第37話 黒潮灯台の下層
鉄扉の向こうで、黒い灯台が鳴った。
ごぉん。
ごぉん。
音は扉越しでも重く、胸の奥を直接揺らしてくる。
そのたびに、足元の潮灯が青白く震えた。
けれど、消えない。
リーネが残した潮灯。
白帆宿の帰り灯。
潮見坂の灯柱。
その光が細い線となって、ここまで届いている。
扉の向こうから、灯台長代理サルヴァの声が響いた。
「北方灯台は、今夜から黒潮灯台となる。海に帰る船はすべて、我らの黒い港へ導かれる」
黒い港。
その言葉を聞いた瞬間、背筋が冷えた。
港は、帰る場所だ。
海へ出た人が戻る場所。
待つ人の灯りがともる場所。
その言葉を黒く塗りつぶすような響きだった。
セラが短剣を構えたまま、低く言う。
「ルカ」
「はい」
「扉を開けた瞬間、何が出ても上を見ない」
「足元ですね」
「そう」
ミリアは灯路針を黒蝋の扉へ当てる。
「上を見たら、黒い導灯に引っ張られる。まず下層帰港灯路を確認する」
ノインも点検灯を掲げた。
「灯台下層には、船に港の位置を返す帰港灯路があります。本来は最上層の導灯と連動しますが、独立補助灯としても機能するはずです」
「なら、そこを起こします」
俺はランタンを扉へ向けた。
黒蝋が厚い。
だが、王都の黒聖灯ほどではない。
それに、こちらには海沿いの灯りがある。
潮に耐える灯り。
霧の中でも残る灯り。
帰り道を示す灯り。
「【小さな灯】」
金色の光を、ミリアの灯路針へ細く流す。
針先が黒蝋の中へ入る。
じゅ、と嫌な音。
黒い煙が上がりかけた瞬間、ポルカが白い尻尾を振った。
「ぽう!」
煙が押さえ込まれる。
ノインの点検灯が、扉の紋章を青白く照らす。
波と灯りの紋章。
黒蝋に覆われていたそれが、少しずつ姿を現す。
ミリアが歯を食いしばる。
「固いけど、いける……! 灯台側の封印が雑。急いで黒化させたせいで、下層までは完全に馴染んでない!」
「開けます」
「うん!」
俺はさらに光を絞った。
扉そのものを壊すのではない。
黒蝋だけをほどく。
リーネが守った道を傷つけないように。
潮灯が一斉に揺れた。
かちり。
鉄扉の内側で錠が外れる。
セラが扉に手をかけた。
「入るわよ」
重い扉が開いた。
◇
灯台の下層は、巨大な円形の空間だった。
中央には太い灯路柱が立っている。
最上層へ向かって伸びる、灯台の背骨のような柱。
本来なら、下層、中層、上層の灯りをつなぎ、海へ正しい光を届けるためのものだろう。
だが今、その灯路柱の上部から黒い液体のような光が流れ落ちていた。
壁には歯車と反射板。
床には潮灯の灯路紋。
海側へ向かう低い窓には、分厚い潮硝子が並んでいる。
どれも黒い煤に覆われ、苦しそうに沈黙していた。
そして、その中央に男が立っていた。
灰色の灯台管理服。
潮風で傷んだ外套。
だが、その胸には黒燭商会の黒い徽章がついている。
痩せた頬に、ぎらついた目。
灯台長代理サルヴァ・グリム。
彼は黒い灯具杖を手に、こちらを見て笑った。
「本当に来たか。王都の反灯者ども」
ノインが一歩前に出る。
「サルヴァ代理。北方灯台の黒化は、王都灯務規定に反しています。直ちに灯台芯を停止し、灯台守リーネを解放してください」
サルヴァは鼻で笑った。
「王都灯務規定? 昨日まで黒聖灯に呑まれていた王都が、今さら規定を語るのか」
「黒聖灯は停止しました」
「一時的にな」
サルヴァの目が、俺へ向いた。
「ヴァルハイン様はお前を警戒していた。小さな灯りを結ぶ厄介な灯火師だとな。だが、ここは王都ではない。海だ」
彼が灯具杖を床へ突いた。
黒い波紋が広がる。
壁の潮硝子が一斉に黒く曇った。
