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第42話 夜を返す者

 ノクスヴェイルに、夜を返す。


 黒蝋が残したその文字は、しばらく硝子筒の中で揺れていた。


 まるで、こちらの反応を楽しむように。


 白帆宿の奥の小部屋。


 窓の外では、夜明けの海が少しずつ色を取り戻している。


 北方灯台の光は正常に戻り、港には帰ってきた船の帆が並んでいた。


 助かった人たちがいる。


 戻れた船がある。


 守れた灯りがある。


 それなのに、胸の奥は冷えていた。


 ノクスヴェイル。


 黒森に隣り合う、あの小さな村。


 初めて俺の【小さな灯】を必要としてくれた場所。


 ニナが眠れるようになった安眠灯。


 ロッテさんのあかり宿。


 ミリアの月灯工房。


 セラが守ってきた北門。


 リオたちがようやく安心して眠れるようになった部屋。


 月守狐とポルカの森。


 村の人たちが、自分たちの窓辺に小さな灯りをともして、黒燭商会を押し返した夜。


 あの灯火網が、今度は狙われている。


 セラは硝子筒を見つめたまま、静かに言った。


「出発はすぐ」


「はい」


 俺も頷く。


 迷いはなかった。


 王都の大聖灯も、北方灯台も大切だ。


 けれど、ノクスヴェイルは俺たちの帰る場所だ。


 そこを黒くされるわけにはいかない。


 ミリアは眠っていたはずだった。


 だが、扉の向こうから声がした。


「聞こえた」


 振り向くと、彼女が工具袋を抱えて立っていた。


 目の下に疲れが残っている。


 それでも、耳はぴんと立っていた。


「ノクスヴェイルに戻るんでしょ」


「はい」


「なら、あたしも行く」


「休まなくて大丈夫ですか」


「大丈夫じゃない。でも工房を黒くされる方がもっと無理」


 それはそうだった。


 ミリアにとって、月灯工房は父親から受け継いだ場所だ。


 壊れた灯具を直し、村の灯りを作り、ポルカたち月灯狐の光を大事に扱ってきた場所。


 あそこを黒燭に狙われるなど、彼女が黙っているはずがない。


 暖炉の近くで丸まっていたポルカも、いつの間にか目を覚ましていた。


「ぽう……?」


 眠そうな声。


 だが、黒蝋の文字を見ると、一瞬で毛が逆立った。


「ぽうっ!」


 小さな体で硝子筒に飛びかかろうとする。


「ポルカ、待ってください」


「ぽう! ぽう!」


「怒るのは分かります。でも割ると危険です」


 ポルカは俺の腕の中でじたばたしたが、やがて悔しそうに尻尾を膨らませた。


 セラがポルカの頭をそっと撫でる。


「村を守りに戻るわ」


「ぽう……!」


 今度は力強い声だった。


 ノインも小部屋へ入ってきた。


 寝不足でふらついているが、点検板を抱えている。


「僕も同行します」


「ノインさんは王都への報告が」


「報告はリーネさんと白帆宿から王都へ送れます。黒燭が小さな灯火網を狙うなら、記録係が必要です」


「でも」


 俺が言いかけると、ノインは首を振った。


「僕は、見ないふりをしたくありません。王都でも、灯台でも、あなたたちは小さな灯りを見て進みました。なら、今度も見届けます」


 その声には、もう以前のような弱さはなかった。


 下級補佐。


 記録係。


 そう呼ばれていた彼は、今、自分の意思で灯りを見に行こうとしている。


 セラが短く頷いた。


「足手まといにならないなら」


「努力します」


「努力じゃなくて準備」


「はい」


 ミリアが横から防湿加工済みの点検灯を押しつけた。


「これ持って。あと、走れる靴に替えて」


「え、はい」


「あと寝られる時に寝る。記録係が倒れたら困る」


「それ、さっき僕が言われたような……」


「言ったのはあたし。守るのもあんた」


「はい」


 少しだけ、空気が緩んだ。


 けれど、長くは続かない。


 硝子筒の中の黒蝋が、最後にもう一度だけ震えた。


 文字が崩れ、黒い染みになる。


 その染みの奥に、一瞬だけ黒森のような影が見えた。


 赤い目。


 黒い木々。


 そして、村の窓辺にともる小さな灯りへ伸びる黒い糸。


 俺はランタンを握った。


「急ぎましょう」


     ◇


 白帆宿を出る準備は、慌ただしかった。


 リーネは北方灯台の応急点検から戻ったばかりなのに、すぐに地図を広げてくれた。


「ノクスヴェイルへ最短で戻るなら、北方灯台から王都へ戻るより、旧西方巡灯路を南東へ抜けた方が早い」


 彼女の指が地図の上を走る。


