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第50話 南から揺れる赤い灯

 朝のノクスヴェイルは、いつもより静かだった。


 静かすぎるくらいだった。


 黒い霧はない。


 影狼の唸りもない。


 黒燭商会の礼服も見えない。


 けれど、村人たちは誰も油断していなかった。


 家の窓灯を見ている。


 井戸灯を確かめている。


 あかり宿の食堂灯を磨いている。


 月灯工房の前には、検灯待ちの灯具がまだいくつも並んでいた。


 昨夜、村は黒くされかけた。


 自分たちの手で灯りを守ろうとした瞬間を、黒燭に利用されかけた。


 その事実は、朝になっても簡単には消えない。


 でも、村の灯りは消えていなかった。


 強く燃え上がっているわけではない。


 いつもの明るさで、そこにある。


 それが何より心強かった。


「顔、ひどいわよ」


 あかり宿の食堂で、セラがそう言った。


 俺はスープの器を両手で持ったまま瞬きをする。


「そんなにですか」


「黒聖灯の芯から帰ってきた時の次くらい」


「それはかなりですね」


「自覚があるなら寝て」


「寝ました」


「短い」


 反論できない。


 結局、南の灯りの気配が気になって、深くは眠れなかった。


 ミリアも似たようなものだった。


 彼女は食堂の隅で、パンを片手に設計図を書いている。


 寝癖のついた耳が少し曲がっていた。


「ミリアも寝てないでしょ」


 セラが言う。


「寝た」


「どのくらい」


「職人基準で」


「人間基準で答えて」


「……少し」


「今日の作業時間、私が決める」


「横暴」


「必要な管理」


 ミリアは不満そうに頬を膨らませたが、反論はしなかった。


 ポルカは暖炉の前で丸くなっている。


 昨日の疲れが相当残っているのか、ロッテさんが置いた小皿のミルクにもすぐには反応しない。


「ぽう……」


 寝言のように鳴いて、尻尾だけ揺れた。


 ノインは食堂のテーブルいっぱいに記録を広げている。


 こちらも寝不足の顔だ。


 ただ、目だけは妙に冴えていた。


「昨日の件で、整理できたことがあります」


 ノインが紙を一枚持ち上げた。


「黒燭は、三段階で小さな灯りを狙っています」


「三段階?」


 セラが聞き返す。


 ノインは頷いた。


「第一段階。黒粉を灯具や予備芯へ混ぜる。これは火入れ前なら除去可能です」


「昨日の北門や宿の灯りですね」


「はい。第二段階。黒粉が火入れされると、灯路へ黒糸が流れます。この段階になると、灯具単体ではなく灯火網へ侵食します」


 広場灯や月灯工房が、その寸前だった。


 俺は頷く。


「第三段階は?」


「黒き種火です」


 ノインの声が少し低くなる。


「これは灯りが生まれる場所そのものを狙う。月守狐、月灯狐、古い灯路図、職人の工房、あるいは地域の中心となる火種」


 食堂の空気が重くなった。


 黒粉は除去できる。


 黒糸も、まだ間に合えば切れる。


 だが、黒き種火は違う。


 灯りの源に植えられる。


 芽吹けば、その後にともる灯りすべてに黒が混じる。


「南で感じたのは、たぶん第三段階の前触れです」


 俺は昨夜のことを話した。


 窓辺で結灯環が揺れたこと。


 南の方角から、乾いた風と砂の匂いがしたこと。


 赤茶色の小さな灯りの下に、黒い種の気配があったこと。


 ミリアの手が止まる。


「南……乾いた風?」


 ノインがすぐに地図を広げた。


 王都から南へ伸びる街道。


