第19話
薄暗い地下倉庫の冷たい石床に座り込み、ノアは震える両手で通信用の魔導具を握りしめていた。
先ほどまで繋がっていた団長との通信は、すでに切断されている。
静寂が耳に痛い。カビの臭いと埃っぽさが漂う空間で、ノアの荒い息遣いだけが響いていた。
手元には、かつてゴミとして扱われた分厚い引き継ぎ資料が散乱している。
専門的な理論がびっしりと書き込まれたそのページを解読した今、ノアは絶望的な真実を完全に悟っていた。
先輩であるレオンがいなければ、王都の結界崩壊は絶対に避けられない。
先ほどの通信で団長に必死に訴えた通り、複数の魔術師で代役を務めるという上層部の目論見は完全に破綻している。自分たちが束になっても到底及ばないほどの神業を要求される作業なのだ。
それを毎晩、たった一人でこなしていたのだ。
宮廷魔術師団の誰もが、彼を攻撃魔法一つ満足に使えない落ちこぼれだと嘲笑していた。だが、真の無能は自分たちの方だったのだ。
すでに地上のあちこちで、小規模な魔物の侵入が報告され始めている。実用的な防衛技術を軽視し、派手な攻撃魔法ばかりを評価してきた宮廷魔術師団では、この異常事態に対処する術を持たない。
原因不明の事態に上層部が混乱する中、取り返しのつかない破滅が刻一刻と近づいていた。
天井の隙間から、微かに地上の騒騒しさが漏れ聞こえてくる。
悲鳴、怒号、そして建物を破壊する鈍い音。
王都の防壁は、すでにその機能を失いつつある。
「僕のせいだ……僕が、あの時……」
ノアの口から、掠れた声が漏れる。
あの時、権力に逆らうことを恐れ、不当に追放される先輩を庇わなかった。保身に走った結果が、この惨状だ。
死の恐怖が胃の奥を冷たく締め付ける。同時に、激しい罪悪感が胸を焼いた。
このまま王都に留まれば、間違いなく魔物の群れに飲み込まれて死ぬ。結界が完全に崩壊するのは、もはや時間の問題だった。
ノアはふらつく足で立ち上がった。
権力者に逆らって生きていく術を失うことを恐れていたが、命を落としてしまえば何の意味もない。
自分の保身のために恩人を見捨てた罪を償い、彼の下で真の結界魔術を学び直す。それだけが、ノアに残された唯一の希望だった。
荷物を最小限にまとめ、ノアは地下倉庫を飛び出す。
外に出ると、空は不気味な赤紫色に染まっていた。
燃え上がる炎と、逃げ惑う人々の波を縫うようにして、ノアは辺境へと向けて無我夢中で走り出した。
◆ーーーー◆
辺境の要塞都市。
領主の館の一室で、俺は窓の外に広がる街並みを眺めていた。
先ほどの騒動――団長がやってきて門前払いされた一件――の後だ。
部屋にはアリアとミリアが控えている。淹れたての茶の香りが、室内に穏やかに漂っていた。
窓の外では、活気に満ちた人々の声が響いている。王都の喧騒とは違う、地に足のついた生活の音だ。
「レオン、本当に良かったのですか? あのような高圧的な者を追い返してしまって。後で王都から理不尽な圧力がかかるのではと、少し心配です」
アリアが気遣わしげに尋ねてくる。凛とした顔立ちに、微かな不安が影を落としていた。
領民の命と安全を最優先にする彼女にとって、中央からの干渉は常に警戒すべき対象なのだろう。
「ええ。あの男の執念深さは、少し不気味でした。ですが、あなたが決めたことなら、私たちは全力で支持します」
ミリアも静かに頷く。冷静な口調の中にも、確かな信頼が滲んでいた。
俺は窓から視線を外し、二人に向き直る。
「気にする必要はない。あんな場所に未練はないからな」
淡々と事実を述べる。
己の力を安く見積もらせるような環境に戻るつもりは毛頭ない。一度見限った相手に二度と妥協する気はなかった。
俺にとって、自分の力を正当に評価してくれるこの村こそが、守るべき場所となっている。
二人の献身的なサポートには心から感謝している。王都では決して得られなかった、確かな信頼関係がここにはあった。
翌日、俺は村の農地帯に立っていた。
農業生産をさらに向上させるため、新たな土壌改良の結界を構築する計画だ。
広大な畑の周囲には、アリアやミリア、そして防衛隊長のダルクをはじめとする村人たちが集まっている。
皆、期待に満ちた眼差しをこちらに向けていた。
「さて、始めるか」
道端で採取した魔力草を、等間隔に地面へ突き刺した。
この草自体は微量の魔力しか持たないが、俺の結界術の触媒として使うと絶大な効果を発揮する。
指先から放たれた青白い光が、空中で複雑な術式を描き出す。
それは幾何学的な模様となって広がり、瞬く間に広大な農地全体を覆い尽くした。
即席で展開した規格外の結界。それは土壌の魔力バランスを最適化し、作物の成長を劇的に促進するだけでなく、害獣や微小な魔物の侵入を完全に遮断する防衛機能も兼ね備えている。
光の粒子が土に吸い込まれていくと、枯れかけていた作物が一斉に生気を取り戻し、青々とした葉を広げ始めた。
土の色が豊潤な黒へと変わり、生命の息吹が満ちていくのが目に見えてわかる。
「す、すげえ……! またとんでもないものを完成させちまったのか!」
視察に同行していたダルクが、目を丸くして感嘆の声を上げた。
歴戦の戦士である彼らも、この防御力と応用力には驚きを隠せない様子だ。
「これほど強固な防壁を、農地の保護にまで展開できるなんて。あなたは本当に、この村の救世主です」
アリアが目を輝かせ、誇らしげに微笑む。
村人たちも次々と集まり、笑顔で歓声を上げた。
「これで冬を越せるぞ!」
「レオンさんのおかげだ!」
インフラ整備や農業支援にも結界術を応用することで、この寂れた村は難攻不落の要塞都市へと発展を遂げた。俺はいつの間にか、辺境の守護神と呼ばれるようになっているらしい。
王都では実用的な結界術が軽視され、今頃は結界の修復が途絶えたことで小規模な魔物の侵入に怯えているはずだ。対照的な二つの地の運命は、すでに決定的に分かれていた。
だが、そんなことは俺には関係ない。
村人たちの活気に包まれながら、俺はこの地への深い愛着を確かなものにしていた。
しかし、穏やかな日常が続く要塞都市の裏で、不穏な影が蠢いていた。
王都から追放されたあの上司が、再びこの地へ向けて足を引きずりながら歩みを進めている。
血走った目で虚空を睨み、何事か呟きながら。
追い詰められた男は、一体何をする気なのか。
その執念の刃がどこへ向かうのか、まだ誰も知る由はなかった。




