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第16話 黒森の小さな灯

 黒森の奥から、子どもの声がした。


「……助けて」


 夜風に混じった、かすかな声。


 聞き間違いかもしれない。


 黒燭商会の罠かもしれない。


 夜霧が人の声を真似ることがあるのかもしれない。


 それでも、その声を聞いた瞬間、広場にいた誰もが息を止めた。


 ニナが安眠灯を抱きしめる。


 ロッテさんが口元を押さえる。


 ガルム爺が黒森の方へ目を細める。


 セラは短剣に手をかけたまま、俺を見る。


「ルカ」


「行きます」


 答えは決まっていた。


 けれど、セラはすぐに首を横に振った。


「一人では行かせない」


「もちろんです」


「それと、無策でも行かせない」


 その言葉に、俺は少しだけ目を瞬いた。


 以前の俺なら、声がした方へすぐに走っていたかもしれない。


 ポルカを助けた時のように。


 だが、今は違う。


 黒燭商会はこの村の灯火網に気づいた。


 黒森の奥には黒燭狼より大きな何かがいるかもしれない。


 そして、助けを求める声が本物なら、助けに行く側まで夜に飲まれてはいけない。


「灯りをつなぎながら行きましょう」


 俺は言った。


 セラが頷く。


「どこまで?」


「北門から黒森の入口まで。そこから先は、仮の導き灯を置きながら進みます。戻る道を必ず残す」


「いい判断ね」


 ミリアが工具袋を肩にかけた。


「簡易導き灯なら三つある。墓地道で使ったやつを改良した残り。あと、試験用の小灯も使える」


「ポルカは?」


 セラが足元を見た。


 ポルカは黒森の方をじっと見ている。


 尻尾の光が、ぽう、ぽう、と不安定に揺れていた。


 怖がっている。


 でも、行く気だ。


「ぽう」


「この子も行くって顔してる」


 ミリアが苦笑する。


「ただし、無理させない。ポルカは灯路を見る役。戦う役じゃない」


「ぽう?」


「不満そうにしてもだめ」


 俺がそう言うと、ポルカは尻尾で俺の足をぺしりと叩いた。


 ニナが不安そうに近づいてくる。


「ルカ兄ちゃん、黒い森に行くの?」


「少しだけです。声の主を確認してきます」


「危ない?」


「危ないです」


 嘘はつけなかった。


 ニナの顔が強張る。


 俺は膝をつき、彼女の安眠灯にそっと手を添えた。


「でも、灯りをつないで行きます。帰る道を消さないように」


「じゃあ、これ持っていく?」


 ニナは安眠灯を差し出した。


 俺は一瞬、言葉に詰まった。


「これはニナの灯りです」


「でも、怖い子がいるなら、その子も眠れないかもしれない」


 その一言に、胸の奥が締めつけられる。


 黒燭は、この灯りを食おうとした。


 だからニナは、なおさらこの灯りを大切にしている。


 それなのに、助けを求める誰かのために貸そうとしている。


 俺は安眠灯を両手で受け取った。


「必ず返します」


「うん」


「それと、この灯りは最後の安心用です。危ない場所では使わない」


「うん。大事にしてね」


「はい」


 ミリアが小さく鼻をすすった。


「ニナ、いい子すぎない?」


「ミリア姉ちゃん、泣いてる?」


「泣いてない。夜風が目に入った」


「風、あっちからだよ」


「細かい!」


 少しだけ笑いが起きた。


 その笑いが、張りつめた夜の空気をわずかにほどいた。


     ◇


 北門守護灯は、静かにともっていた。


 黒燭商会を退けたばかりの灯り。


 今はその光が、俺たちの背中を押してくれている。


 門の内側には、セラが選んだ数人の村人が控えていた。


 無理に戦うためではない。


 戻ってきた時、すぐ門を開け、怪我人を運び、灯りを受け渡すためだ。


 ロッテさんは温めた布と薬草湯を用意している。


 ガルム爺は無言で、古い手灯を持って立っていた。


「わしも行く」


「だめです」


 セラが即答した。


「爺は門で待っていて」


「だが」


「戻る場所を守るのも、大事な役目よ」


 ガルム爺は少し黙り、それから頷いた。


「……分かった。なら、灯りを消さずに待っとる」


「お願いします」


 俺は北門の足元に、最初の導き灯を置いた。


