第19話 眠る白銀の狐
助け出した子どもたちは、あかり宿の食堂でようやく眠った。
ミナ、トト、エリ。
そして、リオ。
四人とも毛布にくるまれ、ロッテさんが作った温かい麦粥を少しずつ食べたあと、椅子を並べた即席の寝台に横になった。
最初は眠ることを怖がっていた。
目を閉じると、また黒い火の夢を見るのではないか。
黒い人たちに連れ戻されるのではないか。
そんな不安が、子どもたちの顔にはっきり浮かんでいた。
だから俺は、ニナの安眠灯を食堂の中央に置いた。
もちろん、ニナ本人の許可は得ている。
「みんなで使っていいよ」
彼女は少し誇らしげにそう言った。
「でも、あとでちゃんと返してね。わたしの灯りだから」
「はい。必ず」
俺が答えると、ニナは満足そうに頷いた。
安眠灯の柔らかい光が、食堂の床に広がる。
ロッテさんの食堂灯と混ざり合い、部屋全体が温かい琥珀色に包まれた。
黒燭の火とはまるで違う。
誰かを眠らせるための灯り。
怖い夜を少しだけ遠ざける灯り。
子どもたちの呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
最初に眠ったのはトトだった。
抱えていた月灯狐の子を離そうとしなかったため、ミリアが小さな布を丸めて狐用の寝床を隣に作ってやると、ようやく安心したように目を閉じた。
ミナはロッテさんの手を握ったまま眠った。
エリはニナに髪を撫でられながら、泣き疲れたように寝息を立てた。
リオだけは、最後まで起きていた。
自分の古いランプを抱え、食堂灯をじっと見つめている。
「眠れませんか」
俺が声をかけると、彼は小さく首を振った。
「眠い。でも、見てたい」
「灯りを?」
「うん」
リオは目をこすりながら、宿の食堂を見回した。
「黒い人たちの小屋にも灯りはあった。でも、あれは見てると寒くなる。ここは……あったかい」
ロッテさんが少し離れた場所で、そっと目を伏せた。
宿屋として、これ以上の言葉はないのかもしれない。
「ここは、あかり宿ですから」
俺が言うと、リオは不思議そうに俺を見た。
「あかり宿?」
「まだ正式な名前ではありません。でも、俺はそう呼んでいます」
「いい名前」
リオは小さく笑った。
「ここなら、黒い夢、来ない気がする」
「来させません」
俺は安眠灯に少しだけ光を足した。
リオはしばらくそれを見ていたが、やがてランプを抱いたまま眠りに落ちた。
その瞬間、彼のランプがふわりと淡く光った。
まるで、持ち主がようやく安心したことを喜んでいるようだった。
◇
月灯狐たちは、月灯工房へ運ばれた。
五匹とも衰弱していた。
毛を刈られ、黒蝋の粉が絡み、尻尾の光も弱っている。
だが、生きている。
それだけで十分だった。
ミリアは怒りを押し殺しながら、一匹ずつ丁寧に毛を拭いた。
「痛かったよね」
彼女は小さく呟いた。
「ごめん。もっと早く見つけられなくて」
「ミリアのせいではありません」
「分かってる。でも、悔しい」
彼女の手は震えていた。
工具を握る時の強い手ではない。
小さな命を壊さないように、恐る恐る触れる手だった。
ポルカは工房の中央に座り、月灯狐たちを見守っている。
いつもの得意げな顔ではなかった。
尻尾を体に巻きつけ、じっと仲間たちを見ている。
「ぽう……」
その声に、五匹の月灯狐が弱く応えた。
ぽう。
ぽう。
ぽう。
工房の中に、小さな光の返事がいくつもともる。
俺は月灯狐たちの周囲に、安定用の小灯を置いた。
ミリアが作った試作灯。
ロッテさんの宿から分けてもらった柔らかい火種。
ガルム爺の手灯から移した帰り灯。
それらを、月灯狐たちの寝床の周りに並べる。
「【小さな灯】」
光を入れる。
強くしない。
傷ついた毛の奥に入り込んだ黒蝋を、少しずつほどく。
月灯狐たちの呼吸が穏やかになっていく。
ミリアはその様子を記録しながら、何度も唇を噛んだ。
「黒燭に使われた毛は、たぶん無理やり刈られたものだね。自然に抜けた毛と違って、光が荒れてる」
「月送りの灯に使った毛束は?」
「あれは違う。父さんが残してた毛は、傷んでなかった。たぶん、月灯狐が自分から分けたもの」
「自分から?」
「伝承では、月灯狐は気に入った灯りに毛を残すんだって。恩返しとか、道案内とか、そういう意味で」
ミリアはポルカを見る。
「黒燭商会は、それを奪って使ってる」
静かな怒りが、工房の灯りを少しだけ強く揺らした。