 そこからさらに、乾いた高原へ入る道。


 地図の端に、小さな宿場町の名があった。


「赤砂街道」


 ノインが指でなぞる。


「交易路です。王都へ香辛料、乾燥薬草、鉱石、硝子砂を運ぶ道。途中に巡灯所がいくつかあります」


 セラが地図を見る。


「ノクスヴェイルからは?」


「直接行くなら、南東の旧巡灯路を使う必要があります。ただ、ここも長く使われていません」


「また古い巡灯路」


 ミリアがため息をつく。


「古い灯り、酷使されがち」


「でも、生きている可能性はあります」


 俺は地図の上の細い線を見た。


 王都。


 海。


 黒森。


 今度は南の赤砂街道。


 灯火網が広がるほど、道も増える。


 月守狐の言葉が蘇る。


『守る灯りが増えるほど、道は増える』


 けれど、今すぐ出発するわけにはいかなかった。


 ノクスヴェイルは昨夜襲われたばかりだ。


 検灯も完全ではない。


 隔離した黒き種火の安全も確認しなければならない。


 何より、皆が疲れている。


 セラは地図から顔を上げた。


「南へ行くとしても、今日ではない」


 はっきり言った。


「村の検灯体制を整える。黒き種火の隔離を安定させる。王都と北方灯台へ報告を送る。それから出発」


「はい」


 俺は素直に頷いた。


 焦りはある。


 南の小さな灯りが、今も黒に触れられているかもしれない。


 だが、焦って出れば、ノクスヴェイルをまた危険にさらす。


 次の灯りを守るためにも、帰る場所を整えなければならない。


「それに」


 セラは俺を見た。


「あなたが倒れたら、南へ着いても何もできない」


「はい」


「ミリアも」


「はいはい」


「返事は一回」


「はい」


 ミリアは不満そうだったが、設計図を折りたたんだ。


 珍しく素直だった。


     ◇


 その日、月灯工房は一日中忙しかった。


 ただし、セラの命令で作業時間は区切られた。


 ミリアは最初こそ文句を言っていたが、途中から諦めたらしい。


「じゃあ、休憩時間も設計考える」


「休憩の意味」


 俺が言うと、彼女は真顔で返した。


「頭の中は休まらない」


「なお悪いです」


 それでも、作業は進んだ。


 まず作ったのは、検灯札だった。


 小さな木札に、灯具の名前、家の名前、検査日、使用していい芯の種類を書く。


 黒粉が見つかった灯具には赤い紐。


 問題なしの灯具には白い紐。


 再検査が必要な灯具には黄色い紐。


 単純だが、村人たちにも分かりやすい。


 ニナとリオが札を配る役になった。


「白い紐は大丈夫。黄色は勝手に火を足さない。赤は触らない」


 ニナが一生懸命説明する。


 村人たちは真剣に聞いていた。


 リオは予備芯の匂いを確認し、怪しいものを俺たちへ持ってくる。


「これ、少し黒い」


「本当ですね」


 光を通すと、芯の奥に黒い粒があった。


 リオの感覚は鋭い。


 黒燭の小屋で混ぜさせられていた記憶。


 それは彼にとってつらいものだ。


 でも今、その記憶が村を守っている。


「リオ、休憩しよう」


 俺が言うと、彼は首を振った。


「もう少し」


「頑張りすぎると、匂いが分からなくなります」


「……そうなの?」


「たぶん」


「じゃあ休む」


 素直だった。


 ニナが隣で笑う。


「ルカお兄ちゃん、リオの扱い上手」


「セラさんに鍛えられています」


 少し離れたところでセラがこちらを見た。


「何か言った?」


「何も」


 ミリアが小さく吹き出した。