「海では、人は足元など見ない。遠くの灯りを見る。帰る港を探す。だからこそ、灯台を黒くすれば、船は自分からこちらへ来る」
「それは導きではありません」
俺は言った。
「罠です」
「罠で何が悪い」
サルヴァは笑った。
「海は昔からそうだ。灯りを見誤った者は沈む。弱い船、愚かな舵取り、古い灯具にすがる港。すべて海に飲まれればいい」
セラの目が冷たくなる。
「あなたは灯台長代理でしょう。船を守る立場のはず」
「守って何になる」
サルヴァは吐き捨てる。
「灯台守の家系でもない私が、こんな潮臭い塔へ飛ばされ、地元の小娘に実務を握られ、王都からは予算も人も送られない。誰も北方灯台など見ていなかった」
リーネのことだ。
若い灯台守。
父親の跡を継ぎ、この灯台を守っていた人。
サルヴァはそれを妬んでいたのだろう。
「黒燭商会は違った」
彼は黒い徽章を撫でた。
「この灯台には価値があると言った。海路を支配できると。私を新たな黒潮灯台の管理者にすると」
ミリアが低く言った。
「またそれか」
「何?」
「灯りを見ないで、立場ばっか見てるやつ」
サルヴァの顔が歪む。
「獣人の職人風情が」
「はいはい、出た。そういうやつね」
ミリアは工具袋を下ろし、帰港灯路の床紋を睨んだ。
「ルカ、相手してる時間ない。下層灯路、まだ生きてる」
「分かります」
俺も足元を見た。
青白い潮灯紋が、黒い煤の下でかすかに震えている。
上から黒い光が流れているが、下層そのものは完全に死んでいない。
リーネが手入れしていたのだろう。
この灯台はまだ、帰る船を守る役目を忘れていない。
「セラさん」
「サルヴァは止める」
「お願いします」
セラが動いた。
サルヴァが灯具杖を振る。
黒い海霧が刃のように伸びる。
セラは低く身を沈め、湿った床を滑るようにかわした。
短剣の柄で杖を狙う。
サルヴァは後退し、灯路柱の影へ逃げる。
「塔の中では、こちらが地の利を持つ!」
壁の潮硝子から黒い霧が噴き出す。
霧の中に、偽の港灯がいくつも浮かんだ。
港だ。
安全だ。
こちらへ。
こちらへ。
声が頭の中に響く。
ノインがふらついた。
「港が……」
「見ないで!」
ミリアが叫ぶ。
「足元!」
俺はランタンを床へ向けた。
「【小さな灯】」
金色の光を床紋へ流す。
潮灯紋が浮かぶ。
青白い線。
本物の帰港灯路。
それを見たノインが、はっと息を吸った。
「すみません……!」
「謝るより記録!」
ミリアが工具を走らせながら言う。
「黒い霧がどこから来てる?」
「上層灯路柱から下層反射板へ逆流しています! 下層帰港灯路を黒導灯の補助に使おうとしている!」
「つまり、下層を戻せば黒い導灯が弱まる!」
「はい!」
ミリアが笑った。
「なら決まり!」
◇
下層帰港灯路の復旧は、潮見坂の灯柱よりずっと複雑だった。
床に刻まれた潮灯紋は、円形に広がっている。
その一つ一つが、壁の反射板、低窓の潮硝子、中央灯路柱へつながっている。
本来なら、灯台下層全体が一つの大きな帰り灯として機能するのだろう。
港の位置を海へ返すための灯り。
船に、そこは岩礁ではない、ここが帰る道だ、と知らせる灯り。
だが今は、黒い導灯によって逆向きに使われている。
帰港灯路が偽港の増幅器にされているのだ。
「最悪」
ミリアが言った。
「いい灯具を悪用されるの、ほんと腹立つ」
「戻しましょう」
「うん」
俺は床紋の中心にランタンを置いた。
白帆宿の帰り灯。
潮見坂の灯柱。
リーネの潮灯。
その三つを思い浮かべる。
帰る場所。
道を誤らせない灯り。
足元を辿る灯り。
それらを小さなまま、下層帰港灯路へ結ぶ。
「【小さな灯】」