「ただし、この道は長く使われていない。黒蝋の文字にあった“西方巡灯路、沈黙”は、たぶんこの一帯のこと」


「危険ですね」


「危険。でも、王都経由より一日は短縮できる」


 セラが即決した。


「その道で行く」


 リーネは頷き、棚から小さな灯具を取り出した。


 薄青い潮硝子の入った携帯灯。


「これを持っていって。灯台の導灯火から分けた潮灯。霧が出ても、足元の道を探せる」


「大切なものでは?」


「大切だから渡すの」


 リーネは俺を見る。


「灯りは、しまっておくためのものじゃない。必要な道へ渡すものだから」


 その言葉に、胸が温かくなった。


「ありがとうございます」


「それと、ノクスヴェイルへ着いたら教えて。灯台は戻ったって。白帆宿も、潮見坂も」


「必ず」


 リーネは少しだけ笑った。


「いつか、月灯工房も見てみたい」


 ミリアの耳が動いた。


「来て。海の灯具と月灯具、交換研究しよ」


「ぜひ」


 その約束は、小さな未来の灯りのようだった。


 カイルたち船乗りは、食料と水を用意してくれた。


「海からは送れねえが、岬の南道まで荷車を出せる」


「助かります」


「助けられた分には足りねえよ」


 カイルはそう言って、俺の肩を軽く叩いた。


「村を守ってこい。帰る場所が狙われるのは、気分が悪いからな」


「はい」


 白帆宿の女将は、帰り灯から小さな火を分けてくれた。


「これは、宿の火です」


「いいんですか」


「戻ってくる人を迎える灯りだから。あなたたちが戻る道にも、きっと必要でしょう」


 俺はその火を結灯環に納めた。


 王都の宿灯。


 白帆宿の帰り灯。


 ノクスヴェイルのあかり宿。


 宿の灯りが、いくつもつながっていく。


 ロッテさんの顔が浮かんだ。


 早く戻らなければ。


 守らなければ。


 その焦りを、セラの声が落ち着かせた。


「ルカ」


「はい」


「焦りすぎると、黒燭につけ込まれる」


「……はい」


「急ぐ。でも、灯りは一つずつ起こす。いい?」


「分かっています」


「本当に?」


「たぶん」


「そこは、はいと言うところ」


「はい」


 ミリアが横で小さく笑った。


「セラ、ルカの扱いが上手くなってる」


「必要に迫られて」


「ひどいですね」


「事実よ」


 ポルカが肩の上で、ぽう、と同意した。


 味方が少ない。


     ◇


 旧西方巡灯路は、海沿いの崖道から内陸へ入る細い道だった。


 最初は潮風が強かった。


 やがて草地になり、低い森が続く。


 使われなくなって久しいのか、巡灯標は苔に覆われ、石灯の多くは倒れていた。


 だが、完全には死んでいない。


 リーネから受け取った潮灯を近づけると、古い灯路紋がかすかに反応した。


「西方巡灯路……本当に沈黙してる」


 ノインが記録板を見ながら呟く。


「でも、沈黙しているだけで、消滅はしていません」


「なら起こせる」


 ミリアが倒れた石灯を起こし、泥を払う。


「ルカ」


「はい」


 俺はランタンをかざした。


「【小さな灯】」


 ぽっ。


 小さな火がともる。


 潮灯の青白さと、俺の金色が混ざった柔らかい光。


 それは、王都の街灯とも、ノクスヴェイルの月灯とも、北方灯台の導灯とも少し違った。


 海と森の間に残る巡灯路の光。


 戻る道と進む道の境にともる灯り。


 その光が次の石灯へ、かすかに線を伸ばす。


 セラが周囲を警戒する。


「黒蝋の痕跡がある」


「ヴァルハインが通ったのでしょうか」


「たぶん。でも、急いだ痕跡じゃない」


 彼女は地面にしゃがみ、黒い染みを見た。


「むしろ、何かを撒いていった感じ」


「小さな灯りを狙う準備……」


 俺の声に、全員が黙った。


 その時、ポルカが鼻をひくつかせた。


「ぽう?」


「何かありますか」


 ポルカは道の脇へ飛び降り、草むらの中へ入っていく。


 俺たちが追うと、そこに小さな祠があった。


 半分崩れ、蔦に覆われた古い巡灯祠。


 中には、消えた手灯が一つ置かれている。


 そして、その手灯の周囲に、黒い粉が撒かれていた。


 ミリアがしゃがみ込む。


「黒燭の粉……でも、今までの黒蝋とちょっと違う」


「どう違いますか」


「火を食うっていうより、火がともる瞬間に混ざる感じ。芯の中へ入り込むための粉」


 ノインの顔がこわばる。


「小灯汚染用……?」


「たぶん」


 俺は祠の手灯を見た。


 古いが、誰かが最近まで使っていた気配がある。


 旅人か、巡灯師か、近くの村人か。


 この粉が灯りに混ざれば、灯火網へ黒が入り込む。


