第45話 蚊帳の外で
「いっち……にぃ……さんっ……」
道場・擎慄頼にて、ゆっくりと力んでいるような声が漏れてしまう。
「しぃ……ごっ……ろっくぅ……」
ギシギシと床の木材が軋み、ポタポタと汗が顎から滴る。
腕がパンプアップしすぎて、筋肉が張っているのが分かる。
「しちぃ……はちっ……きゅぅ……」
最後の1回。
これは気合いを入れて――
「さんっびゃくッ!! ぶぁ〜!!」
ウチは大の字で床に倒れ込んだ。
全身が液体のように脱力する。
息が絶え絶えで、もう何も考えたくない。
ウチらがAAAの依頼を受けてから10日が経過した。
目標であった腕立て300回はギリギリだが、クリアできる具合にはなってきた。
床に面している頭に意識を移していると、床がリズミカルに振動する。
次第にその振動はデカくなっていき、ドンドンと音が聞こえてきた。
ウチはその正体を確認するまで、少し時間がかかった。
「腕立て、終わったか? 漸くかよ」
メッちゃんの頭はウチの遥か遠くにあるような気がした。
彼の目はウチを見下す。
(漸く――って300回だぞ? 褒めてくれよぉ……)
「終わったなら、次、ジャンプでもしとけ」
「はぁ〜?」
ウチは辛辣な命令を突きつけられてやる気を失った。
自主的に道場に入ったはいいものの、バックれようか考える日々だ。
ウチだけ他の皆んなと過酷さが、違う気がする。
「ひぃ、いやぁ、もぉ無理だろ……!」
言葉を詰まらせつつも何とか言葉にしているウチを見て、メッちゃんは考え込んだ後、休みを許可した。
「いいだろう、次からは本番だ。筋肉痛になるなよ。そのためにはまず休め」
「本番……!?」
ウチはその言葉を聞いてすぐさま起き上がった。
「何だ元気じゃねぇか――」
「ってことは、ウチも何かするってこと!? 何だよ! 教えて教えて教えて――!」
「うぁぁうるせぇぇぇ」
ウチはメッちゃんの肩を掴んで身体を揺らす。
彼はその様子を無気力な声をしながら耳を塞いだ。
するとメッちゃんはウチの眉間に指を指しながら言った。
「とりあえず、身体を休ませろ。休暇を与える。どっか遊んでこい」
「……」
刹那の沈黙が流れた。
確かに休暇は大事だし望んでいたことだったが、自分から入門したのに現を抜かしていていいのだろうか。
そんな風に迷走してしまった。
「身体を行使したいのか? 何のために強くなりたい――守りたいからだろ」
「……!」
ウチはこの人を侮っていたのかもしれない。
ウチ以外も、ストレイダーズ全員が思っただろう。
――果たしてこいつは師範の器なのか。
腕立て300回だの、他にもっとすることがあるはずなのに。
30回あたりで心底そう思った。
昨日は腹筋。
足を床につけたら最初からやり直し。
今でも床のざらつきが足裏に残っている。
一昨日は内転筋。
太ももが焼けるようだった。
こんなので本当に強くなれるのか。
もしかしたら、ウチだけを成長させないようにしているのではないか。
そんな理由ないのに、そんな疑心暗鬼に陥った。
自分の価値観が、メトグラフィックという存在を否定していたのだ。
だが、メトはしっかりと見てくれていた。
一番視野に入れているはずのニアスより、今はウチに集中してくれている。
ウチはストレイダーズのために応えたいと思っていた。
だが今は違う。
メトグラフィック――この人にも、成長したウチを見て欲しい。
「但し、しっかり休まなきゃ破門だ。言うことも聞けねぇやつに教えるこたぁねぇ」
ウチの限界を見極めた上での発言だ。
メトはウチをしっかりと見てくれている。
そう確信できた。
少し考え込んだ後――
「なら――休も!」
と、軽快に答えた。
メッちゃんはウチのことを見てくれている。
メッちゃんに対する考えが変わったことを知られたくない。
ウチはこの人の事を何も理解していなかった。
理解した気になっていた。
だから、上から物を言っていた。
そんな自分が、際限なく恥ずかしい。
なら、別のことで気を紛らわす――これに限る。
「どっか行こ……」
ウチはそう言いながら飛び去るようにその場から退散した。
――――――――――――――――――――――――
