第22話
夜明けの光が、新緑に覆われた要塞都市の防壁を淡く照らし出していた。
拡張した外縁部の感知網は、途切れのない安定した脈動を返している。指先をかざして魔力の循環を確かめると、幾重にも編み込んだ防護術式が滑らかに駆動し、大気中の乱れを余さず拾い上げていた。
王都の方角から届く魔力の余波は、依然としてざわめきを含んでいる。あちらの大結界が砕け散った影響は、遠く離れたこの辺境の地にまでかすかな大気の歪みとして届いていた。
「レオン、北側の外縁感知網に反応がありました」
見張り台の階段を上がってきたアリアが、腰の細剣を軽く押さえながら告げた。亜麻色の髪を風になびかせたその横顔には、領主代行としての引き締まった緊張感が宿っている。
「魔物か?」
「いえ……魔力の波長は人間です。単独で、かなり衰弱している様子だと報告が入っています」
「確認に行こう」
アリアに促され、俺は中央門へと向かった。ミリアもいつの間にか音もなく現れ、アリアの斜め後ろにぴったりと控えている。
頑丈な防壁の通用門が開かれると、外の荒野から泥にまみれた人影がふらふらと歩み寄ってくるのが見えた。
破れかけた宮廷魔術師団のローブ。大きすぎる袖口をだらしなく垂らし、足をもつれさせながら、その人物は門扉の前に崩れ落ちた。
「……あ、ああ……」
土煙にまみれた顔を上げたのは、見覚えのある青年だった。そばかすの散る頬はやつれ果て、唇は乾ききってひび割れている。
「ノアか」
俺が声をかけると、ノアは焦点を合わせるように何度も瞬きを繰り返した。
「レオン……先輩……? 本当に、レオン先輩なんですか……」
震える声で呟いたノアは、膝をついたまま泥水の中に両手をついた。宮廷にいた頃の自信なさげな姿そのままに、しかしその瞳には底知れない恐怖と絶望の色が焼き付いていた。
「水をやれ」
ミリアが素早く水筒を差し出す。ノアは貪るように水を飲み干すと、喉を詰まらせながら何度も咽び泣いた。
「王都が……王都が、もう終わりです……! 大結界が砕けて、スタンピードが市街地に雪崩れ込んで……火と煙と、魔物の咆哮で……街全体が地獄になって……っ!」
途切れ途切れに吐き出される言葉には、現実のものとは思えないほどの惨状が凝縮されていた。
ザイードが要石を暴走させて逃げ惑い、魔物に呑み込まれたこと。ガイウスが最後まで己の権威に縋りつきながら指揮系統を崩壊させたこと。そして宰相ローレンスが私兵と共に市民を置き去りにして姿を消したこと。
「僕も、必死で逃げました……結界が消えた王都には、もう何も残っていなくて……気づいたら、先輩が残した資料に書いてあった辺境の印だけを頼りに、ここまで走って……」
ノアは額を地面に擦りつけて平伏し、その肩を激しく震わせた。
「ごめんなさい……っ! 僕、あの時……先輩が理不尽に追い出された時、何も言えなかった! 先輩がどれだけ王都を支えていたか、毎朝どれほど疲弊しながら結界を直していたか、薄々気づいていたのに……自分の立場が怖くて、ガイウス団長やザイードさんに逆らえなくて……っ!」
絞り出すような慟哭が、静まり返った城門前に響き渡った。
アリアは痛ましげに眉をひそめ、ミリアは表情を変えずにノアを見下ろしている。
俺は感情を波立たせることなく、泥に塗れたかつての後輩を静かに見据えた。
「頭を上げろ、ノア」
静かな声で告げると、ノアはおずおずと顔を持ち上げた。涙と泥でぐしゃぐしゃになった顔が、こちらの表情を伺うように見上げてくる。
「あんたが謝る筋合いじゃない。俺を解雇すると決めたのはガイウスであり、支援魔術をただの雑用だと切り捨てたのは師団全体の総意だ」
「でも、僕は……っ!」
「それに、引き継ぎはすべて済ませてあった。マニュアルも要石も、規定通りに置いてきたはずだ。それを読まず、理解しようともせず、保身のために握りつぶしたのはあいつら自身だ」
俺の言葉に、ノアは言葉を失って唇を震わせた。
ガイウスが以前、この地に現れて土下座をし、副団長の座をちらつかせながら復帰を乞うてきた時のことが頭をよぎる。あの男もまた、結界の真価を理解したからではなく、己の保身と破滅を逃れるためだけに頭を下げたのだ。
「道具の価値を知ろうとせず、壊れてから元に戻せと叫んでも手遅れだ。それは王都が、あそこにいた者たちが選んだ結果にすぎない」
淡々と言い放つ俺の言葉に、ノアは息を呑んだ。
