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第51話 小さな灯火師の帰る場所

 ノクスヴェイルの朝は、灯りの点検から始まった。


 それはもう、特別なことではなくなっていた。


 広場灯の下では、ガルム爺が手灯を掲げている。


 井戸のそばでは、村の女たちが水を汲む前に井戸灯を覗き込む。


 あかり宿では、ロッテさんが食堂灯の火皿を磨き、ニナとリオが予備芯の箱に白い紐を結んでいた。


 月灯工房の前には、検灯札をつけた灯具が整然と並んでいる。


 白い紐。


 黄色い紐。


 赤い紐。


 村人たちはもう、それぞれの意味を覚えていた。


 白は使用可。


 黄色は再検査。


 赤は隔離。


 ただ怖がるだけではない。


 ただ誰かに任せるだけでもない。


 自分の灯りを見て、隣の灯りと確かめ合う。


 それが、この村の新しい朝になっていた。


「これ、うちの窓灯。昨日見てもらったけど、もう一回見てくれる?」


「黄色札だから再検査だね。ミリアさんに渡して」


「予備芯は?」


「白い箱のだけ。黒い箱は触らない」


 子どもたちまで、すっかり覚えている。


 ミリアは作業台の前で、寝不足の顔をしながらも満足そうだった。


「うん。悪くない」


「村じゅう検灯所ですね」


 俺が言うと、ミリアは鼻を鳴らした。


「ただの検灯所じゃないよ。月灯工房式小灯検査所」


「名前がつきました」


「大事でしょ。名前があると、みんな覚える」


 確かにそうだ。


 ただの作業ではなく、村を守る仕組みになる。


 月灯工房はもう、壊れた灯具を直すだけの場所ではなかった。


 小さな灯りを黒燭から守るための、ノクスヴェイルの要になっている。


 ポルカは工房の棚の上で丸くなっていた。


 まだ完全には回復していないらしい。


 だが、村人が通るたびに薄目を開け、尻尾を少しだけ揺らす。


「ポルカ隊長、おはよう」


「ぽう……」


 子どもたちにそう呼ばれるようになった。


 本人はかなり気に入っているようだった。


     ◇


 昼前、王都から正式な使者が来た。


 馬車には、王都灯務監査官リディア・フォースの紋章が掲げられている。


 北門でセラが確認し、村の広場へ通した。


 使者は緊張した面持ちで封書を差し出した。


「ルカ・エルネスト殿へ。王都灯務監査官リディア・フォース様より、正式通達です」


 俺は封書を受け取った。


 広場にいた村人たちが、自然と集まってくる。


 セラ。


 ミリア。


 ノイン。


 ロッテさん。


 ガルム爺。


 ニナとリオ。


 月灯狐たちまで、遠巻きにこちらを見ている。


 封を開ける手が、少しだけ震えた。


 追放された日を思い出す。


 王都聖灯局の広間。


 冷たい視線。


 局長グレゴールの声。


『灯りをつけるだけの無能』


 あの日、俺は王都から追い出された。


 自分の灯りには価値がないのだと思った。


 でも今、同じ王都から届いた封書には、別の言葉が書かれていた。


『ルカ・エルネスト殿に対する追放処分は、不正な手続きと虚偽の罪状に基づくものと認定し、正式に撤回する。

 王都大聖灯黒化事件、北方灯台黒潮化未遂事件、ノクスヴェイル小灯汚染事件における功績を認め、貴殿を王都灯務監査協力者として記録する。

 また、本人およびノクスヴェイル村の意思を尊重し、貴殿をノクスヴェイル所属灯火師として承認する。』


 ノクスヴェイル所属灯火師。


 その文字を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。


 王都へ戻れと言われたわけではない。


 王都が俺を取り戻したわけでもない。


 俺が選んだ場所を、認められた。


 この村の灯火師として。


「……正式に、撤回されたんですね」


 ノインが小さく呟いた。


 彼の目にも涙が浮かんでいた。


 あの日、王都で何も言えなかった補佐官。


 今は記録を持ち、真実を届ける人になっている。


 セラが俺を見た。


「おめでとう」


 短い言葉だった。


 でも、それで十分だった。


 ミリアは腕を組み、少しだけ笑う。


「まあ、遅いけどね」


「そうですね」


「でも、よかった」


「はい」


 ニナが駆け寄ってきた。


「じゃあ、ルカお兄ちゃん、もう追い出された人じゃないの?」


「はい」


「じゃあ、村の人?」


 その問いに、俺は少しだけ言葉に詰まった。


 すると、ロッテさんが笑った。


「何を今さら。とっくに村の人だよ」


 ガルム爺も頷く。


「灯りを直して、夜を越えて、井戸を守って、墓地道まで照らした。これで村の者でなければ、誰が村の者じゃ」


 村人たちの間に、柔らかな笑いが広がった。


 俺は封書を胸に抱え、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 それしか言えなかった。


 でも、広場灯がふわりと揺れた。


 言葉が足りなくても、灯りは分かってくれた気がした。


     ◇


 その日の午後、ノクスヴェイルの広場で、小さな集まりが開かれた。


 祝いというほど派手ではない。


 けれど、ロッテさんがスープを配り、ドルトンさんが持っていた干し果物を出し、ミリアが工房から古い小灯をいくつか吊るした。


 王都の大聖灯のような眩しさはない。


 北方灯台の導灯のような雄大さもない。


 でも、村の広場は温かかった。


 セラが村人たちの前に立つ。


「昨夜、村は黒燭に狙われた」


 その言葉に、空気が引き締まる。


「黒燭は、私たちが自分の灯りを守ろうとする気持ちを利用した。だからこれからは、灯りを守る時ほど一人で判断しない。必ず誰かと見る。検灯札を使う。異変があれば隠さない」


