?」


「おうよ! 旦那の引いてくれた術式ラインに沿って、ガチガチに打ち込んでやった。どんな衝撃が来ようが、壁一枚揺るがせやしねえよ!」


カシムは額の汗をタオルで乱暴に拭い、歯を剥き出して笑った。怯え切った王都の連中とは対照的に、この街の住人たちは自分の手で防壁を支える気概に満ちている。俺が提供した技術を正しく受け止め、全力を尽くしてくれる彼らの存在が、何よりも頼もしかった。


「ノア、魔力草の選別と粉砕を頼む。触媒としての純度を均一に保ちたい」


「了解しました、レオン先輩! すぐにやります!」


ノアは作業台へ駆け寄り、乳鉢に草を放り込んで手早くすり潰しにかかった。


王都にいた頃の自分をふと思い出す。毎晩、誰にも気づかれないまま大結界の修復作業を一人でこなし、朝になれば無能と罵られるだけの日々。ガイウスたち宮廷の上層部は、結界をただの置物だと信じ込み、俺が渡した詳細な引き継ぎ資料すらゴミとして投げ捨てた。


結果として王都の大結界は限界を迎えて崩壊し、あの壮麗だった街は魔物の爪牙に屈した。ガイウスは失脚して投獄され、王都そのものが没落の一途を辿っていると聞く。すべては、目に見えない基盤を軽視し続けた連中の自業自得だった。


だが、この辺境の要塞都市は違う。

俺が敷いた術式を誰もが理解しようと努め、カシムのような職人が形にし、アリアたちが人々を導いている。自分の知識と技術が正当に活かされるこの場所こそが、俺の求めていた居場所だった。


眼下に視線を戻すと、逃げてくる難民たちの最後尾に、ひときわみすぼらしい男の姿が見えた。擦り切れた高級シルクのローブを泥まみれにし、片眼鏡を斜めに歪ませた男――ザイードだった。


「開けろ! そこを開けろぉっ! 俺を中に入れろ!」


ザイードは息を激しく乱しながら、他の難民を押しのけて外門へと突進していた。かつてガイウスの腰巾着として威張り散らし、俺を雑用係と見下していた面影はどこにもない。ただ己の命惜しさに、周囲の老人や子供を突き飛ばして先頭に割り込もうとしている。


「おい、レオン! そこにいるんだろ! 早くその結界を解いて俺を助けろ! 俺を誰だと思っている、宮廷魔術師団の幹部だぞ!」


門の上を見上げ、ザイードがヒステリックに叫び散らした。その醜態に、周囲の避難民たちからも冷たい視線が向けられる。誰も彼の手を取ろうとはしなかった。他人の功績に寄生し、危険になれば真っ先に仲間を裏切って逃げ出すような男を、庇う者などこの場には一人もいない。


「レオン、頼む! 昔の同僚じゃないか! お前が雑用を押し付けられてた時も、俺は陰ながら評価してやってたんだ! だから助けてくれぇっ!」


見え透いた嘘と哀願が、荒野の風に乗って届く。俺は胸壁の縁に立ち、無表情のまま彼を見下ろした。


「ザイード。俺は退職の際、規定通りの引き継ぎをすべて完了させたはずだ。それに、あんたたちの組織とは既に一切の契約を結んでいない」


「なっ……な、何を言っているんだ! こんな時に杓子定規なことを言うな! 見捨てる気か!」


「見捨てるも何も、お前が自分で選んだ結果だ」


淡々と事実を告げる。感情を荒らげる必要すらなかった。


直後、背後から迫っていた二足歩行の巨大な魔獣が、逃げ惑うザイードの影を完全に覆い隠した。ザイードが短く絶叫し、懐から魔術のスクロールを取り出そうとするが、震える指先が滑って泥の中に落としてしまう。


「あ、あ、あああっ――!」


振り下ろされた巨大な鉤爪が、ザイードの身体を容赦なく薙ぎ払った。誰にも顧みられることなく、小悪党の命は一瞬にして荒野の塵と消えた。


「……自業自得だな」


短く呟き、俺は視線を前方へと切り替えた。難民の収容はすでに完了し、防壁の頑丈な鉄扉が重々しい音を立てて完全に閉じられる。


「レオン先輩! 触媒の調合、完了しました!」


ノアが叫び、青緑色に輝く粉末の入ったトレイを掲げた。辺境に自生するありふれた魔力草。王都の連中なら見向きもしない雑草だが、特定の術式を通すことで、魔力の伝導効率を爆発的に跳ね上げる触媒となる。


「よくやった。カシム、結界基部の固定杭に魔力草の粉末を流し込め」


「合点承知だ!」


カシムが手際よく粉末を基部へと投入していく。仕込みはすべて整った。


俺は息を深く吸い込み、両手をゆっくりと掲げた。胸の奥から魔力を引き出し、外壁全体に張り巡らせた幾重もの術式へと注ぎ込んでいく。


「展開――『多重反発外殻結界』」


囁くような詠唱とともに、要塞都市全体が淡い青い光の膜に包まれた。魔力草の触媒効果により、外壁の外側に展開された半球状の防壁は、通常の結界術ではあり得ないほどの密度と硬度を獲得していく。空中に幾何学的な光の紋様が幾重にも重なり、都市全体をドーム状に覆い尽くした。


その瞬間、先頭を走っていた巨大な突進型の魔獣数十頭が、猛烈な勢いで結界へと激突した。


――ゴォォォンッ!


釣鐘を内側から叩いたような硬質な重低音が荒野に響き渡る。だが、青い光の防壁は微動だにしなかった。それどころか、結界表面に施された反発術式が激突の運動エネルギーをそのまま跳ね返し、突っ込んできた魔獣たちの頭蓋を内側から粉砕した。


前衛の魔獣たちが自らの突進力で次々と自滅し、血飛沫を上げて倒れ伏していく。


「す、すげえええっ! あのデカ物どもが一匹も通れねえぞ!」


カシムが胸壁を叩いて歓声を上げた。外壁の上にいた防衛隊の兵士たちからも、どよめきと確かな手応えを含んだ声が次々と上がる。


「本当に……本当に防ぎ切った……! 王都の防壁を破ったあの群れを、完全に押し留めてる!」


ノアが感極まったように声を震わせ、光り輝く結界の天井を見上げていた。


だが、俺はまだ気を緩めていなかった。先頭の突撃を弾き返したに過ぎない。荒野の彼方には、依然として数千を超える魔物の本隊が蠢いている。王都を滅ぼした災厄の本体が、前衛の死骸を踏み越え、怒号のような咆哮を上げながら総攻撃の態勢へと移行し始めていた。


青い光のドームの外側で、黒い大軍勢が波のようにうねり、一斉にこちらへ向かって雪崩を打って押し寄せてくる。


「総員、配置を維持しろ。本番はここからだ」


俺は静かに告げ、防壁の向こうで渦巻く圧倒的な暴力の奔流を、冷静に見据えた。

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