第17話
王都の地下深く、冷たい石壁に囲まれた制御室。
俺は額に浮かんだ脂汗を手の甲で乱暴に拭い、目の前の台座を睨みつけていた。
ガイウス様が辺境へ向かってから、数日が経過している。
その間にも、王都を覆う大結界の出力は目に見えて低下し続けていた。外縁部ではすでに小規模な魔物の侵入が報告されており、貴族たちの間でも不穏な噂が流れ始めている。
「くそっ、なんで俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ」
誰もいない空間に悪態をつく。
俺はただ、ガイウス様の威光に乗って安全な地位を確保したかっただけだ。面倒な仕事はすべてあの男に押し付けて、適当にやり過ごしていればよかったはずなのに。
台座の上に鎮座する黒い石――大結界の観測盤と連動する端末の表面には、不気味な赤い光が明滅している。
このまま結界が崩壊すれば、管理責任者として残された俺がすべての罪を被らされる。激怒した貴族たちに処刑される未来が、容易に想像できた。
「そうだ、表面上の数値だけ正常に見せかければいい。ガイウス様が戻るまでの時間稼ぎだ」
俺は震える指先で、端末の周囲に刻まれた魔力回路に触れた。
結界魔術の複雑な理論など、俺にはさっぱり理解できない。だが、観測盤への出力信号をいじるくらいならできるはずだ。
強引に魔力を流し込み、警告の赤い光を強制的に遮断しようと試みる。
バチィッ!
「うわあっ!」
鋭い破裂音と共に、青白い火花が散った。
弾き飛ばされた俺は、無様に床を転がる。
慌てて顔を上げると、端末の表面にピキッと乾いた音が響き、亀裂が走っていた。明滅していた光が完全に消え失せ、制御室の空気が一気に重くなる。
結界の出力が、致命的なまでに低下した証拠だった。
「な、なんだと……違う、俺のせいじゃない。俺は悪くない!」
誰も聞いていない言い訳が、冷たい石室に空しく響き渡った。
◆ーーーー◆
「……なるほど。地下制御室で小火騒ぎがあり、結界の出力がさらに低下したと」
王城の最上階、豪奢な執務室。
私は手元の報告書から視線を上げ、傅く密偵に冷ややかな笑みを向けた。
ザイードという小悪党が、自身の保身のために端末をいじり回し、事態を決定的に悪化させたらしい。無能な者が余計な知恵を絞ると、ろくな結果にならないという典型だ。
「ガイウスの行方は?」
「辺境の領地へ向かったとのことです。あの追放された結界師を連れ戻す腹積もりかと」
「愚か者が」
私は鼻で笑い、報告書を暖炉の火に投げ入れた。
羊皮紙がチリチリと音を立てて燃え尽きていく。それは、この王都の未来そのものだった。
結界の修復はもはや不可能だ。
あの男――レオンと言ったか。彼がどれほど異常な精度でこの巨大なシステムを維持していたのか。今となっては正確な被害予測すら立てられない。
だが、嘆く必要はない。無能な駒は切り捨て、新たな盤面を用意するだけだ。
「王族と主要な貴族たちには、地下の特別避難所へ移動するよう手配しろ。理由は『大規模な魔術演習に伴う安全確保』でいい」
「はっ。しかし、一般市民や下級の魔術師たちは……」
「放置しろ。彼らには、魔物の群れに対する肉の壁として働いてもらう」
密偵が息を呑む気配がしたが、私は気にせず窓の外を見下ろした。
平和ボケした王都の街並みが広がっている。数日後には、ここが地獄と化すことなど誰も知るまい。
「結界崩壊の責任は、すべてガイウスとザイードに負わせる。私は安全な場所から、事態の推移を見守るとしよう」
そして、ほとぼりが冷めた頃に辺境へ赴き、あの規格外の結界師を再び私の手足として組み込む。
国家の利益と私の権力を維持するためなら、王都の一つや二つ、安い代償だった。
◆ーーーー◆
