第18話
「な、なんだ……これは……」
ガイウスの口から、掠れた声が漏れる。
信じられないものを見るような驚愕。そして、自分の理解を超えた現実に対する圧倒的な恐怖。
彼は目を限界まで見開き、ただ震えることしかできていない。
かつて彼が知っていた辺境の村は、魔物の脅威に怯える貧相な集落だったはずだ。だが今、彼の目の前にそびえ立つのは、天を突くような堅牢な防壁と、空を覆う気候制御の天蓋。複雑に張り巡らされた魔力ラインが青白く脈打つ、難攻不落の要塞都市の威容だった。
俺は静かに歩み寄り、彼を見下ろした。
「お久しぶりです、ガイウス団長。いや、今はもう上司ではありませんでしたね」
淡々と声をかけると、ガイウスはビクッと肩を震わせた。
泥だらけの豪奢なローブを握りしめ、彼はゆっくりと立ち上がる。その顔には、信じがたい現実への混乱と、必死に保とうとするプライドが入り混じっていた。
「レ、レオン! 貴様、こんな辺境で何をコソコソとやっている!」
「見ての通り、結界の構築と維持ですが」
「ふんっ! 見掛け倒しのハリボテを作りおって。だが、特別に許してやる。王都に戻れ。お前が抜けてから、少しばかり結界の調子が悪い。雑用係として、また雇ってやろう」
相変わらず、自分の非を認めず、上から目線だ。
彼の言葉の端々には、結界魔術に対する決定的な無理解が透けて見える。防御や支援の魔法の仕組みを全く理解できない彼は、目に見える派手な成果しか評価できないのだ。
王都の結界が少し調子が悪い程度で済んでいるはずがない。俺が修復を止めてからかなりの日数が経過している。経年劣化は加速度的に進行し、すでに致命的な綻びが生じているはずだ。
俺は感情を動かすことなく、事実だけを口にする。
「お断りします。俺はすでに解雇された身です。未払い給与の放棄と引き換えに、即日退職の念書も交わしたはずですが」
「なっ……! この私が直々に迎えに来てやったのだぞ! 貴様のような落ちこぼれが、宮廷魔術師団に戻れる名誉をなんだと思っている!」
「どの口が言ってんだよ、おっさん!」
横から割って入ったのは、腰に工具袋を下げたカシムだった。
彼は大げさに肩をすくめ、ガイウスを指差す。
「うちの守護神を落ちこぼれ呼ばわりたぁ、いい度胸してんな。あんたの目は節穴か? この防壁も、天蓋も、全部レオンが一人で作ったんだぜ。王都の魔術師ってのは、こんなすげえ魔法も理解できねえのか?」
「き、貴様、平民の分際で私に口を利くか!」
「やめておけ、王都の魔術師よ」
重厚な声とともに、バルドが進み出た。
領主としての威厳が、ガイウスの言葉を封じ込める。
「レオンは我が領地の恩人であり、この要塞都市の要だ。彼の意志に反して連れ戻すというなら、辺境軍全軍をもって相手になるぞ。王都の権威が辺境で通用すると思うな」
「り、領主だと……? くそっ、辺境の田舎貴族が!」
ガイウスは忌々しげに舌打ちをする。
ちょうどその時、防壁の一部に微小な魔力の揺らぎが生じた。気候制御の天蓋と物理防壁の接続部分に、わずかな負荷がかかっている。
俺はガイウスから視線を外し、指先で空中に術式を描く。
青白い魔力線が瞬時に組み上がり、複雑な幾何学模様を描きながら防壁の構造を補強していく。即席で展開した多重結界が、村全体を覆う天蓋と完璧に同期し、淡い光の粒子となって空に溶け込んだ。
大気中の魔力が最適化され、要塞都市全体を包み込む空気が一段と澄み渡る。足元の石畳から防壁の頂上まで、無数の魔力回路が呼吸するように明滅し、完璧な防衛網を構築していた。
「おおっ、さすがはレオンだ! 一瞬で防壁の強度を上げちまうなんて!」
