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第48話 黒き種を包む灯火網

 黒い種火が、月守狐の足元で脈打っていた。


 どくん。


 どくん。


 小さな音のはずなのに、森全体がそれに合わせて震えている。


 白い石の広場。


 黒森の奥、月守狐の眠り場。


 かつて黒い鎖で縛られていたその場所に、今度は黒い根が伸びている。


 根はまだ浅い。


 村の灯りを守れたからだ。


 北門で火を入れる前に止められた。


 広場灯も、井戸灯も、あかり宿も、月灯工房も、黒粉から取り戻した。


 だから、黒い種火は完全には芽吹いていない。


 だが、消えてもいない。


 このまま放置すれば、黒い種は森の灯路へ根を張る。


 月灯狐たちの光へ混ざり、これから生まれる小さな灯りを最初から黒くする。


 それは、大聖灯を黒くするよりも、灯台を黒くするよりも、ずっと悪質だった。


 灯りが生まれる前に、汚す。


 人が安心する前に、黒を混ぜる。


 俺はランタンを握った。


 月守狐が静かに告げる。


『黒き種は、小さき灯りの網を狙う。ならば、網そのもので包むしかない』


 網そのもので包む。


 黒を焼き払うのではない。


 力で潰すのでもない。


 芽吹かないように、小さな灯りたちで囲み、黒だけを隔離する。


 失敗すれば、黒は灯火網全体へ走る。


 王都へ。


 北方灯台へ。


 白帆宿へ。


 ノクスヴェイルへ。


 月灯工房へ。


 あかり宿へ。


 俺が結んできた灯りすべてに、黒が触れる。


 怖くないと言えば嘘になる。


 でも、逃げられない。


 守る灯りが増えたから、進めるのだ。


「やります」


 俺が言うと、セラが隣に立った。


「なら、黒い根が暴れた時は私が止める」


 ミリアは灯路針を握り直した。


「種火の外殻は私が開く。黒を散らさず、隔離灯へ流す」


 ノインは点検灯を掲げた。


「流れを読みます。黒がどの灯りへ伸びようとしているか、全部伝えます」


 ポルカは俺の肩から飛び降り、月守狐の前に立った。


「ぽう!」


 小さな体で、大きな月守狐を守ろうとしている。


 その背後で、月灯狐たちが一斉に白銀の光をともした。


 小さな月が、森の広場に点々と浮かぶ。


 月守狐の三本の尾も、静かに広がった。


『小さき灯火師よ。焦るな』


「はい」


『黒は強き火に食いつく。大きく燃やせば、そこから入り込む』


「小さく、ですね」


『そうだ。小さく、数多く、互いに支えよ』


 何度も聞いた言葉だ。


 でも、今ほど重く感じたことはない。


 俺は結灯環へ意識を沈めた。


 最初に触れたのは、ノクスヴェイルの広場灯。


 村の中心にともる灯り。


 村人たちが見守る中、その光がこちらへ応えた。


 次に北門守護灯。


 ニナとリオがともした補助灯も一緒に揺れる。


 あかり宿の食堂灯。


 ロッテさんの温かい火。


 井戸灯。


 水面を守る金色と白銀。


 月灯工房の父の工房灯。


 ミリアの手で取り戻された職人の灯り。


 墓地道の月送りの灯。


 ガルム爺とエマさんの道。


 畑の見張り灯。


 家々の窓灯。


 小さな灯りたちが、村の中から次々に応える。


 さらに遠く。


 王都の南下層橋灯三号。


 祈り灯七番。


 南通り店灯。


 黒聖灯から戻った大聖灯。


 白帆宿の帰り灯。


 潮見坂の灯柱。


 北方灯台の下層帰港灯路。


 中層霧鐘。


 最上層導灯。


 それらが細い線となって、結灯環の中で揺れた。


 これまでの旅で結んできた灯りたち。


 ひとつひとつ、役目が違う。


 橋を渡る灯り。


 祈って待つ灯り。


 店を開ける灯り。


 帰る船へ道を返す灯り。


 眠るための灯り。


 水を守る灯り。


 職人が直す灯り。


 どれも大きくはない。


