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第38話 帰りたい声の霧鐘

 螺旋階段は、黒い霧の中へ伸びていた。


 下層帰港灯路の青白い光が足元を照らしている。


 その光がなければ、階段の一段先すら見失いそうだった。


 上からは、霧鐘の音が降ってくる。


 ごぉん。


 ごぉん。


 重い。


 黒聖灯の鐘とは違う。


 王都の黒聖灯は、人々の視線を奪い、考える力を鈍らせた。


 だが、この霧鐘はもっと湿っている。


 耳から入って、胸の奥に沈む。


 そして、そこにある一番弱い場所を撫でてくる。


 帰りたい。


 会いたい。


 間違えたくない。


 置いていかれたくない。


 そういう心を、霧鐘は鳴らしていた。


「上を見ないで」


 セラが先頭で言った。


 彼女の声は低く、はっきりしていた。


「音にも引っ張られる。足元と壁の潮灯だけを見る」


「はい」


 俺はランタンを胸の高さより下に構えた。


 階段の壁には、小さな潮灯が埋め込まれている。


 リーネが手入れしていたのだろう。


 黒い霧に覆われながらも、芯はまだ残っていた。


 俺は一つずつ火を入れる。


「【小さな灯】」


 ぽっ。


 青白い光がともる。


「【小さな灯】」


 もう一つ。


 光が階段の曲線に沿って続いていく。


 それは、上へ向かうための灯りであり、下へ戻るための灯りでもあった。


 ミリアが壁の潮灯を見ながら呟く。


「この灯台、ほんとに下から支える構造なんだね。上の導灯だけなら、こんな細かい潮灯いらない」


 ノインが点検板を抱えて頷いた。


「霧の日、灯台守が上層へ向かう時に使う足元灯です。記録では、霧鐘室の点検時に必ず全灯確認すること、とあります」


「リーネさん、ちゃんとやってたんだ」


「はい。だから残っています」


 ノインの声には、尊敬が混じっていた。


 会ったことのない灯台守に対して。


 でも、それは分かる。


 丁寧な仕事は、灯りに残る。


 リーネの手は、ここにある。


 階段を半分ほど上がった時、霧鐘がまた鳴った。


 ごぉん。


 その瞬間、周囲の霧が揺れた。


 霧の中に、白帆宿の食堂が見えた。


 温かいスープ。


 青白い帰り灯。


 宿の子どもがこちらを見ている。


『戻ってきて』


 小さな声がした。


 俺の足が、ほんの少し止まった。


『無理しないで。戻ってきて。宿の灯りは、ともってるよ』


 優しい声だった。


 責める声ではない。


 怖がらせる声でもない。


 だからこそ、危ない。


 帰りたくなる。


 黒い灯台へ向かうより、灯りのある宿へ戻った方がいいと思ってしまう。


 その時、セラの手が俺の肩を掴んだ。


「幻」


「……はい」


「帰る場所を見せて、進ませないつもりね」


 ミリアも顔をしかめている。


「今、月灯工房が見えた。父さんの灯りまで使ってきた。最悪」


 ノインは青ざめていた。


「僕は、王都の保管室が……」


 ポルカは俺の肩で小さく震え、耳を伏せていた。


「ぽう……」


「ポルカにも何か見えましたか」


「ぽう」


 たぶん、ノクスヴェイルの月灯狐たちかもしれない。


 俺は壁の潮灯へ手を当てた。


 帰る場所は大事だ。


 でも、帰るためには進まなければならない時がある。


 白帆宿の帰り灯は、俺たちを引き止める灯りではない。


 戻る場所として、背中を押してくれる灯りだ。


「この声は、本物の灯りではありません」


 俺は言った。


「帰りたい心を、黒燭が真似ているだけです」


 セラが頷いた。


「本物の帰る場所は、進むことを止めない」


「はい」


 俺はランタンを低く掲げた。


「足元を辿りましょう」


 潮灯が青白く揺れ、階段の続きを示した。


     ◇


 中層の霧鐘室は、灯台の腹のような場所だった。


 円形の広間。


 中央に大きな鐘が吊るされている。


 普通の金属鐘ではない。


 表面に潮硝子と真鍮の線が組み込まれ、霧の中でも音と光を同時に届ける構造になっていた。


 本来なら、濃霧の日に船へ危険を知らせるための鐘だろう。


 鳴れば、海上の船が岩礁や浅瀬を避ける。


 霧で灯りが見えにくい時、音で道を守る。


 そのための霧鐘。


 だが今、その鐘は黒い蝋で覆われていた。


 鐘の内側から黒い霧があふれ、表面には人の顔のような影がいくつも浮かんでいる。


 誰かを待つ顔。


 帰りを願う顔。


 海から戻れなかった顔。


 そのすべてが、霧鐘の表面で苦しそうに揺れていた。


「……悪趣味」


 ミリアが低く言った。


「鐘に記憶を食わせてる」


 ノインが点検灯を向ける。


