第18話 帰る場所の灯り
黒い火が、森を閉じた。
小屋の周囲に立てられた黒燭が、一斉に赤黒く燃え上がる。
火なのに、熱はない。
明るさもない。
ただ、夜だけが濃くなっていく。
北門へ続いていた灯りの線が、闇に飲まれかけた。
子どもたちが小さく悲鳴を上げる。
月灯狐たちは身を寄せ合い、弱々しい尻尾の光を震わせていた。
ヴァルハイン。
黒燭商会の灯術師。
顔の下半分を黒い布で覆った男は、細長い黒蝋燭を掲げて笑った。
「村の灯りなど、ここまでは届かない」
「届きます」
俺はランタンを握り直した。
「小さな灯りは、帰る場所を忘れません」
「美しい言葉だ」
ヴァルハインの黒蝋燭の火が、ぐにゃりと歪む。
「だが、灯りは美しさで魔物を退けるのではない。出力だ。支配だ。燃やし、奪い、従わせる力だ」
赤黒い火が地面を這う。
黒い糸が、俺たちの簡易灯へ伸びた。
一つ目の灯りが大きく揺れる。
「ミリア!」
「分かってる!」
ミリアは工具袋から小さな反射板を取り出し、地面に突き立てた。
即席の金具。
祭り灯の外枠。
井戸灯の予備部品。
宿の客室灯の硝子片。
村のあちこちから集めた、ばらばらの部品。
それらを、彼女は迷いなく組み合わせていく。
「簡易灯、全部を円にする! ルカ、線を切らさないで!」
「はい!」
俺はランタンから細い光を伸ばした。
黒燭の火に真正面からぶつけるのではない。
子どもたちと月灯狐たちを囲むように、柔らかく巡らせる。
守るための輪。
帰るための輪。
「ポルカ、道を見て!」
「ぽう!」
ポルカが尻尾を大きく振る。
白い月明かりが足元を照らし、黒蝋の糸がどこから伸びているかを浮かび上がらせた。
リオが自分のランプを抱え、震えながらも前へ出た。
「こっち……黒い糸、下から来る」
「リオ、下がって」
「でも、見えるんだ」
リオの小さなランプが、ぽうっと光る。
それは本当に弱い灯りだった。
王都の灯具なら、検査で弾かれるかもしれない。
だが、その灯りは黒燭の幻に惑わされない。
帰る家を忘れない灯り。
リオが小屋でずっと隠し続けた、大切な灯り。
「リオ、その灯りを床に向けて」
「うん!」
リオがランプを低く掲げると、黒い糸の流れがはっきり見えた。
ミリアが反射板の向きを変える。
「そこね!」
工具の先で地面を叩く。
黒蝋の糸が弾けた。
簡易灯の光が持ち直す。
ヴァルハインの目が細くなった。
「面白い。素材にするには惜しい子どもだ」
セラが一瞬で前に出た。
短剣の切っ先が、ヴァルハインへ向く。
「その口を閉じなさい」
「村長代理か。辺境の小娘が、黒燭の術式を止められるとでも?」
「術式は止められなくても」
セラは低く構えた。
「あなたの足は止められる」
ヴァルハインが黒蝋燭を振る。
赤黒い火が鞭のように伸びた。
セラは踏み込み、横へ跳ぶ。
火の鞭が地面を叩き、黒い蝋が飛び散る。
そこへセラの短剣が走った。
刃はヴァルハインの外套を裂く。
男はわずかに後退した。
「獣じみた動きだ」
「村を守るには十分よ」
セラは息を乱さず、再び立つ。
その間に、俺たちは子どもたちを灯りの輪の中へ集めた。
ミナ。
トト。
エリ。
三人とも震えていたが、ニナから預かった干し果物を握りしめている。
あんな小さな差し入れが、今は命綱のように見えた。
「大丈夫です」
俺は子どもたちへ言った。
「必ず村へ帰ります」
「村……?」
小さな女の子、ミナがかすれた声で聞く。
「ノクスヴェイルです。灯りのある村です」
「黒い火、ない?」
「置かせません」
そう答えると、ミナは泣きそうな顔で頷いた。
トトは月灯狐を一匹抱きしめている。
エリはリオの袖を掴んでいた。
その姿を見て、胸の奥が熱くなる。
この子たちは、灯りの素材ではない。
黒燭の世話係でもない。
ただ、怖い夜から帰りたい子どもたちだ。
「ミリア、撤退路は?」
「細いけどつながってる! でも黒燭の火が強すぎる。小屋の周囲の黒燭を全部消さないと、子どもたちを通せない!」
「分かりました」
俺はヴァルハインを見た。
彼が持つ細長い黒蝋燭。
あれが中心だ。
周囲の黒燭は、あの火から命令を受けている。
ならば、あの火を弱めれば道は開く。
「セラさん!」
「聞いてる!」
セラはヴァルハインの火を避けながら叫んだ。
「中心はあの蝋燭ね!」
「はい!」
「なら、一瞬だけ隙を作る!」
セラが短剣を逆手に持ち替えた。
彼女は真正面から突っ込まない。