 けれど、どれも誰かの夜を支えている。


「皆さん、少しだけ力を貸してください」


 声に出したわけではない。


 でも、灯りたちは応えてくれた。


 小さな光が、俺のランタンへ集まる。


 大きな炎にはしない。


 一つの巨大な火にまとめない。


 小さな灯りを、小さなまま。


 役目を失わせずに。


 俺は黒い種火へ向き直った。


「【小さな灯】」


 金色の細い光が、黒い種火の周囲へ落ちた。


     ◇


 黒い種火は、すぐに反応した。


 どくん。


 足元の黒根が跳ねる。


 赤黒い火が、細い蛇のように伸びた。


 最初に狙われたのは、北門守護灯だった。


「北門へ黒糸!」


 ノインが叫ぶ。


「セラさん!」


「見えてる!」


 セラが黒根の前へ飛び込む。


 剣で切るのではない。


 黒根が伸びる方向へ、足元の白い石を蹴り飛ばす。


 石に残っていた月守狐の白銀が、黒根の進路を一瞬だけずらした。


 その隙に、ポルカが白い光を重ねる。


「ぽう!」


 北門へ伸びた黒糸が鈍る。


 俺はそこへ、ニナの安眠灯とリオのランプの光を通した。


 子どもたちがともした北門補助灯が応える。


 黒糸が押し返された。


 次に黒い種火は、月灯工房へ伸びた。


 ミリアの顔が険しくなる。


「来た!」


 父の工房灯が強く揺れる。


 工房で隔離した黒が、まだ完全には処理されていない。


 そこへ黒い種火が食いつこうとしている。


「ミリア、隔離灯!」


「出してる!」


 ミリアは腰の袋から、小さな隔離灯を取り出した。


 黒い工房灯を封じた時に作った灯具。


 潮硝子、月灯狐の毛、王都の反射板、ノクスヴェイルの芯。


 旅で得たものを組み合わせた、ミリア自身の灯具。


「父さんの工房灯には触らせない」


 ミリアは黒糸の進路に隔離灯を置き、灯路針で角度を調整する。


「ルカ、こっちへ少し流して!」


「はい!」


 俺は工房灯から届く光を、隔離灯の外側へ薄く広げた。


 黒糸は工房灯へ入ろうとして、隔離灯の周囲をなぞる。


 ミリアが針を回した。


「そこ!」


 黒糸が隔離灯へ吸い込まれる。


 中で黒い粒が暴れたが、外へは出ない。


「よし!」


 だが、黒い種火は止まらない。


 今度はあかり宿へ。


 次は井戸灯へ。


 その次は王都の祈り灯へ。


 さらに北方灯台の導灯へ。


 まるで、俺が結んだ灯りを一つずつ確かめるように。


 弱い場所を探している。


 不安が残っている場所。


 悲しみがある場所。


 守りたい気持ちが強い場所。


 黒はそこへ入り込もうとする。


「全部に来ます!」


 ノインの声が上ずる。


「黒い種火、灯火網の弱点を探っています!」


「弱点じゃない」


 俺は歯を食いしばった。


「大切な場所です」


 俺はランタンを胸に引き寄せた。


 大切な場所だから、揺れる。


 大切な灯りだから、怖い。


 でも、その揺れは弱さだけではない。


 誰かがそこにいる証だ。


「ロッテさん」


 あかり宿の灯りへ光を送る。


「ガルム爺」


 月送りの灯へ。


「リーネさん」


 北方灯台へ。


「ノインさんの王都の記録灯」


 大聖灯と下層灯路へ。


「皆さん、自分の灯りを見てください」


 遠く離れた灯りたちが、確かに応えた。


 あかり宿では、ロッテさんが食堂灯へ手を添えている気配がした。


 王都では、ノインの仲間たちが下層の灯りを見回っている。


 北方灯台では、リーネが導灯を確認している。


 白帆宿では、女将が帰り灯を磨いている。


 全部が、俺の手の中にあるわけではない。


 それぞれの場所で、それぞれの人が守っている。


 黒い種火が何度も糸を伸ばす。


 そのたびに、灯りの持ち主たちが押し返す。


 俺はその間を結ぶだけだ。


「【小さな灯】」


 金色の網が、黒い種火の周囲を少しずつ囲んでいく。