俺も同じ気持ちだった。
灯りは、誰かから奪って作るものではない。
ましてや、命あるものを傷つけてまで作るものではない。
「リオが言っていた大きな月灯狐について、何か知っていますか」
俺が尋ねると、ミリアはしばらく黙った。
そして、地下保管庫から持ち出した父親の手帳を開いた。
「もしかすると、これかもしれない」
彼女が開いたページには、白銀の狐の絵が描かれていた。
普通の月灯狐よりずっと大きい。
背丈は馬ほどもあり、尾は三本。
その尾の先に、それぞれ月のような光がともっている。
絵の横には、ミリアの父の字でこう書かれていた。
『月守狐。
黒森とノクスヴェイルの灯路をつなぐ古き守り手。
村の灯火網が生きていた時代、月守狐は森の闇を眠らせ、月灯狐たちは道しるべとなった。
月守狐が眠れば、黒森は夜霧を吐く。
月守狐が傷つけば、灯路は黒く濁る』
俺は息を呑んだ。
「月守狐……」
「父さんは伝説だと思ってたみたい。でも、黒燭商会が本当に捕まえているなら」
「黒森の夜霧が濃くなった原因の一つかもしれません」
セラが工房の入口に立っていた。
いつの間にか来ていたらしい。
彼女の顔には疲労が濃い。
だが、その目は眠っていなかった。
「子どもたちは?」
ミリアが聞く。
「眠ったわ。ロッテさんとニナが見てくれている。村人たちも交代で宿の周りを守っている」
「村全体が動いてるね」
「ええ」
セラは手帳を覗き込み、月守狐の絵を見た。
「父から聞いたことがある。昔、黒森には白い大狐がいたって。夜霧が出る前、村の子どもたちは森の浅いところまで木の実を拾いに行けた。迷いそうになると、白い狐が月明かりの道を見せてくれたそうよ」
「今はその月守狐が眠らされている」
「おそらく」
セラの声が硬くなる。
「黒燭商会がその毛を使って、大聖灯を黒燭に変えようとしているなら、王都も危ない。でも、その前に月守狐を助けないと」
「はい」
助けるべきものが増えていく。
子どもたち。
月灯狐たち。
ノクスヴェイルの灯り。
そして、月守狐。
さらにその先には王都の大聖灯。
どれも、俺一人で抱えられるものではない。
でも、今は一人ではない。
セラがいる。
ミリアがいる。
ロッテさんがいる。
ニナがいる。
ガルム爺がいる。
ポルカがいる。
村の灯りがある。
そう思った時、工房の地下から、淡い光が伸びた。
地下保管庫の芯灯だ。
その光が、手帳の月守狐の絵に触れる。
すると、ページに描かれた白銀の狐の尾が、ふわりと輝いた。
「えっ」
ミリアが身を乗り出す。
「父さんの手帳、光った?」
ポルカがぴんと耳を立てた。
「ぽう」
五匹の月灯狐たちも、弱いながら顔を上げる。
手帳のページから、細い光の線が浮かび上がった。
それは地図だった。
黒森の奥。
隠し小屋のさらに先。
古い石の環。
そして、その中心に描かれた白銀の狐。
『月守の眠り場』
そう書かれている。
ミリアの父は、そこまで調べていたのだ。
そして、おそらくそこへ向かった。
帰ってこなかった理由も、そこにある。
ミリアは手帳を握りしめた。
「父さん……」
その声は震えていた。
けれど、目は逸らさない。
「父さんは、月守狐を助けようとしてたんだ」
「その可能性は高いです」
「じゃあ、あたしが続きをやる」
ミリアは顔を上げた。
「月灯工房の仕事として。父さんの娘として」
セラが静かに頷いた。
「私も行く。村長代理として、黒森の奥を放っておけない」
「もちろん、俺も」
俺が言うと、ポルカが足元で鳴いた。
「ぽう!」
「ポルカもですね」
「ぽう!」
返事は力強かった。
ただし、五匹の月灯狐はまだ動けない。
子どもたちも休ませる必要がある。
無理に今すぐ出れば、また同じ失敗をする。
「今夜は休みましょう」
俺は言った。
ミリアが驚いたように俺を見る。
「ルカがそれ言う?」
「俺も少しは学びました」
「えらい」
「なぜ上からなんですか」
セラが小さく笑った。
「でも正しいわ。今は救出した子どもと月灯狐たちを守る。明日の朝、村全体で準備をして、月守の眠り場へ向かう」
「黒燭商会は?」
「ヴァルハインが黙っているとは思えない。バルドも、王都へ報告する前に何か仕掛けてくるかもしれない」
「なら、村の防衛も必要ですね」
「ええ。北門、宿、井戸、工房。灯りの連結を強める」
やることは山ほどある。
だが、道は見えた。
黒森の奥へ進むための道。