 検灯札の次に作ったのは、種見灯だった。


 黒き種火や黒粉の気配を見つけるための小さな検査灯。


 まだ試作品だ。


 潮硝子の欠片、月灯狐の抜け毛、井戸灯の水面反射板、王都の点検灯の仕組み。


 それらを組み合わせた、小さな筒型の灯具だった。


 ミリアはそれを作業台に置き、腕を組む。


「派手な光は出ない。黒があると、火が強くなるんじゃなくて、逆に細く震える」


「黒を燃やして反応させるわけではないんですね」


「燃やしたら負け。黒は燃えると調子に乗るから」


「言い方」


「事実」


 ノインが慎重に種見灯を覗き込む。


「これは王都でも必要です。聖灯局に正式な検灯手順として提案できます」


「聖灯局がまともに動くならね」


 ミリアの言葉は辛口だった。


 王都聖灯局は、グレゴールの件で大きく揺れている。


 リディア監査官が動いているとはいえ、すぐに全てが変わるわけではない。


 それでも、記録と道具があれば、変えられる可能性はある。


「ノインさん」


「はい」


「リディアさんへ報告する時、この検灯札と種見灯の設計も一緒に送れますか」


「もちろんです」


 ノインは強く頷いた。


「王都だけでなく、沿岸灯務、巡灯路管理所、街道宿場にも必要になります」


 灯火網は、ただ光を結ぶだけではない。


 対処法も結ぶ必要がある。


 どこかの灯りが黒に触れた時、次の場所で同じ罠にかからないように。


 それもまた、灯火師の仕事なのだと思った。


     ◇


 昼過ぎ、北門に馬車が一台到着した。


 荷台には王都の監査印がついている。


 セラが警戒して前へ出る。


 だが、馬車から降りてきたのは、見覚えのある人物だった。


「ユーベルさん」


 巡灯路の祠で会った、王都から逃げてきた男だ。


 以前は怯えきっていた彼が、今は少しだけ顔つきが違っている。


 背筋を伸ばし、手には封書を持っていた。


「リディア監査官からです。ノクスヴェイルへ急送せよと」


 ノインが封書を受け取る。


 王都監査官リディア・フォースの封印。


 開くと、中には数枚の報告書が入っていた。


 ノインが読み上げる。


「王都下層、黒燭残党の摘発継続。グレゴール前局長の尋問進行中。黒燭商会の倉庫から、黒粉および未完成の黒芯を押収……」


 そこまでは予想の範囲だった。


 だが、次の一文で全員の顔が変わった。


「南方赤砂街道沿いの宿場町カラントにて、夜間灯の異常報告あり。火が強くなる一方で周囲が暗くなる現象。住民は“赤い灯り病”と呼称」


「赤い灯り病……」


 俺は昨夜感じた赤茶色の火を思い出した。


 乾いた風。


 砂の匂い。


 黒い種の気配。


 ノインはさらに読み進める。


「現地巡灯師からの報告、三日前を最後に途絶。最後の記録。“火を強くすればするほど、影が濃くなる。水場の灯りが赤く乾く。子どもたちが夜に喉の渇きを訴える”」


 ロッテさんが口元を押さえる。


 ミリアの目が鋭くなった。


「水場の灯りが赤く乾く……井戸灯系の汚染?」


「可能性があります」


 俺は頷いた。


 ノクスヴェイルでは井戸灯を狙われた。


 南の宿場町でも、水に関わる灯りが狙われている。


 ただ、黒森とは違う。


 乾いた土地。


 赤砂街道。


 水場の灯り。


 同じ黒き種火でも、土地に合わせて形を変えている。


 リディアの手紙の最後には、短い一文があった。


『ルカ・エルネスト殿。貴殿の追放処分は正式に撤回手続きへ移行した。しかし今は名誉回復より先に、灯りの命がかかっている。南方へ向かう判断をするなら、監査官として支援する』