黒い火の動きを見て、足元の黒蝋を避け、木の幹を蹴って角度を変える。
村長代理。
ただの肩書きではなかった。
黒森の夜を何年も警戒し、村を守ってきた人の動きだ。
ヴァルハインの黒い火が横へ薙がれる。
セラは低く沈み込んでかわし、短剣を投げた。
刃はヴァルハイン本人ではなく、彼の手元の黒蝋燭を狙う。
ヴァルハインが舌打ちし、黒蝋燭を引いた。
その一瞬。
火の制御が乱れた。
「今!」
ミリアが叫ぶ。
俺はランタンを掲げた。
ポルカが肩に飛び乗り、尻尾を大きく振る。
リオのランプが足元の道を照らす。
そして、月灯狐たちが一匹、また一匹と顔を上げた。
弱っているはずなのに。
毛を刈られ、檻に閉じ込められていたはずなのに。
五匹の月灯狐は、震えながら尻尾を上げた。
「ぽう……」
ポルカが鳴く。
すると、五匹も応えるように小さく鳴いた。
「ぽう」
「ぽう……」
「ぽう」
白い光が、灯りの輪へ加わる。
月送りの灯を作った時の光。
誰かの足元だけを照らす、静かな月明かり。
黒燭の火とは正反対の光。
「みんな、無理しないで」
俺は思わず言った。
だが、ポルカが俺の頬を尻尾で叩いた。
「ぽう!」
今はやる、と言っているようだった。
俺は息を吸った。
「分かりました。少しだけ、力を貸してください」
ランタンの金色。
ポルカたちの白銀。
リオの小さな帰り灯。
ミリアの簡易灯。
そして、遠く北門にともる守護灯。
それらを一本の線として思い描く。
黒森の闇を焼き払うのではない。
この子たちが通る道だけを照らす。
帰るために。
村へ戻るために。
「【小さな灯】」
光が広がった。
強い光ではない。
だが、黒燭の火が作っていた闇の輪に、一本の道ができた。
北門へ続く細い光の道。
ヴァルハインが目を見開く。
「馬鹿な。黒森の腹で、灯火網を……!」
「灯火網じゃありません」
俺は言った。
「帰り道です」
ミリアが笑った。
「いいね、それ!」
彼女は最後の反射板を地面に打ち込む。
「帰り道、固定!」
光の道が安定する。
セラが戻ってきて、ミナを背負った。
「撤退!」
「はい!」
俺はトトを抱き上げた。
ミリアはエリの手を引き、工具袋を肩にかける。
リオは自分のランプを掲げる。
月灯狐たちはポルカに続き、ふらふらしながらも光の道へ向かった。
「逃がすと思うか」
ヴァルハインが黒蝋燭を掲げる。
周囲の黒燭が再び燃え上がる。
赤黒い火が獣の形になり、俺たちへ襲いかかった。
その瞬間、遠くで鐘が鳴った。
一回。
二回。
三回。
北門の鐘。
ガルム爺たちが鳴らしている。
続いて、森の外から声が届いた。
「灯りを消すな!」
「窓辺に置け!」
「ルカさんたちが帰ってくるぞ!」
村人たちの声。
見えない。
でも、聞こえる。
そしてその声に応えるように、北門の方角から金色の光が強まった。
村の灯りが、こちらへ伸びてくる。
俺だけの灯りではない。
村の灯りだ。
ニナの安眠灯。
ロッテさんの食堂灯。
井戸灯。
北門守護灯。
ガルム爺の手灯。
村人たちの窓明かり。
小さな灯りたちが、森の闇の中へ帰り道を押し広げる。
黒い獣の火が、その光に触れて崩れた。
ヴァルハインが初めて、明確に表情を歪める。
「辺境の村ごときが……!」
「その村の灯りです」
俺はトトを抱え直した。
「あなたたちが奪えなかった灯りです」
俺たちは走った。
光の道を。
背後で黒燭が割れる音がする。
黒蛾の羽音が追ってくる。
影狼の唸りも聞こえる。
だが、導き灯は消えない。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
ミリアが置いた灯具たちが、ぎりぎりで光を保っている。
「右!」
リオが叫ぶ。
俺たちは右へ曲がる。
黒蝋の罠が左側で弾けた。
もしリオのランプがなければ、踏んでいた。
「ありがとう、リオ!」
「うん!」
リオの声には、もうただの怯えだけではなかった。
自分も帰り道を守っている。
その自覚が、小さな体を支えていた。
黒森の出口が見える。
北門守護灯の光。
村人たちの影。
開いた門。
「見えた!」
ミリアが叫ぶ。
だが、その時だった。
背後からヴァルハインの声が響いた。
「ならば、一匹だけでも」
黒い火の糸が、最後尾を走っていた小さな月灯狐へ伸びる。
弱っていて、足が遅れていた一匹。
ポルカが振り返る。
「ぽうっ!」
ポルカが飛び出そうとした。