     ◇


 黒い種火が苛立つように脈打った。


 どくん。


 今度は、直接俺のランタンへ黒糸が伸びてきた。


 速い。


 避ける間もない。


 黒糸がランタンの外側に絡む。


 冷たい声が響いた。


 守る灯りが多いほど、苦しいだろう。


 全部守るなど無理だ。


 どれかを選べ。


 どれかを捨てろ。


 一つでも捨てれば、楽になる。


 胸の奥を掴まれる。


 それは、嘘ではなかった。


 全部を守るのは苦しい。


 王都へ行けば村が心配になる。


 灯台へ行けば王都の灯りが気になる。


 村へ戻れば海の灯りが心配になる。


 守る場所が増えるほど、心は休まらない。


 黒燭は、そこを突いてくる。


「ルカ!」


 セラの声が聞こえる。


 ミリアの声も。


「引き込まれるな!」


 ポルカが必死に白い光を放つ。


「ぽううっ!」


 それでも黒糸は、俺のランタンへ食い込もうとする。


 選べ。


 どの灯りを守る。


 どの灯りを捨てる。


 俺は息を吸った。


「選びません」


 黒糸が強く締まる。


 俺はランタンを握り直した。


「俺一人で全部守ろうとするなら、選ぶしかないかもしれません」


 でも。


「俺は、全部を自分のものにしているわけじゃない」


 橋灯は橋を使う人の灯り。


 宿灯は宿を守る人の灯り。


 工房灯はミリアの灯り。


 北門はセラと村の灯り。


 安眠灯はニナの灯り。


 ランプはリオの灯り。


 導灯はリーネの灯り。


 祈り灯は待つ人の灯り。


 俺はそれを結ぶ。


 奪わない。


 背負い込まない。


 ただ、互いに届くようにする。


「灯火網は、俺が全部守るためのものじゃありません」


 ランタンの中で、金色の火が穏やかに揺れた。


「皆が、自分の灯りを守れるようにするためのものです」


 その瞬間、黒糸が少し緩んだ。


 セラが剣の柄で黒根を叩き、進路を逸らす。


 ミリアが灯路針を差し込む。


 ポルカが白銀の光を重ねる。


 ノインが叫ぶ。


「黒糸、外れます!」


 俺はランタンから光を広げた。


「【小さな灯】」


 黒糸がほどける。


 黒い種火の外側へ、金色と白銀の網がさらに密になる。


 黒い種火は、今度は月守狐へ直接伸びようとした。


 月守狐の足元の黒根が立ち上がる。


『来るぞ』


 月守狐の声が響く。


 ポルカと月灯狐たちが一斉に前へ出た。


「ぽう!」


 白銀の光が集まる。


 しかし、黒い種火の力も強い。


 月灯狐たちの小さな光が押される。


 一匹、また一匹と後退しそうになる。


 その時、ミリアが隔離灯を高く掲げた。


「月灯狐の光は、素材じゃない!」


 彼女の声が森に響く。


「灯具に使う時も、借りてるんだ。奪ってるんじゃない。あんたたちの光は、あんたたちのもの!」


 月灯狐たちが顔を上げた。


 ポルカが胸を張る。


「ぽう!」


 白銀の光が強まった。


 月守狐の三本の尾が、その光を受ける。


『よい職人だ』


 月守狐が静かに言った。


 ミリアは照れる暇もなく叫ぶ。


「褒めるのはあと! ルカ、包むよ!」


「はい!」


 俺はすべての灯りを、黒い種火の周囲へ結んだ。


 金色。


 白銀。


 青白い潮灯。


 王都の祈り火。


 宿の温かな火。


 工房の職人火。


 安眠灯の柔らかい火。


 それらが、黒い種火を囲む。


 大きな炎ではない。


 無数の小さな灯りの網。


 黒い種火が暴れる。


 芽吹こうとする。


 夜を広げようとする。


 だが、どこへ伸びても小さな灯りがある。


 ひとつを食おうとすれば、隣が支える。


 隣を狙えば、さらに別の灯りが照らす。


 黒は、広がれない。


「ミリア!」


「隔離灯、開く!」


 ミリアが隔離灯の芯受けを広げる。


 ノインが点検灯を向ける。


「黒い種火の外殻、今なら浮きます!」