 ミリアが金具を調整する。


 ポルカが尻尾の光を少しだけ落とす。


 俺が【小さな灯】を注ぐ。


 小さな灯りが、北門守護灯と細い線でつながった。


「一つ目、安定」


 ミリアが記録する。


「二つ目は黒森の入口手前。三つ目は声の位置が分かってから」


「はい」


 セラが門を開ける合図を出した。


 重い音を立てて、北門が開く。


 外には黒い夜が広がっていた。


 昼間はただの森に見えた場所が、夜になるとまるで別の生き物のように息をしている。


 黒森。


 枝は絡み合い、幹はねじれ、地面からは薄い夜霧が這っている。


 遠くで、影狼のものとも黒蛾の羽音ともつかない音がした。


 俺たちは森へ向かった。


 先頭はセラ。


 その後ろにポルカ。


 俺とミリアが続く。


 俺はランタンを掲げ、ニナの安眠灯を布に包んで胸元に入れていた。


 北門から離れるほど、村の声が小さくなる。


 代わりに、森の音が近くなる。


 枝の擦れる音。


 湿った土を踏む音。


 どこかで何かが笑うような音。


 ミリアが小声で言った。


「ねえ、これ絶対、昼に来た方がよかったやつだよね」


「声がしたのは今です」


「そうなんだけどさ」


「怖いですか?」


「怖いに決まってるでしょ」


 ミリアは胸を張るように言った。


「でも、職人が作った導き灯を使ってるんだから、見届けないと」


「それは心強いです」


「あと、もし黒燭商会の仕掛けなら、絶対に構造を見たい」


「そっちですか」


「そっちも大事」


 セラが前方で手を上げた。


 止まれの合図。


 俺たちは足を止める。


 黒森の入口手前。


 地面に、細い黒い線が走っていた。


 根ではない。


 黒蝋の跡だ。


「また黒燭の仕込みか」


 セラが低く言う。


 俺は膝をつき、ランタンを近づけた。


 黒い線は地面の上を這い、森の奥へ向かっている。


 その上には、ところどころ白い光の欠片が落ちていた。


「月灯狐の毛……?」


 ミリアが拾おうとして、俺が止める。


「直接触らないでください。黒蝋と混ざっています」


「月灯狐を使ってるの?」


「可能性があります」


 ポルカが黒い線の前で震えた。


「ぽう……」


 怒っているようにも、悲しんでいるようにも聞こえた。


 黒燭商会は月灯狐の毛を知っている。


 ミリアの父が残した毛束。


 月送りの灯。


 ポルカの尻尾。


 この柔らかな光を、黒燭に混ぜているのだとしたら。


 胸の奥に、冷たい怒りがともる。


「二つ目の導き灯をここに置きましょう」


 俺は言った。


「黒蝋の線を越える前に、帰り道を固定します」


「了解」


 ミリアが灯具を置く。


 セラが周囲を警戒する。


 俺が光を入れ、ポルカが尻尾で灯りを整える。


 二つ目の導き灯がともると、黒蝋の線が少しだけ退いた。


 完全には消えない。


 だが、道は開いた。


「進みます」


 セラが静かに言う。


 俺たちは黒森へ入った。


     ◇


 森の中は、思っていた以上に暗かった。


 ランタンを掲げているのに、光が枝に吸われていく。


 夜霧が足元にまとわりつき、何度も進む方向を狂わせようとした。


 だが、ポルカは迷わなかった。


 小さな体でとことこと歩き、ときどき尻尾を揺らして地面の灯路を探る。


 黒森にも、古い灯路がある。


 完全に死んでいると思っていたが、ポルカの光に反応して、ほんの一瞬だけ白い線が浮かぶ。


「昔は、この森の中にも灯りがあったのかも」


 ミリアが小声で言った。


「黒森を切り開くための道しるべかもしれません」


「それが全部消えて、夜霧の森になった?」


「おそらく」


 セラが足を止めた。


「聞こえる」


 俺たちは耳を澄ませた。


 風。


 枝。


 遠くの羽音。


 そして。


「……たすけて」


 今度は、はっきり聞こえた。


 子どもの声。


 近い。


 俺はランタンを握り直した。


 声の方へ進むと、小さな空き地に出た。


 そこには、倒れた馬車の残骸があった。


 普通の行商馬車ではない。


 黒い布。


 黒い箱。


 黒燭商会の蝋燭紋。


「黒燭商会の馬車……?」