澄み切った青空の下、俺は空中に複雑な術式を描き出していた。
指先から紡がれる青白い魔力線が、幾何学的な模様を描きながら上空へと広がっていく。
魔族の襲撃を退けてから、辺境の村は驚くほどの活気に満ちていた。
防壁の強化や自動迎撃システムの構築はすでに完了している。今日俺が着手しているのは、さらなる機能拡張――広域の気候制御結界だった。
「よし、魔力回路の接続完了。温度と湿度の自動調整プロセス、起動」
俺が短く呟くと、上空に展開された透明な天蓋が淡く光り、村全体を包み込むように柔らかな風が吹き抜けた。
厳しい寒さが和らぎ、春のような心地よい空気が満ちていく。
「おいおい、嘘だろ……」
すぐそばで、防衛隊長のダルクが呆然とした声を漏らした。
彼は巨大な戦斧を肩に担いだまま、口を半開きにして空を見上げている。
「今度は天候まで操るってのか? あんた、本当に人間か?」
「ただの温度調節ですよ。農地を覆うように設定したので、冬でも作物が安定して育つはずです」
「ただの温度調節ってレベルじゃねえよ! 王都の宮廷魔術師だって、こんな真似できねえぞ!」
ダルクの驚愕の声に、周囲で作業をしていた村人たちも集まってきた。
大工のカシムが、結界の端に触れて感嘆の溜息をつく。
「すげえな。雪下ろしの手間も省けるし、凍害の心配もねえ。あんた、本当に俺たちの守護神だな」
「大げさですよ。俺は自分のやりたい研究を、実用的な形で試しているだけですから」
淡々と事実を述べるが、村人たちの称賛の眼差しは変わらない。
王都では誰にも見向きもされなかった技術が、ここでは人々の生活を根底から支え、豊かにしている。
自分の価値を正しく認めてくれる場所。
その事実が、俺の心に静かな充足感をもたらしていた。
「レオンさん、お茶が入りましたよ」
アリアが、湯気を立てるカップをお盆に乗せて歩いてきた。
護衛のミリアもその後ろに続き、周囲を警戒しながらも柔らかな表情を浮かべている。
「ありがとうございます。ちょうど一段落したところです」
カップを受け取り、温かいハーブティーを一口飲む。
穏やかで、満ち足りた時間。
この平穏な生活を守るためなら、俺はどんな労力も惜しむつもりはなかった。
その時だった。
見張りの塔に立っていた若者が、鐘を激しく鳴らしながら叫んだ。
「街道から馬車が来ます! 王都の紋章を掲げています、猛スピードです!」
王都の馬車。
その言葉に、ダルクたちの表情が一瞬で険しくなる。
俺はカップをアリアに返し、静かに正門の方へ向き直った。
「警戒態勢を取るか?」
「いえ、攻撃の意思はないようです。俺が対応します」
ダルクの問いに短く答え、俺はゆっくりと歩き出した。
巨大な防壁に守られた正門が開かれ、土埃を上げて一台の豪華な馬車が滑り込んでくる。
馬は泡を吹き、車体は泥だらけだった。よほど無理な強行軍をしてきたのだろう。
馬車が急停止し、扉が乱暴に内側から蹴り開けられた。
転がり出るように降りてきたのは、見覚えのある恰幅の良い男だった。
豪奢なローブは汚れ、髪は乱れ、かつての傲慢な面影は見る影もない。
ガイウス。
俺を無能と呼び、宮廷魔術師団から追放した元上司。
彼はふらつく足取りで立ち上がり、そして――顔を上げた瞬間、完全に動きを止めた。
彼の視線の先にあるのは、かつての寂れた村ではない。
天を突くような堅牢な防壁。空を覆う気候制御の天蓋。複雑に張り巡らされた魔力ラインが青白く脈打つ、難攻不落の要塞都市の威容だ。
「な、なんだ……これは……」
ガイウスの口から、掠れた声が漏れる。
信じられないものを見るような驚愕。そして、自分の理解を超えた現実に対する圧倒的な恐怖。
彼は目を限界まで見開き、ただ震えることしかできていない。
俺は静かに歩み寄り、彼を見下ろした。




