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第21話

地鳴りは、皮膚を震わせる低周波となって夜気を揺らしていた。


辺境の要塞都市を包む多重障壁の感知網が、南の空に向けて鋭い警告の魔力光を放っている。見張りの兵たちがざわめき、防壁の上で武器を握り直す気配が伝わってきた。


俺は城壁の縁に立ち、遠く離れた王都の空を見据えた。肉眼では捉えきれないはずの距離でありながら、地平線の彼方が不吉な赤紫の閃光に染まり始めている。大気中に漂う魔力の波長が、決定的な断絶を告げていた。


あれは、あの場所を数百年守り続けてきた防護機構が、完全に瓦解した証拠だ。


◆ーーーー◆


王都の中枢、地下に広がる魔力制御室には、異様な焦熱と不快な金属臭が立ち込めていた。


「ひ、ヒィッ……! 止まれ、止まってくれ……!」


片眼鏡を歪ませたザイードは、制御盤に張り付き、狂ったように魔力補充の呪文を唱え続けていた。だが、彼の細い指先から放たれる拙い魔力など、底の抜けた大桶に水を一滴垂らす程度の意味も持たない。


制御盤の中央に据えられた黒い端末――かつてレオンが毎晩触れ、繊細な調整を施していた『要石』の表面には、無数の亀裂が走っていた。

杜撰な魔力過負荷と場当たり的な隠蔽工作によって限界を迎えた石は、もはや制御を受け付けず、内部に溜め込まれた莫大な歪みを外部へ撒き散らしている。


パキン、と乾いた音が室内に響いた。


「嘘だろ……? おい、冗談だろ……!?」


ザイードの悲鳴をかき消すように、要石の中心からまばゆい亀裂が広がり、次の瞬間、凄まじい衝撃波とともに粉々に砕け散った。


飛び散った破片がザイードの頬を切り裂く。破裂の瞬間、要石に残されていた術式の展開ログと魔力循環記録が、青白い燐光となって空中に散乱した。


そこには、気の遠くなるような回数のメンテナンス履歴と、緻密に編み込まれた修復術式の全貌が記録されていた。毎晩のように注ぎ込まれていた莫大な魔力の痕跡。王都の安全を一人で背負い続けていた男の、揺るぎない技術の結晶。


「な、なんだこれは……? あいつが……あの雑用係が、一人で全部やっていただと……?」


ガタガタと震える膝をつき、ザイードは散乱する光の記録を見つめた。これまで自分が「誰にでもできる雑務」だと嘲笑し、切り捨ててきたものの正体。それは、宮廷魔術師団の総力を束ねても再現できない、人知を超えた防衛技術そのものだった。


だが、真実に気づいたところで、すでに全ては手遅れだった。


ドォォォォンッ!


頭上から、空そのものが割れるような轟音が鳴り響いた。

王都全域をドーム状に覆っていた透明な大結界が、ガラス細工のように粉々に砕け散り、光の破片となって地上へと降り注ぐ。


「ぎゃあああっ!」


結界の消失と同時に、王都を取り囲んでいた広大な平原から、大地を揺るがす無数の足音が押し寄せてきた。結界の圧力に阻まれていた魔物の大群――スタンピードが、無防備となった市街地へと一斉に雪崩れ込んだのだ。


「助けてくれ! 誰か! ガイウス様……!」


ザイードは這うようにして地下室から逃げ出し、地上の回廊へと飛び出した。しかし、そこに広がるのは地獄絵図だった。咆哮を上げる巨大な魔獣が石造りの建物をなぎ倒し、逃げ惑う人々を容赦なく蹂躙していく。