 大きな灯りを黒くするのではなく、小さな灯りがともる瞬間を狙う。


 ヴァルハインの言葉通りだ。


 ミリアが怒ったように尻尾を膨らませる。


「最悪。灯りをともす行為そのものに罠を仕込むとか、ほんと最悪」


「除去できますか」


「この量なら。でも、ノクスヴェイルの灯具に撒かれてたら……」


 その先は、誰も言わなかった。


 ニナの安眠灯。


 ロッテさんの宿灯。


 村の窓灯。


 それらにこの粉が混ざったら。


 胸が締めつけられる。


「急ぎます」


 俺は言った。


 だが、セラが首を振る。


「この祠を放置しない」


「でも」


「ここが黒くなれば、帰り道が切れる。ノクスヴェイルへ戻っても、後続も逃げ道もなくなる」


 その通りだった。


 焦りは、黒燭の餌になる。


 一つずつ。


 足元から。


 俺は深く息を吸った。


「分かりました。ここを清めます」


 ミリアが黒い粉を慎重に集め、隔離布へ移す。


 ノインが点検灯で残留を確認する。


 ポルカが白い月明かりで祠の中を照らす。


 俺は手灯へ細い光を入れた。


「【小さな灯】」


 小さな火がともる。


 黒は混ざらない。


 祠の中に、静かな光が戻る。


 それだけで、周囲の森の空気が少し軽くなった。


 手灯の下に、古い文字が浮かぶ。


『道を急ぐ者ほど、灯りを忘れるな』


 まるで、今の俺たちに向けた言葉だった。


 セラが俺を見る。


「ほら」


「……はい」


「灯りが説教してくれたわね」


「少し刺さりました」


 ミリアが小さく笑った。


「この巡灯路、性格きついね」


 ポルカが得意げに鳴く。


「ぽう」


 なぜか自分の手柄のようだった。


     ◇


 夕方が近づくにつれ、空気が変わった。


 海の匂いが薄れ、黒森に似た湿った匂いが混じり始める。


 ノクスヴェイルへ近づいている。


 まだ距離はあるはずなのに、胸が騒ぐ。


 結灯環の中で、村の灯火網がかすかに揺れていた。


 完全に切れてはいない。


 だが、いつもの温かさとは違う。


 何かが、表面を撫でている。


 黒い指先のようなものが。


「ルカ」


 セラも気づいたらしい。


「村の灯り、感じる?」


「はい。まだ生きています。でも、揺れています」


「北門は?」


 俺は意識を伸ばした。


 ノクスヴェイルの北門守護灯。


 セラとミリアとポルカと村の灯りで作った、あの守り灯。


 そこに触れようとした瞬間、ざらりとした感触が返ってきた。


 黒い粉。


 小灯汚染。


 俺は息を呑んだ。


「北門に、黒い何かが触れています」


 セラの目が鋭くなる。


「突破された?」


「まだです。でも、外側から小さな灯りを一つずつ汚そうとしている」


 ミリアが工具袋を握った。


「工房は?」


 俺は月灯工房の芯灯へ触れようとした。


 ミリアの父親の手帳。


 地下保管庫。


 月灯狐たちが休む灯り。


 そこから、弱いが確かな光が返ってくる。


「工房は生きています」


 ミリアが少し息を吐く。


「でも、急ぐ」


「はい」


 その時、前方の巡灯標がひとりでに灯った。


 俺たちは足を止める。


 灯ったのは金色ではない。


 青白くもない。


 赤黒い火だった。


 巡灯標の光が、文字を作る。


『おかえり』


 次の瞬間、周囲の森から、小さな灯りがいくつも浮かび上がった。


 家の窓灯。


 宿灯。


 安眠灯。


 工房灯。


 見覚えのある灯りばかり。


 ノクスヴェイルの灯りだ。


 だが、すべて黒い縁を帯びていた。


 それらが、こちらへ向かって囁く。


 帰ってきて。


 村は夜を思い出した。


 灯りなんていらない。


 黒い夜の方が、楽だよ。


 セラが剣を抜いた。


 ミリアが灯路針を構える。


 ポルカが低く唸る。


 俺はランタンを強く握った。


 偽物だ。


 でも、村の灯りの形をしている。


 小さな灯りそのものを狙う。


 ヴァルハインの言葉が、現実になり始めていた。


 俺は一歩前へ出た。


「ノクスヴェイルの灯りは、そんなことを言いません」


 黒い窓灯たちが揺れる。


 その奥で、遠く北の空が黒く染まっているのが見えた。


 ノクスヴェイルの方角。


 黒森の上に、夜が戻ろうとしている。


 俺たちは走り出した。


 帰る場所を、黒い夜に渡さないために。

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