王都の大聖灯へ迫る黒い影を止めるための道。
そして、ミリアの父が残した未完の仕事へ続く道。
◇
その夜、俺は少しだけ眠ることにした。
ニナに「寝なきゃだめ」と言われたこともある。
セラにも、ロッテさんにも、ミリアにも同じ目で見られた。
逆らえるはずがなかった。
あかり宿の食堂の隅に椅子を並べ、外套をかけて横になる。
ポルカは当然のように俺の腹の上で丸くなった。
「重くはないですが、寝返りが打てません」
「ぽう」
知らない、という声だった。
俺は苦笑し、目を閉じた。
食堂灯の温かい光。
安眠灯の柔らかい光。
子どもたちの寝息。
ロッテさんが台所で静かに動く音。
外で村人たちが交代する足音。
それらに包まれて、意識がゆっくり沈んでいく。
そして、夢を見た。
黒森だった。
だが、現実の黒森とは少し違う。
夜霧はある。
黒い木々もある。
けれど、足元には古い灯路が白く光っている。
その道の先に、巨大な白銀の狐が眠っていた。
三本の尾。
月のような光。
体には黒い鎖が巻きつき、鎖の先には黒燭が何本も突き立てられている。
狐の周囲には、無数の小さな月灯狐の光が消えかけていた。
俺は夢の中で、ランタンを掲げる。
「あなたが、月守狐ですか」
白銀の狐は目を開けなかった。
だが、声が聞こえた。
言葉ではない。
灯りが震えるような声。
『小さな灯の子』
胸の奥に響いた。
『王都の大灯は、すでに黒を孕む』
大聖灯のことだ。
あの黒い染み。
俺が追放される日に見た、針の先ほどの濁り。
『黒燭は、光を食うのではない』
月守狐の声が、さらに深くなる。
『人が灯りを信じる心を食う』
息が止まった。
灯りを信じる心。
だから黒燭は、最初だけ救いに見せかけるのか。
夜霧を吸ったように見せ、王都公認を掲げ、人々に「これさえあればいい」と思わせる。
古い灯具を捨てさせる。
小さな灯りを軽んじさせる。
自分たちの手で灯りを守る気持ちを奪う。
そして最後に、灯りそのものを食う。
『急げ』
月守狐の尾が、弱々しく揺れた。
『大灯が黒く染まれば、王都は夜を昼と呼ぶようになる』
「どういう意味ですか」
問いかけた瞬間、白銀の狐の周囲に赤黒い火がともった。
ヴァルハインの声が遠くから聞こえる。
「見つけたぞ、小さな灯」
夢の黒森に、黒い外套の影が立っていた。
ヴァルハインではない。
もっと大きい。
もっと濃い。
顔は見えない。
ただ、手に持つ黒燭だけが異様に長く、赤黒く燃えている。
その火の奥に、王都の大聖灯が見えた。
金色だったはずの光が、黒く脈打っている。
そして、大聖灯の前に立つ男。
聖灯局長グレゴール・バルザック。
彼は俺を見下ろし、冷たく笑った。
「やはり、お前の小さな灯は危険だった」
夢の中なのに、胸が冷えた。
グレゴールの背後で、大聖灯の黒い染みが広がっていく。
針の先ほどだったものが、今は掌ほどに。
いや、もっと大きく。
月守狐の声が、最後に響いた。
『村の灯りを束ねよ。
ひとつの大きな光ではなく、消えない小さな灯火網を』
俺は手を伸ばした。
だが、黒い火が視界を覆う。
◇
目が覚めた時、食堂灯が大きく揺れていた。
ポルカが俺の胸の上で毛を逆立てている。
「ぽうっ! ぽうっ!」
「ポルカ?」
起き上がると、宿の中も外もざわついていた。
子どもたちは無事だ。
月灯狐たちも工房にいる。
けれど、村の灯りが一斉に震えている。
ロッテさんが食堂灯を見上げて青ざめた。
「今、灯りが黒くなりかけたわ」
セラが宿へ駆け込んでくる。
「ルカ!」
「はい」
「北門守護灯にも黒い揺らぎが出た。井戸灯も、工房の灯りも同時に」
ミリアも遅れて飛び込んできた。
手には父親の手帳。
開かれたページの月守狐の絵が、強く光っている。
「ルカ、手帳に文字が出た!」
「文字?」
ミリアは震える声で読み上げた。
『月守の眠り、破られん。
黒燭、王都大聖灯へ送られる。
夜明けまでに月守を解かねば、灯路は黒へ傾く』
夜明けまで。
俺は窓の外を見た。
まだ夜は深い。
だが、時間は多くない。
黒森の奥で、月守狐が奪われようとしている。
そして、その力が王都の大聖灯へ送られようとしている。
休む時間は終わった。
俺はランタンを手に取った。
食堂灯が、安眠灯が、窓辺の灯りが、かすかに応える。
セラが短剣を握る。
ミリアが工具袋を肩にかける。
ポルカが俺の肩に飛び乗った。
「行きましょう」
俺は言った。
「月守狐を助けに」