「貴様、邪魔だ!」


逃げ惑うザイードの横を、数名の護衛を従えた宰相ローレンスが足早に通り過ぎた。豪華な外套を翻し、冷徹な目で周囲の混乱を見据えている。


「ローレンス閣下! お助けを! 俺を連れて行ってください!」

「無能な駒に割く馬車はない。後始末もできぬ小物が、最後まで目障りなことだ」


ローレンスは一瞥すらくれず、あらかじめ用意させていた秘密の脱出通路へと身を隠した。計算高く、損切りだけは誰よりも早い男の背中が、重厚な鉄扉の向こうへと消える。


「待ってくれ! 置いていかないでくれぇぇっ!」


置き去りにされたザイードの絶叫は、背後から迫った黒毛の巨獣の咆哮にかき消された。振り下ろされた巨大な鉤爪が石畳を砕き、逃げ場を失った男の姿を呑み込んでいった。


◆ーーーー◆


夜風が、俺のローブの裾を静かに揺らす。


南の空を覆っていた赤黒い光は、次第に濃い紫煙のような色へと変わり、不吉な魔力の残滓を大気へ放出し続けていた。結界の完全崩壊に伴う魔力暴走の余波だ。あの規模の光景が意味する結末を、俺は正確に理解していた。


「……王都の結界が、落ちたな」


隣に立つ領主のバルドが、低く重い声で呟いた。無精髭を撫でながら、歴戦の武人である彼もまた、遠方の異変を険しい眼差しで見つめている。


「ええ。要石が耐えきれずに砕けたのでしょう。あの術式構造なら、メンテナンスを放棄すれば持って三週間といったところでしたから」

「お前があれほど警告し、引き継ぎを残したにもかかわらず、か。奴らの愚かさには呆れを通り越して言葉も出んな」


バルドは吐き捨てるように言ったが、その声には王都への同情は欠片もなかった。中央の貴族たちが辺境を使い捨ての防波堤として扱ってきた歴史を、彼は骨の髄まで知っているからだ。


「レオン様……」


背後から歩み寄ってきたアリアが、不安そうに俺の横顔を覗き込んだ。透き通るような青い瞳に、遠くの閃光が反射している。


「王都は、どうなってしまうのでしょうか」

「大結界を失った都市に、あれだけの魔物の群れが突入すれば、市街地の防衛は破綻します。宮廷魔術師団の攻撃魔法だけでは、面での制圧は不可能ですから。甚大な被害は避けられないでしょう」


俺は淡々と事実を告げた。感情を交える必要はない。あれは彼らが自らの手で選び取った結果であり、当然の帰結に過ぎない。


「あの者たちは、最後までお前の言葉に耳を貸さず、奪うことしか考えていなかった。ガイウスという男も、自らの地位と見栄のために引き返し、滅びの引き金を引いたのだ。お前が気にする道理は何一つない」


バルドが力強い手で俺の肩を叩いた。その手の平から伝わる確かな熱が、冷え切った夜気の中で頼もしい。


「気にしていませんよ。俺はあの場所を、正式な手続きを踏んで去りましたから」


俺は視線を南の空から外し、足元に広がる街並みへと向けた。魔力草を組み込んだ街灯が温かな光を灯し、夜警の兵士たちが規律正しく持ち場を巡回している。


俺の技術を理解し、正当な対価と敬意を払ってくれる人々がここにいる。彼らと共に築き上げてきたこの要塞都市は、王都の崩壊による魔物の大移動にも十分に耐えうる強度を持っている。


「カシム、防壁の魔力線に異常はないか」

「おうよ、レオンの旦那! どこも狂っちゃいねえ。旦那の組んだ三重術式がバッチリ噛み合ってて、ビクともしねえぜ!」


城壁の下から、防衛隊を指揮する大工のカシムが白い歯を見せて応えた。その屈託のない笑顔と誇らしげな声に、周囲の兵たちからも安堵と信頼の混じった笑みが漏れる。


王都の崩壊は、大陸全体の勢力図を根底から覆すだろう。逃げ延びた貴族や散り散りになった魔物の群れが、いずれこの辺境にも押し寄せてくるかもしれない。


だが、恐れる理由は何もない。


「バルド様、アリア様。王都方面からの魔物の余波に備え、外縁部の感知網を一段階拡張します。準備を」

「うむ、全権はお前に任せる。存分にやれ」

「はい、レオン様。私たちも全力でお支えします」


二人の確かな言葉を受け止め、俺は掌を宙にかざした。指先から紡ぎ出される青白い魔力の糸が、夜空に幾重もの幾何学模様を描き、要塞都市を包む防壁へと溶け込んでいく。


かつて俺の力を「雑用」と切り捨てた者たちは自滅し、俺を必要とするこの場所で、新たな秩序が静かに形作られようとしていた。

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