 セラが黒根の暴れを押さえる。


「早く!」


 ポルカが白銀の光を最後に一押しする。


「ぽうううっ!」


 月守狐の尾が大きく広がり、白銀の輪を作った。


 俺は金色の灯火網を、その輪へ重ねる。


「【小さな灯】」


 黒い種火が、地面から浮いた。


 小さな黒い種。


 赤黒い芯。


 それが芽吹く前に、光の網で包まれる。


 ミリアの隔離灯が、それを受け止めた。


 ばちん、と音がした。


 隔離灯の中で、黒い種火が激しく暴れる。


 潮硝子がひび割れそうになる。


 ミリアが両手で押さえる。


「もって……!」


 俺も光を重ねる。


 ポルカと月灯狐たちが白銀を注ぐ。


 ノインが叫ぶ。


「黒の流出、なし! 隔離、維持しています!」


 セラが息を詰めて見守る。


 やがて、隔離灯の中の黒い種火が小さくなった。


 完全には消えない。


 だが、芽吹く力は封じられた。


 黒い粒となって、隔離灯の底で沈黙する。


 森に、静けさが戻った。


     ◇


 月守狐の足元から、黒い根がほどけていった。


 白い石の広場に、白銀の光が戻る。


 木々の赤黒い筋も薄れていく。


 月灯狐たちが、疲れたようにその場へ座り込んだ。


 ポルカも俺の肩へ戻ろうとして、途中で力尽き、ミリアの腕に落ちた。


「ぽう……」


「よく頑張ったね、隊長」


 ミリアがそっと抱える。


 ポルカは満足げに目を閉じた。


 月守狐が俺たちを見下ろす。


『黒き種は封じられた。小さき灯りの生まれる場所は、守られた』


「完全に消えたわけではないんですね」


『夜そのものを消すことはできぬ』


 月守狐は静かに言った。


『だが、芽吹かせぬことはできる。見張り、記録し、次に備えることはできる』


 ノインが点検板を握りしめる。


「記録します。黒い種火の性質、隔離方法、小灯汚染粉との関係、全部」


「私も隔離灯を改良する」


 ミリアが言った。


「これ、応急で作ったから。もっと安全に封じられる形にする」


 セラは黒森の奥を見た。


「ヴァルハインはまた逃げた。でも、今回は仕掛けを止めた」


「はい」


 俺はランタンを見た。


 中の火は小さく揺れている。


 疲れている。


 俺も同じだ。


 けれど、消えていない。


 月守狐がゆっくりと頭を下げた。


『小さき灯火師。お前は、守る灯りが増えるほど遅れると言われたな』


「はい」


『違う。守る灯りが増えるほど、道は増える』


 その言葉が、胸に深く落ちた。


 守る灯りが増えるほど、怖い。


 でも、同時に帰れる道も増える。


 助けてくれる光も増える。


 自分一人で背負わなくていい理由も増える。


「はい」


 俺は頷いた。


「そう思います」


 黒森の奥から、朝の気配が差し始めていた。


 完全な夜明けではない。


 でも、黒ではない。


 白銀と金色の混ざった、静かな明るさ。


 俺たちは村へ戻ることにした。


 ノクスヴェイルの灯りが、遠くで待っている。


 守られた小さな灯りたちが、帰り道を示していた。


 その時。


 隔離灯の底で、黒い種火が一瞬だけ震えた。


 かすかに、声がした。


『……芽は、ひとつではない』


 俺たちは同時に息を呑んだ。


 隔離灯の黒い粒は、すぐに沈黙した。


 だが、その言葉だけは残った。


 芽は、ひとつではない。


 黒燭は、他の場所にも種を撒いている。


 王都か。


 海沿いか。


 それとも、まだ見ぬ町や村か。


 俺はランタンを握りしめた。


 ノクスヴェイルの空に、朝が近づいている。


 ひとつの灯りは守れた。


 でも、まだ見えない夜が、どこかで芽吹こうとしている。


 だからこそ。


 小さな灯火網を、もっと遠くへ結ばなければならない。

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