でも、距離がある。
間に合わない。
俺もトトを抱えていて動けない。
その瞬間、ミリアが工具袋を投げ捨てた。
「うちの子に触るな!」
彼女は腰から細い銅線を引き抜き、月灯狐と黒い火の間に走らせた。
銅線の先には、小さな反射板。
さっきまで簡易灯に使っていた部品だ。
「ルカ、火!」
「はい!」
俺はランタンの光を銅線へ流す。
ミリアの銅線が一瞬だけ灯りの橋になる。
黒い火の糸が、それに触れて弾けた。
月灯狐は転びながらも、ポルカのもとへ駆け寄る。
ミリアはその場に膝をついた。
「っ、熱くないのに痛い……!」
「ミリア!」
「大丈夫! 走って!」
セラがミリアの腕を掴み、引き上げる。
俺たちは最後の導き灯を越えた。
北門の内側へ飛び込む。
「閉めろ!」
ガルム爺の声。
門が閉まる。
同時に、北門守護灯が強く光った。
追ってきた黒い火と黒蛾の群れが、門前で弾かれる。
赤黒い炎が、守護灯の光に触れて散った。
森の奥で、ヴァルハインの声が響く。
「ルカ・エルネスト!」
その声は、怒りと興奮に震えていた。
「お前の灯り、やはり危険だ! 黒燭商会が、聖灯局が、必ず回収する!」
俺は門の内側で息を整えながら、ランタンを掲げた。
「これは、回収される灯りではありません」
北門の向こうへ、静かに言う。
「誰かを家に帰すための灯りです」
ヴァルハインの気配は、しばらく森の奥に残っていた。
やがて、赤黒い火が一つずつ消えていく。
完全に去ったのか。
それとも、闇の中で見ているのか。
分からなかった。
◇
北門の内側は、泣き声と安堵の声でいっぱいになった。
ロッテさんが子どもたちを毛布で包む。
ニナは干し果物の袋を持って走ってきて、ミナたちに渡した。
「これ、まだあるよ!」
ミナは驚いた顔でそれを受け取り、小さく「ありがとう」と言った。
トトは俺の腕から下りると、月灯狐たちのそばへ座った。
エリはロッテさんのスープを見て、泣きながら飲んだ。
リオは自分のランプを抱きしめたまま、ずっと北門守護灯を見上げていた。
「帰ってこられた」
「はい」
俺が答えると、リオは小さく笑った。
「ほんとに、帰る道だった」
ミリアは手を押さえていた。
黒い火に触れたわけではないが、呪いの痺れが残っている。
俺が心配して近づくと、彼女はすぐに手を隠した。
「平気」
「見せてください」
「ちょっとだけ痛いだけ」
「見せてください」
「……はい」
手のひらには、黒い線のような痕が残っていた。
俺はランタンを近づけ、細い光で痺れをほどいた。
ミリアは少しだけ顔をしかめたが、すぐに息を吐いた。
「ありがと」
「無茶をしましたね」
「ルカに言われたくない」
「それは……そうですね」
二人で少し笑った。
ポルカと五匹の月灯狐たちは、北門守護灯の下で丸くなっている。
弱っているが、生きている。
ポルカは誇らしげに胸を張っていた。
「ぽう」
「はい。ポルカもよく頑張りました」
「ぽう!」
褒めろ、と言っているようだったので、頭を撫でた。
その時、リオが月灯狐たちを見て呟いた。
「あの小屋、まだ奥に道があった」
俺たちは一斉に振り向いた。
「奥に?」
セラが聞く。
「うん。黒い人たちが、もっと大きい狐は奥だって言ってた。白くて、すごく大きくて、ずっと眠らされてるって」
ポルカの尻尾の光が、ぴたりと止まった。
五匹の月灯狐たちも顔を上げる。
リオは震えながら続けた。
「その狐の毛を使えば、王都の大聖灯も黒燭にできるって」
大聖灯。
王都の中心にある、あの巨大な灯り。
俺が追放される日に、黒い染みを見つけた灯り。
胸の奥が、冷たく沈む。
黒燭商会の狙いは、この村だけではない。
月灯狐を使い、黒燭で大聖灯を汚す。
もしそれが本当なら。
王都そのものが、夜を呼ぶ巨大な黒燭になる。
セラが険しい顔で俺を見た。
「ルカ」
「はい」
「これは、村だけの問題ではなくなったわね」
俺は北門守護灯を見上げた。
村の灯りは、今夜もともっている。
でも、その先にある王都の灯りは、もう黒く染まり始めているのかもしれない。
俺はランタンを握った。
小さな灯りが、静かに揺れた。
帰る場所を守るための灯り。
そして今度は、まだ闇に飲まれていない場所へ警告を届けるための灯り。
黒森の奥に眠る大きな月灯狐。
王都の大聖灯。
グレゴールと黒燭商会。
夜の闇は、思っていたよりずっと深いところまで広がっていた。