防衛隊長のダルクが感嘆の声を上げる。歴戦の戦士である彼らも、俺の結界術には全幅の信頼を寄せてくれていた。
「インフラの魔力ラインも安定したな。これで農地の天蓋も完璧だ。あんたの魔法建築は、何度見ても惚れ惚れするぜ」
カシムが笑いながら言う。
ガイウスは、その光景を呆然と見ていた。
農業支援やインフラ整備にまで結界術が応用され、村人たちから圧倒的な承認を得ている俺の姿。
実用的な結界術を軽視し、小規模な魔物の侵入すら防げなくなっている王都とは、あまりにも対照的な光景だった。
王都では今、結界の修復が途絶えたことで綻びが生じ、魔物の侵入が相次いでいる。ガイウスの顔に、隠しきれない焦りと苛立ちが浮かんでいた。
「俺の居場所はここにあります。王都の結界については、規定通り引き継ぎ資料を残したはずです。そちらで対処してください」
俺は冷淡に言い放ち、背を向けた。
「待て! レオン! 私の話はまだ終わって……!」
「お引き取りを。二度と来ないでいただきたい」
バルドの冷徹な宣告が響き、ガイウスは衛兵たちによって門の外へと追い出された。
◆ーーーー◆
ガイウスは門の外に放り出され、泥だらけの地面に這いつくばった。
「おのれ……おのれレオン……!」
ギリッと歯を食いしばり、要塞都市の巨大な防壁を見上げる。
辺境の寂れた村は、レオンの力によって難攻不落の要塞都市へと発展し、彼は辺境の守護神として称賛されていた。
対する王都は、原因不明の結界の綻びにより、小規模な魔物の侵入が相次ぐ異常事態に陥っている。
ガイウスは、自分が築き上げた地位と名声が音を立てて崩れ去っていくような恐怖を感じていた。
王都の結界が完全に崩壊すれば、責任を問われるのは団長である自分だ。王や貴族たちから無能の烙印を押されれば、処刑すら免れない。
その時、ガイウスの懐で通信用の魔導具が激しく点滅した。
「……私だ。なんだ、ノア」
『だ、団長! 大変です!』
通信機越しに、若手魔術師ノアの悲痛な声が響く。
『倉庫の奥から、レオンが残した引き継ぎ資料を見つけました! 専門用語ばかりで誰も読めなかったんですが、なんとか一部を解読して……』
「それがどうした! 結界の修復方法は分かったのか!」
『ち、違います! あの資料に書かれていたのは……レオンが毎晩、端末を通じて大結界を修復していた記録です!』
「……は?」
ガイウスの思考が停止する。
『信じられません……。王都全体を覆う大結界の経年劣化を、たった一人で、しかも毎晩修復していたなんて。常人の何百倍もの魔力と、神業のような精密な魔力操作がなければ不可能です! 資料には、結界の魔力回路の調整方法から、端末のメンテナンス手順まで、信じられないほど高度な理論がびっしりと書き込まれていました!』
ノアの声が震えている。
『レオンは、毎晩一人で魔力を注ぎ込んでいたんです! あの酷いクマも、趣味の夜更かしなんかじゃなかった……!』
「馬鹿な……あいつはただの雑用係だぞ! 攻撃魔法一つ満足に使えない落ちこぼれが、そんな真似できるはずが……!」
『事実です! 端末の魔力残量も、過去のログも、すべて資料の記述と一致しています!』
ノアの悲鳴のような声が、ガイウスの鼓膜を打つ。
『彼がいなくなった今、王都の結界はもう……崩壊寸前です! 私たち宮廷魔術師団の力では、到底維持できません!』
通信が切れ、静寂が落ちる。
ガイウスは、手の中の魔導具を落とした。
自分が追放した男が、実は国を支えていた。
その事実が、冷たい刃となってガイウスの喉元に突きつけられる。
真実を知ったガイウスは、己の致命的な過ちと愚かさに打ち震えながら、ただ立ち尽くすことしかできなかった。