 村人たちは真剣に頷いた。


「それから」


 セラは俺を見る。


「ルカは南へ行く」


 広場がざわめいた。


 ニナの顔が不安そうに曇る。


 リオもランプを握りしめた。


 俺は一歩前へ出た。


「南方赤砂街道の宿場町カラントで、灯りの異常が起きています。火が強くなるほど影が濃くなり、水場の灯りが赤く乾く。黒き種火の気配があります」


 村人たちは黙って聞いている。


「俺は行きます。でも、村を置いていくわけではありません」


 俺は広場灯を見上げた。


「ノクスヴェイルは、俺の帰る場所です。そして、この村の灯りはもう、俺一人が守るものではありません」


 ロッテさんが食堂灯を掲げた。


 ガルム爺が手灯を掲げた。


 ニナが安眠灯を。


 リオがランプを。


 ミリアが工房灯から分けた小火を。


 村人たちが、それぞれの小さな灯りを掲げる。


 広場に、無数の小さな火がともった。


 大きな炎ではない。


 でも、一つ一つが確かだった。


「ルカお兄ちゃん」


 ニナが言った。


「南に眠れない子がいたら、この火、使って」


 彼女は安眠灯から分けた小さな火種を差し出す。


 俺は両手で受け取った。


「必ず」


 リオも自分のランプから分けた火を差し出した。


「黒い芯、見つけて。ぼくも、もっと見分けられるように練習しておく」


「頼りにしています」


 リオは少し照れたように頷いた。


 ガルム爺は月送りの灯の火を差し出した。


「知らぬ土地にも、会いたい者へ祈る夜はあるじゃろう」


「はい」


 ロッテさんはあかり宿の火を小瓶に入れてくれた。


「帰る人を迎える灯り。南にも、帰りたい人がいるはずだからね」


 ミリアは最後に、旅用の灯具を俺へ渡した。


 小さな筒型の検査灯。


 種見灯の改良型。


 そして、黒き種火を封じるための隔離灯。


「まだ完璧じゃない」


「はい」


「でも、昨日よりはいい」


「それが一番心強いです」


 ミリアは少し照れたようにそっぽを向く。


「南で壊したら直すから、持って帰ってきて」


「分かりました」


「灯具も、あんたも」


 その言葉に、俺は笑った。


「はい。帰ってきます」


 セラは静かに俺を見ていた。


 その手には、北門守護灯から分けた小さな火がある。


「これは、帰ってくる人を見分ける灯り」


 彼女はそれを差し出した。


「南へ行っても、帰る道を忘れないように」


「ありがとうございます」


 火を受け取ると、結灯環が静かに震えた。


 ノクスヴェイルの灯りが、旅灯の中へ一つずつ納まっていく。


 持っていくのは火だけではない。


 この村で得たもの全部だ。


 誰かを待つ灯り。


 眠るための灯り。


 井戸を守る灯り。


 工房で直す灯り。


 帰ってくる人を見分ける灯り。


 それらが、俺のランタンの周りで小さく揺れた。


     ◇


 夕方、黒森の入口へ向かった。


 月守狐が、そこに待っていた。


 白銀の巨体は、昨日よりも穏やかに見える。


 足元には月灯狐たち。


 ポルカはまだ少し眠そうだが、俺の肩へ飛び乗ると、きりっと前を向いた。


「ぽう」


「無理しないでくださいね」


「ぽう」


 返事だけは立派だった。


 月守狐は俺たちを見下ろす。


『南の灯りは、乾きの夜にある』