金色の光が青白い潮灯紋へ入った。
床に円が浮かぶ。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
だが、四つ目で黒い霧が噴き出した。
灯路柱の上部から黒い糸が伸び、俺の光を絡め取ろうとする。
ポルカが飛び出した。
「ぽう!」
白い月明かりが黒糸を押さえる。
しかし、海霧の湿気が白い光を鈍らせる。
ポルカの足元が滑った。
「ポルカ!」
俺が手を伸ばす前に、ノインが点検灯を差し出した。
青白い点検灯の光が、ポルカの足元を支える。
「こちらです!」
「ぽう!」
ポルカが体勢を立て直し、尻尾を振る。
黒糸が一瞬緩んだ。
ミリアがそこへ灯路針を差し込む。
「ルカ、今!」
「はい!」
光を通す。
黒糸がほどけ、四つ目の潮灯紋が青白くともる。
続いて五つ目。
六つ目。
下層の帰港灯路が、少しずつ目を覚ましていく。
壁の潮硝子に色が戻る。
低窓の向こう、黒い海霧の中に青白い筋が走った。
外の海へ、下層の本当の灯りが漏れ始めたのだ。
サルヴァが叫ぶ。
「やめろ! 下層を戻すな!」
彼が灯具杖を振り上げる。
黒い霧が巨大な腕のように伸び、床紋を叩き潰そうとした。
セラがその前に飛び込む。
短剣で黒い腕を斬ることはできない。
だが、彼女は黒い腕の根元にある灯具杖の軌道を狙った。
踏み込み。
回転。
柄打ち。
サルヴァの手首が弾かれる。
黒い腕が逸れ、床ではなく壁を叩いた。
潮硝子が一枚割れかける。
ミリアが悲鳴に近い声を上げた。
「割るな! 貴重!」
「私に言わないで!」
セラが叫び返す。
こんな状況でも、少しだけ笑いそうになった。
だが、サルヴァは笑っていなかった。
彼の目は血走り、黒い徽章が赤黒く光っている。
「私は……私はこの灯台の管理者だ。リーネのような現場の小娘ではない。王都から任命された管理者だ!」
「管理者なら、灯台を守るべきです」
俺が言うと、彼は歯をむき出しにした。
「守っていたさ! だが誰も私を見なかった! 灯台守リーネ、リーネ、リーネ! 船乗りも漁師も宿場も、皆あの小娘の灯りばかり信じた!」
「それは、リーネさんが灯りを見ていたからです」
「黙れ!」
サルヴァが黒い霧を広げる。
霧の中に、灯台守の姿が浮かんだ。
若い女性。
潮風で短い髪が揺れ、手には潮灯。
おそらくリーネの幻だ。
その幻が、サルヴァを見て静かに言う。
『代理。上の光ではなく、下の帰港灯路を見てください』
「うるさい!」
サルヴァは幻へ灯具杖を振るった。
幻が黒い霧へ散る。
セラがその隙を逃さず、彼の懐へ入った。
「あなたが見ていなかっただけ」
短剣の柄が、サルヴァの腹を打つ。
彼は息を詰まらせ、膝をついた。
だが、黒い徽章が割れ、中から黒蝋の糸が彼の体へ絡みついた。
サルヴァの目が赤黒く染まる。
「まだ……終わらん。黒潮灯台は、私を選んだ……!」
彼の体から黒い霧が噴き出し、灯路柱へ流れ込もうとする。
ノインが叫んだ。
「まずい! 自分を黒導灯の補助芯にするつもりです!」
「そんなことしたら?」
ミリアが聞く。
「下層帰港灯路ごと黒くなります!」
「最悪!」
俺はランタンを握った。
下層帰港灯路は、もう半分以上戻っている。
ここでサルヴァを補助芯にされれば、せっかく起こした灯りが全部飲まれる。
でも、彼をただ力で止めれば、黒蝋が弾けて灯路へ広がる。
なら、黒蝋だけをほどく。
サルヴァがまだ完全に飲まれていないうちに。
「セラさん、少しだけ押さえてください!」
「了解!」
セラがサルヴァの腕を押さえる。
黒い霧が彼女の手に絡む。
顔をしかめるが、離さない。