「霧鐘の音波灯路が黒化しています。本来は警告音を海へ送る仕組みですが、今は帰港願望を増幅して、黒い導灯へ視線を誘導しているようです」


「つまり、この鐘が鳴るたびに、船が黒い灯台を港だと思う」


「はい」


 セラが周囲を見渡す。


「見張りは?」


 その問いに答えるように、霧鐘の影から何かが立ち上がった。


 人影。


 一人ではない。


 船乗りの姿。


 灯台守の姿。


 宿の女将の姿。


 王都の灯番の姿。


 そして、ノクスヴェイルの村人の姿。


 全部、霧で作られた幻だ。


 けれど顔は妙に本物に近い。


 俺の前に、ニナの姿が現れた。


 小さな安眠灯を抱え、不安そうにこちらを見ている。


『ルカお兄ちゃん、帰ってきて』


 胸が痛んだ。


 偽物だと分かっている。


 それでも、ニナの声で言われると足が止まる。


『夜が怖いの。灯りが消えそうなの。帰ってきて』


「……卑怯ですね」


 俺は呟いた。


 隣でミリアも唇を噛んでいた。


 彼女の前には、父親らしき職人の影がいる。


『ミリア、工房へ戻れ。お前にはまだ早い』


「父さんは、そんな言い方しない」


 ミリアの声が震えた。


 けれど、目は逸らさなかった。


「父さんなら、灯具を見ろって言う」


 彼女は工具を握り直す。


「だから、あんたは偽物」


 セラの前には、ノクスヴェイルの村人たちの影が現れていた。


 村へ戻ってくれ。


 北門が危ない。


 あなたがいないと不安だ。


 そんな声が重なる。


 セラは静かに息を吐いた。


「村の人たちは、私を縛るために灯りをともしたんじゃない」


 短剣を構える。


「守った灯りは、次へ進むためのものよ」


 ノインの前には、グレゴールの影が立っていた。


『下級補佐風情が、何を成したつもりだ』


 ノインの肩が震える。


『お前は記録係だ。命令を聞いていればいい。判断するな。灯りを見るな』


 ノインは点検灯を握りしめた。


 顔は青い。


 でも、一歩下がらなかった。


「僕は記録します」


 彼は言った。


「見たものを、見たままに」


 点検灯の光が強まった。


「そして、今は判断します。この霧鐘は間違っています」


 霧のグレゴールが歪む。


 ポルカが肩から飛び降り、霧の幻たちへ向かって鳴いた。


「ぽう!」


 白い月明かりが広がる。


 幻たちの輪郭が揺らいだ。


 完全には消えない。


 だが、偽物だと分かる程度には薄くなる。


「今です!」


 俺はランタンを掲げた。


 中層霧鐘室の床にも、潮灯紋がある。


 下層ほど大きくはない。


 だが、霧鐘の周囲を囲むように小さな灯路が刻まれていた。


 警告を正しく鳴らすための灯路。


 帰りたい心を偽港へ向けるのではなく、危険を避けるために鳴る灯り。


 俺はそこへ光を落とした。


「【小さな灯】」


 床の潮灯紋が青白くともる。


 霧鐘の黒い蝋が反応し、鐘が激しく鳴った。


 ごぉぉん。


 今までより近い。


 頭の中へ直接響く。


 霧鐘の表面に浮かんだ顔が、一斉に叫んだ。


 帰りたい。


 帰れない。


 港はどこだ。


 灯りを見せて。


 迎えに来て。


 その声は、黒燭が作った偽物だけではなかった。


 本当に海で迷った人々の記憶も混じっている。


 帰れなかった人の願い。


 待っていた人の祈り。


 それを黒燭は霧鐘へ食わせ、今も船を惑わす餌にしている。


「ルカ、鐘の内側!」


 ミリアが叫ぶ。


「黒蝋の芯がある! でも外から叩いたら記憶ごと割れる!」


「ほどくんですね」


「そう! 乱暴に壊したら駄目!」


 俺は頷いた。


 黒聖灯の時と同じだ。


 閉じ込められた灯りを、黒ごと焼き払うのではない。


 戻せるものを戻す。


 記憶を、元の場所へ返す。


 俺は霧鐘へ一歩近づいた。


 黒い霧がまとわりつく。


 ニナの声がまた聞こえた。


『帰ってきて』


 今度は、俺は揺れなかった。


「帰ります」


 俺は答えた。


「だから、今は進みます」


 ランタンの光を細く、霧鐘の内側へ入れる。


 冷たい。


 深い。


 鐘の中には、海の夜が詰まっていた。


 沈む船。


 見えない港。


 鳴らない鐘。


 消えた灯り。


 その記憶の中に、青白い小さな火がいくつも埋もれている。


 霧鐘本来の警告灯だ。


「見つけました」


「よし!」


 ミリアが霧鐘の下部へ灯路針を入れる。


 ノインが点検灯で黒蝋の流れを読む。


「黒芯は鐘の吊り軸に絡んでいます! 霧鐘を鳴らすたび、上層導灯へ音波灯路を送っています!」


「吊り軸を戻せばいい?」


「はい。ただし黒芯が抵抗します!」


「抵抗させなきゃいいんでしょ!」