 俺はしばらくその文を見つめた。


 追放処分の正式撤回。


 かつて王都で突きつけられた烙印が、ようやく消えようとしている。


 嬉しくないわけではない。


 だが、その言葉よりも先に、赤砂街道の灯りが胸に残った。


 火を強くすればするほど、影が濃くなる。


 水場の灯りが赤く乾く。


 子どもたちが夜に喉の渇きを訴える。


 放っておけなかった。


 セラは俺の顔を見て、ため息をついた。


「行く顔ね」


「すみません」


「謝るところじゃない」


 彼女は地図へ視線を落とした。


「でも、準備してから。今日中に出るのは禁止」


「はい」


「明日も、朝の検灯結果次第」


「はい」


 ミリアが腕を組む。


「種見灯、最低三つ作る。隔離灯も改良型を一つ。あと赤砂用に防乾燥芯がいるかも」


「赤砂用?」


「乾いた土地で火が暴れるなら、普通の芯だと黒に引っ張られやすい。井戸灯と逆。湿り気じゃなくて乾き対策」


 もう頭の中で設計が始まっているらしい。


 ノインも頷く。


「僕は王都への返信と、リディア監査官宛の報告をまとめます。南方カラントの巡灯所についても資料を探します」


 セラはユーベルへ向いた。


「あなたは?」


 ユーベルは少し緊張しながらも、はっきり答えた。


「祠で待つだけは、もう嫌です。荷運びと連絡ならできます。南方へ向かうなら、途中の巡灯宿まで同行します」


 以前、黒い昼から逃げてきた彼。


 その彼が、今は灯りを届ける側になろうとしている。


 俺は頷いた。


「助かります」


 ユーベルは少し照れたように笑った。


     ◇


 夕方、村の灯りが一斉に確認された。


 検灯札の白い紐が、家々の灯具に結ばれている。


 黄色い紐の灯具は月灯工房へ運ばれ、赤い紐のものは隔離箱へ。


 村人たちはもう、灯りをただ怖がってはいなかった。


 見ている。


 確かめている。


 分からなければ、隣の人を呼ぶ。


 それだけで、黒燭の入り込む隙間は減る。


 あかり宿の前で、ロッテさんが俺たちへ包みを渡した。


「南へ行くなら、干し肉とパン。あと胃に優しい薬草茶」


「まだ行くと決まったわけでは」


「行くんでしょう?」


「……はい」


「なら、持っていきなさい」


 逆らえなかった。


 ガルム爺は月送りの灯の小さな火を分けてくれた。


「乾いた土地では、死者を悼む灯りも必要じゃろう」


 ニナは安眠灯からほんの少しだけ火を分けた小瓶を持ってきた。


「夜、眠れない子がいたら使って」


 リオも自分のランプを少し掲げる。


「黒い芯の匂いがしたら、これと比べて。ぼくのランプ、もう黒じゃないから」


 その言葉に、俺は胸が詰まった。


「ありがとうございます」


 ミリアは受け取った火種を、結灯環用の小さなケースへ丁寧に納めた。


「南方用の旅灯、かなり賑やかになるね」


「心強いです」


「重くもなる」


「それも心強さです」


「いいこと言った風」


「違いましたか」


「まあ、ちょっとだけ」


 ポルカが肩の上で、ぽう、と鳴いた。


 少し元気が戻ってきたらしい。


 月守狐は黒森の入口から、静かにこちらを見ていた。


 声は聞こえない。


 だが、白銀の光が細く伸び、俺のランタンに触れた。


 行け。


 そう言っているようだった。


 同時に、帰ってこい、とも。


 俺は小さく頭を下げた。


     ◇


 夜になり、ノクスヴェイルの灯りがいつもの明るさでともった。


 強すぎず。


 弱すぎず。


 それぞれの場所に合った火。


 俺はあかり宿の窓から、その灯りを見ていた。


 セラが隣に立つ。


「少しは休めそう?」


「はい。今日は」


「明日は?」


「……努力します」


「努力じゃなくて休む」


「はい」


 セラは小さく息を吐いた。


「南へ行くなら、今回は今までと少し違う」


「違う?」


「王都は大灯を戻す戦い。北方灯台もそう。ノクスヴェイルは帰る場所を守る戦い」


「はい」


「南は、まだ知らない人たちの灯りを守りに行く」


 確かにそうだ。


 王都には俺の過去があった。


 北方灯台には、王都から続く黒燭の脅威があった。


 ノクスヴェイルは帰る場所だった。


 でも南方カラントは、まだ見ぬ町だ。


 誰の顔も知らない。


 どんな灯りかも知らない。


 それでも、行く。


 結灯環が、微かに揺れた。


 南からの赤茶色の灯りは、まだ遠い。


 でも、確かに助けを求めている。


「知らない灯りでも」


 俺は言った。


「誰かの帰る場所なんですよね」


 セラは少しだけ笑った。


「そう言うと思った」


 窓の外で、村の灯りが静かに揺れる。


 その先。


 南の空は、夜なのにかすかに赤かった。


 炎の赤ではない。


 夕焼けでもない。


 乾いた砂の下で、黒い種が熱を持っているような赤。


 俺はランタンに手を添えた。


 ノクスヴェイルの灯りは、今夜も村を照らしている。


 だから、次の灯りへ向かえる。


 南方赤砂街道。


 宿場町カラント。


 赤い灯り病。


 まだ見ぬ夜が、俺たちを待っていた。

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