シロが道場を出てから数分後――ネルは道場の庭で考え込み、クハパリはそれを眺めていた。
「――ちゃん? ネルちゃん?」
ネルはクハパリの声が届かない程に、深い迷走をしていたのだ。
そして、何度もネルの名前を呼んだ末に漸くネルがそれに気がつく。
「ん、あぁ……! ごめんごめん、どうしたの?」
「こっちのセリフだよぉ……ここんとこ、元気ないよぉ?」
シロ、ニアスが修行を開始してから、彼女はずっと何かを考え込んでいた。
それには、クハパリも気がついていた。
マダグからもらった、いわばアジトで食事をする際、彼女の箸は何かをつまむごとに止まっていた。
箸で食べ物をつまみ、ため息を吐く。
「あれ、行儀悪いからね」
「何で夢世界に箸があんのよ……」
「え? なんか言った?」
「あぁ、いや……何でもないよ」
こんな調子で強くなれるのか。
クハパリの脳裏にそんな考えが過ぎる。
「気休めに」と思い、クハパリは別の会話を試みる。
「私も……戦えるかなぁ」
「えぇ? どうしたの? いきなり」
ネルはその言葉に若干の驚きで、笑顔を混ぜながら訊いた。
「守られてばかりじゃぁ、ダメ……な気がする」
クハパリは、仲間が戦場に赴く中で何もできない。
そんな無力感を感じつつあった。
気休めにするための会話ではなかった。
気休めを名目に、ただ本音を暴露したいという気持ちが漏れ出てしまったことに気がついたのは、その事を口にした直後だった。
「変な心配しなくていいんだよ、クハパリ。私達は依頼を受けて護衛しているんだから――」
クハパリは突き放された気がした。
だが、その事を顔に出さないように必死で、その他のネルの言葉は聞き逃してしまう。
『私達』。
依頼を受けたのはクハパリ。
クハパリはストレイダーの一味ではないかのような言い方だった。
その言葉はナイフが心に鋭くめり込んだ。
勿論、ネルはハブっているわけではない。
クハパリもその事は重々承知していた。
だが仲間外れにされたクハパリは、息を吐くのも吸うのも、意識して行わないといけないような感覚に襲われる。
「嫌なの。私だけ……何もできないのは……」
「だからって、クハパリを戦場に立たせる訳には――」
「そうやって、私だけ仲間外れにしないでよッ!!」
その瞬間、庭の空気が張り詰めた。
いつも穏やかな口調のクハパリが、ネルの前で初めて大声を出した瞬間だった。
ネルに浴びせた怒声が、庭に残った。
「どうしたの……いきなり」
さっきと同じ言葉。
けれど今のそれは、ネルにとって初めて口にする言葉だった。
「何もできないから……仲間はずれにするの……?」
いつもより妙なクハパリの声は震えていた。
そして、クハパリは漸く正気を取り戻す。
自分の放った言葉が耳の中で反響した。
――仲間はずれ。
その響きが、胸を締めつけた。
そして、口にしたからこそ、その言葉は浮き彫りとなる。
後戻りは出来ない。
そう感じるほどに、クハパリは心が痛んだ。
言われるより、言う方がクハパリにとって苦だったのだ。
「見て、くれないんだ……」
クハパリは唇を震わせる。
何かを言おうとすると、やはり黙って、数刻過ぎた後その場を立ち去った。
ネルはその後を追おうとする。
だがその直後、自分には出来ないと思ってしまう。
ネルが何を言っても、クハパリはそれを快く受け取らない。
「またじゃん……」
その背中を見るのは、メトを見送った時よりも辛く、ネルは再び、その場に取り残された。
――――――――――――――――――――――――
数時間後――クハパリはネヴァキュベートに訪れていた。
今は、誰にも会いたくなかった。
誰かに見られることすら、少し怖い。
ここに来たのはパリカノティタ以来。
特に周りを見ることができなかったが、今回もそうする事はできないかもしれない。
そう予感していた時に、聞き馴染んだ声が聞こえてきた。
「クハパリ……?」
クハパリの足が止まった。
背後から聞こえてきたその声は、クハパリにとって今、一番会いたくない人の声かもしれなかった。
クハパリも恐る恐る背後を振り向くと、そこには何かが入った茶色い紙袋を片手に持った彼の姿があった。
「シロ……」
その名を呼んだ瞬間、彼女の身体は傾いた。
〜 第四十五話 完〜