 ミリアの灯路針が、黒い吊り軸へ触れる。


 黒蝋が赤黒く燃え上がった。


 霧の幻たちが一斉に襲いかかる。


 セラが前に出る。


「ここは任せて」


 短剣で幻を斬ることはできない。


 だが、彼女は幻が持つ黒燭だけを正確に打ち落とした。


 黒燭を失った幻は、形を保てず霧に戻る。


 ポルカが白い光で霧を薄める。


 ノインが黒糸を読み上げる。


「右、二本! 床灯路へ!」


「ポルカ!」


「ぽう!」


「上から黒い霧、来ます!」


「セラさん!」


「見えてる!」


 皆が動いている。


 俺は霧鐘の内側へ光を通し続ける。


 鐘の中の記憶に触れる。


 帰れなかった船乗りたち。


 待ち続けた家族。


 灯台の鐘を信じた人々。


 その願いを、黒い導灯の餌ではなく、本来の祈りへ戻す。


「あなたたちは、船を迷わせたかったわけではない」


 俺は霧鐘へ言った。


「帰ってほしかったんですよね」


 霧鐘の表面に浮かぶ顔が、一瞬だけ静かになった。


 泣いているように見えた。


「なら、鳴り方を戻しましょう」


 俺はランタンの火を細く伸ばす。


「危険を知らせる鐘へ」


 金色の光が、青白い警告灯と重なる。


 ミリアが叫んだ。


「吊り軸、戻す!」


 灯路針が回る。


 黒い芯が裂ける。


 霧鐘が大きく揺れた。


 ごぉぉん。


 けれど、今度の音は違った。


 胸を沈める音ではない。


 海へ警告を送る、澄んだ低音。


 黒い導灯へ誘う音ではなく、岩礁を避けろと告げる音。


 霧鐘の表面から黒い蝋が剥がれ落ちる。


 浮かんでいた顔たちが、苦しそうな表情から、少しずつ穏やかになっていく。


 消えるのではない。


 鐘の中で、記憶として眠り直すように薄れていく。


 ノインが息を呑んだ。


「音波灯路、正常化しています! 上層導灯への黒い増幅が止まりました!」


 ミリアが床に手をつきながら笑う。


「二段目、取り返した……!」


     ◇


 霧鐘の音が変わると、灯台の外にも変化が起きた。


 中層の窓から、青白い霧避けの光が広がる。


 海へ向かって、低く澄んだ鐘の音が届いた。


 カン、と遠くで船の鐘が返る。


 また一つ。


 さらに一つ。


 霧の中で迷っていた船が、黒い導灯ではなく、霧鐘の警告を聞き始めたのだ。


「船が岩礁から離れています!」


 ノインが点検板を見ながら叫んだ。


「中層警戒灯路、機能回復!」


 セラが短く息を吐いた。


「よし」


 ポルカは疲れたのか、俺の足元で座り込んだ。


「ぽう……」


「ありがとうございます、ポルカ」


「ぽう」


 まだ頑張れる、と言っているようだった。


 俺は霧鐘を見上げた。


 黒蝋はかなり剥がれたが、完全ではない。


 上層から流れ込む黒い光が、まだ鐘の上部に絡んでいる。


 だが、もう黒い導灯を増幅することはできない。


 これで船が一方的に岩礁へ誘われる危険は少し減った。


 残るは最上層。


 海上導灯。


 灯台の本芯。


 そして、灯室に閉じ込められたリーネ。


 その時、霧鐘の奥から声が聞こえた。


『……聞こえた』


 リーネの声だ。


 先ほどより、少しはっきりしている。


『霧鐘が、戻った……ありがとう』


「リーネさん!」


 俺は灯路柱に近づいた。


「次は最上層へ行きます。灯室の鍵は小屋で見つけました」


『気をつけて……ヴァルハインは、導灯の本芯に黒い月灯を入れようとしている』


 黒い月灯。


 月守狐から奪った光の残滓だ。


 王都の黒聖灯にも使われたもの。


『満潮で海霧が最も濃くなる時、本芯が完全に黒くなる。そうなれば、灯台の光は海路全体へ広がる……』


「あとどれくらいですか」


『鐘が三度、長く鳴るまで……』


 その瞬間、上層から低い音が響いた。


 ごぉぉん。


 霧鐘ではない。


 黒い導灯の鼓動。


 一度目。


 リーネの声が震えた。


『急いで。あと二度で、満潮の黒灯化が始まる』


 ミリアが工具袋を担ぎ直した。


「休む暇、ないね」


 セラが階段を見る。


「上へ行く」


 ノインが点検灯を握りしめる。


「上層海上導灯室まで、あと一層です」


 ポルカがふらつきながらも、俺の肩へ飛び乗った。


「ぽう」


 俺はランタンを掲げた。


 下層の帰港灯路。


 中層の霧鐘。


 二つは戻した。


 あとは、最上層の黒い導灯を取り戻すだけだ。


 上を見れば引き込まれる。


 でも、進まなければならない。


 足元の潮灯を一つずつともして。


 リーネが待つ灯室へ。


 俺たちは、最後の螺旋階段を上り始めた。

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