そこには怒りも怨嗟もない。ただ冷徹な事実の提示があるだけだった。だが、それこそが何よりも重い断絶を意味していることを、ノアも理解したようだった。
「……先輩は、もう王都に戻る気はないんですね」
「当然だ。俺にはここでやるべきことがある」
俺は視線を上げ、要塞都市の街並みへと向けた。朝の光を浴びながら、住民たちが畑や工房へ向かう姿が見える。活気に満ちたその光景は、王都のそれとは比べものにならないほど力強く、温かい。
ノアはゆっくりと立ち上がろうとしたが、足に力が入らずによろめいた。ミリアが冷ややかな手つきでその腕を支える。
「アリア様、どうなさいますか。不法侵入者として拘束することも可能ですが」
「いえ、まずは医務室へ運びましょう。体力の回復が先決です」
アリアは毅然とした声で指示を出した。
「ノア、あなたの罪や後悔が消えるわけではありません。ですが、真実から逃げずにここまで辿り着いたその足だけは、無駄ではなかったはずです」
アリアの凛とした言葉に、ノアは再び大粒の涙をこぼしながら深く頭を下げた。
「ありがとうございます……っ。どんな罰でも受けます……どうか、ここで働かせてください……!」
衛兵たちに付き添われ、ノアが城内へと連れて行かれるのを見送った後、アリアが俺の隣に並んだ。
「レオン。ノアの話が正しければ、事態は私たちの想像以上に深刻です」
「ああ。王都の防壁が完全に消失したとなれば、中心部から溢れ出した魔物の群れが四方に散る」
「はい。そして魔物から逃れた一般市民や兵たちもまた、安全な場所を求めて移動を始めるはずです」
アリアの指摘は的確だった。
王都という巨大な防波堤が失われた今、大陸の力関係は崩壊した。行き場を失った大量の避難民が、堅牢な防壁を持つこの要塞都市を目指して押し寄せてくるのは時間の問題だった。
「ミリア、備蓄食料と医療品の棚卸しを急いでくれ。受け入れ可能な人数の試算も頼む」
「承知いたしました、アリア様。至急手配いたします」
ミリアが一礼し、手際よく指示を出すために駆け出していった。
「レオン、結界の拡張と補強は可能でしょうか。避難民を受け入れるとなれば、現在の居住区だけでは到底足りなくなります。外縁部の荒野を一時的な収容区画として組み込む必要がありますが……」
「問題ない。魔力草の抽出液を使った触媒を配置すれば、外周防壁の有効範囲をあと三倍は広げられる。気候制御の術式も並行して組み込んでおけば、粗末な天幕でも夜露や寒さに凍えることはない」
「心強いです。あなたの力があるからこそ、私たちはこの未曾有の危機に立ち向かうことができます」
アリアは安堵の混じった笑みを浮かべ、それから真剣な眼差しで俺を見つめた。
「王都を見捨てたことを、悔やんではいませんか?」
「まさか」
俺は短く答えた。
「あそこには、俺が守るべきものは何一つ残っていなかった。それだけのことだ」
俺の技術を「地味な雑用」と嘲笑い、搾取することしか頭になかった場所。そこに未練など欠片もない。
俺の能力を正当に受け止め、共に歩んでくれる人々がここにいる。それだけで、俺がこの結界を張り続ける理由は十分だった。
「さあ、取りかかるぞ。猶予はあまりない」
俺は懐から魔力草の乾燥葉を取り出し、空中に術式の基盤を描き始めた。青白い光の幾何学模様が指先から滑らかに紡ぎ出され、大気の中へと溶け込んでいく。防壁の境界線が淡い燐光を放ちながら、外側の荒野へとゆっくりと押し広げられていく。
大工のカシムたち防衛隊も駆けつけ、俺の指示に従って新たな要石の杭を次々と地面に打ち込んでいく。整然とした連携のもと、要塞都市は瞬く間にその受け入れ態勢を整えつつあった。
作業が正午を過ぎた頃、見張り台から鋭い鐘の音が一つ、鳴り響いた。
「レオン様! アリア様! 北東の街道沿いに影が見えます!」
見張り兵の叫び声に、作業の手を止めて城壁の上へと駆け上がった。
地平線の彼方、巻き上がる砂塵の向こうから、無数の人影が列をなしてこちらへ向かって歩いてくる。ボロボロの衣服をまとい、互いに肩を寄せ合いながら進む集団の先頭には、王都の紋章が刻まれた傷だらけの荷馬車があった。
「……第一陣が来ましたね」
アリアが小さく呟き、拳を握りしめた。
押し寄せる難民の群れ。その中には、かつて辺境を見下していた中央の者たちも含まれているはずだ。そして彼らの背後には、餌を求めて追董してくる魔物の気配が、不穏な影となって地を這っていた。