ミリアが灯路針を構えた。
「ルカ、徽章の根元!」
「はい!」
ポルカが白い光で黒霧を押さえる。
ノインが点検灯で黒蝋の流れを示す。
俺はサルヴァの胸元、割れた黒い徽章へ光を細く入れた。
「【小さな灯】」
黒蝋が暴れる。
サルヴァが叫ぶ。
「やめろ! 私から灯台を奪うな!」
「灯台は、あなたのものではありません」
俺は言った。
「船を帰すための灯りです」
光が黒蝋の根元へ届く。
ミリアの灯路針が黒い徽章を弾いた。
ぱきん。
徽章が割れる。
黒い霧がサルヴァの体から剥がれ、床へ落ちた。
俺はすぐに光で囲み、黒蝋を隔離する。
サルヴァはその場に崩れ落ちた。
意識はある。
だが、黒い補助芯になることは防げた。
セラが彼を縛る。
「動かないで」
サルヴァは肩で息をしながら、まだ灯路柱を見上げていた。
「私の……灯台が……」
「違います」
セラは冷たく言った。
「海の灯台よ」
◇
サルヴァを止めたことで、下層帰港灯路の黒い逆流が弱まった。
俺たちは残りの潮灯紋へ火を入れる。
七つ目。
八つ目。
九つ目。
床の円形灯路が青白くともる。
中央灯路柱の下部に、金色と青白い光が絡み合った。
上から落ちてくる黒い光を、下から押し返す。
すると、灯台の外で変化が起きた。
低窓から青白い光が海へ漏れる。
霧の中に、本物の帰港線が一本走った。
遠くで船の鐘が鳴る。
今度は黒い灯台の音ではない。
船からの返答だ。
カン、カン、と短い金属音。
「船が反応しています!」
ノインが叫ぶ。
「下層帰港灯路が届いています!」
ミリアが床に座り込みそうになりながら笑った。
「よし……一段目、取り返した」
ポルカも疲れた様子で、ぽう、と鳴く。
俺は灯路柱を見上げた。
上層では、まだ黒い導灯が回っている。
最上層の灯室には、リーネが閉じ込められているはずだ。
そしておそらく、ヴァルハインもそこにいる。
だが、下層は戻った。
船を本当の港へ返すための灯りが、もう一度ともった。
灯台は完全には黒く染まっていない。
足元から、取り戻せる。
その時、灯路柱の中から、かすかな女性の声が聞こえた。
『……誰か、下層を起こしたの?』
ノインが息を呑む。
「この声……」
ミリアが顔を上げる。
「リーネさん?」
声は弱く、途切れ途切れだった。
『聞こえるなら……上を見ないで。中層の霧鐘を止めて。あれが黒い導灯を海へ広げている……』
「リーネさん、生きています!」
ノインが叫んだ。
俺は灯路柱に手を当てる。
「聞こえます。俺たちは白帆宿から来ました。リーネさんの潮灯を辿って、下層を戻しました」
しばらく沈黙。
そして、かすかな笑い声のようなものが返ってきた。
『よかった……潮灯、残しておいて……』
「必ず助けます」
『中層に……気をつけて。霧鐘は、人の帰りたい声を鳴らす。聞きすぎると、足が上へ向く……』
声が途切れた。
上層から黒い灯台の音が響く。
ごぉん。
ごぉん。
その音の奥に、今度はたくさんの声が混じっていた。
帰ってこい。
港は上だ。
灯りは上だ。
見上げろ。
俺たちは顔を見合わせた。
次は中層。
黒い霧鐘を止めなければならない。
セラが縛ったサルヴァを柱へ固定し、短く言う。
「行くわよ」
ミリアが工具袋を担ぎ直す。
「霧鐘って、嫌な予感しかしない」
ノインが点検灯を握る。
「記録では、中層は沿岸警戒灯路と霧鐘室です」
ポルカが肩へ戻り、少し震えながらも鳴いた。
「ぽう」
俺はランタンを掲げた。
下層帰港灯路の青白い光が、足元から俺たちを照らしている。
帰る道はできた。
次は、迷わせる音を止める。
俺たちは灯路柱の螺旋階段へ向かった。