「乾きの夜……」


『水を求める心、火を強くしたい心、渇きを埋めたい願い。黒き種は、そこへ入り込む』


 ノクスヴェイルでは、守りたい心を狙われた。


 南では、渇きか。


 土地が変われば、黒の入り方も変わる。


『だが忘れるな。どの地の灯りも、誰かのためにともる』


「はい」


『火を見よ。影だけを見るな』


 月守狐の尾から、白銀の小さな光が分けられた。


 それは俺のランタンへ触れ、静かに溶け込む。


『小さき灯火師よ。お前は追放された者ではない。灯りを結ぶ者だ』


 俺は言葉を失った。


 追放された灯火師。


 そう名乗ることに、もう痛みはない。


 けれど、月守狐の言葉は、それを少しだけ先へ進めてくれた。


 灯りを結ぶ者。


 俺が何者かは、王都の局長が決めるものではない。


 黒燭が嘲る言葉で決まるものでもない。


 俺が灯りをともした場所。


 出会った人たち。


 守り、守られた小さな光。


 そのすべてが、今の俺を決めている。


「行ってきます」


 俺は月守狐へ頭を下げた。


『帰ってこい』


「はい」


 それは命令ではなく、祈りのように聞こえた。


     ◇


 翌朝。


 出発の日。


 北門には、村人たちが集まっていた。


 セラは旅装に着替え、剣を腰に下げている。


 ミリアは工具袋を二つに増やしていた。


「増えてませんか」


「必要だから」


「重くないですか」


「必要だから」


 理由が一つしかない。


 ノインは点検板と書類を抱え、ユーベルは荷馬車の準備をしている。


 ポルカは俺の肩で、南の方角を見ていた。


 ノクスヴェイルから南へ。


 旧巡灯路を抜け、赤砂街道へ。


 宿場町カラントへ。


 まだ見ぬ灯りが待っている。


 北門守護灯が、朝の光の中で揺れた。


 ニナが手を振る。


「いってらっしゃい!」


 リオも少し恥ずかしそうに手を上げた。


「気をつけて」


 ロッテさんが笑う。


「帰ってきたら、温かいスープを用意しておくよ」


 ガルム爺が頷く。


「南の者にも、灯りの見方を教えてやるとよい」


 村人たちの声が重なる。


 いってらっしゃい。


 帰ってこい。


 気をつけて。


 灯りを頼む。


 その声は、俺の背中を押した。


 追い出された時とは違う。


 今度は、送り出されている。


 帰る場所から。


 帰ってくることを前提に。


 俺はランタンを掲げた。


 中には、ノクスヴェイルの小さな灯りが揺れている。


「行ってきます」


 北門を抜ける。


 背後で、村の灯りが一斉に揺れた。


 まるで、道をつないでくれるように。


 南の空は、かすかに赤い。


 乾いた風が吹いている。


 その先で、黒き種が芽吹こうとしている。


 でも、もう怖いだけではなかった。


 俺には帰る場所がある。


 ともに歩く仲間がいる。


 結んできた灯りがある。


 小さな灯火網は、ノクスヴェイルから外へ伸び始めた。


 王都へ。


 海へ。


 森へ。


 そして、南の赤砂街道へ。


 俺は一歩を踏み出す。


 灯りを奪う夜があるなら。


 そこへ、小さな灯を届けるために。

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