 セラが眉をひそめる。


 荷台は壊れている。


 車輪は片方外れ、木箱が散乱していた。


 その中に、黒燭が何本も転がっている。


 だが火はついていない。


 代わりに、馬車の下から小さな白い光が漏れていた。


「誰かいますか!」


 俺が声をかける。


 返事はすぐにはなかった。


 けれど、馬車の下で何かが動いた。


「……こわい」


 子どもの声。


 俺は近づこうとして、足を止めた。


 馬車の周囲に、黒蝋の糸が張られている。


 不用意に踏めば、灯りを吸われるかもしれない。


「ミリア、切れますか」


「道具で触るのは危ない。ルカの灯りで弱らせて、ポルカの月光で押さえればいける」


「やります」


 俺はランタンを低く掲げた。


 黒蝋の糸を一つずつ照らす。


 ポルカが尻尾を振り、白い光で糸の動きを止める。


 ミリアが長い工具で糸を引っかけ、隔離筒へ入れる。


 地味な作業だった。


 だが、焦れば罠にかかる。


 セラは短剣を構え、周囲を警戒している。


 森の奥で影狼の唸り声がした。


 時間はない。


 それでも、急ぎすぎてはいけない。


「最後の一本」


 ミリアが言った。


 俺は黒蝋の糸を照らし、ポルカが押さえる。


 糸が弾けるように切れた。


「今です」


 俺は馬車の下を覗き込んだ。


 そこにいたのは、小さな男の子だった。


 十歳にも満たないだろう。


 灰色の髪。


 煤で汚れた顔。


 腕には、小さな古いランプを抱えている。


 そのランプが、かすかな白い光をともしていた。


 黒燭ではない。


 月送りの灯に似た、優しい光だ。


「大丈夫です。助けに来ました」


 男の子は怯えた目で俺を見る。


「……黒い人じゃない?」


「違います」


「黒燭の人じゃない?」


「違います」


 ポルカが俺の肩から降り、男の子の前で小さく鳴いた。


「ぽう」


 男の子の目が大きく開く。


「月灯狐……」


「ポルカです」


「ぽるか……」


 男の子は少しだけ安心したように、馬車の下から這い出てきた。


 足を怪我している。


 ひどくはないが、歩くのはつらそうだ。


 セラがすぐに布を巻く。


「名前は?」


「リオ」


「リオ。どうしてここに?」


 リオは唇を震わせた。


「黒い人たちに、連れてこられた」


 俺たちは顔を見合わせた。


「どこから?」


「森の奥の、小屋。月灯狐を捕まえる小屋」


 ポルカが毛を逆立てた。


「ぽうっ!」


 リオは抱えていた古いランプを強く握る。


「ぼく、灯りの世話をさせられてた。黒い蝋燭に、白い毛を混ぜるんだって。そうすると、最初だけ優しい灯りに見えるからって」


 ミリアの顔から血の気が引いた。


「月灯狐の毛を……黒燭に?」


「うん。でも、このランプだけは隠してた。お母さんのランプだから」


 リオの抱える小さなランプ。


 古いが、丁寧に磨かれている。


 灯りは弱い。


 それでも、黒森の夜の中で消えずに残っていた。


 おそらくこの灯りが、俺たちに見えた白い光だ。


「黒い人たちは?」


 セラが尋ねる。


「村の方へ行った。ぼくは馬車に隠れて逃げようとしたけど、途中で馬車が壊れて……黒い糸が出て、動けなくなって……」


 リオの声が震える。


「また捕まると思った」


「もう大丈夫です」


 俺は言った。


 だが、森の奥で影狼の唸り声が近づいていた。


 黒燭商会の馬車から漏れた呪いに引かれているのだろう。


 長居はできない。


「戻りましょう」


 セラがリオを背負おうとしたが、彼はランプを離さなかった。


「これ、持っていっていい?」


「もちろんです」


 俺は即答した。


「それはリオの灯りです」


 その言葉を聞いた瞬間、リオの目に涙が浮かんだ。


「黒い人は、これはもういらないって。小さすぎるって」


「小さい灯りは、いらなくありません」


 俺はランタンを掲げた。


「むしろ、帰る道を教えてくれます」


 リオは小さく頷いた。


 その時、森の奥から影狼が三頭現れた。


 さらに、木の上には黒蛾の群れ。


 馬車の黒燭が、勝手に赤黒く揺れ始める。


「最悪」


 ミリアが工具を構える。


「黒燭が起きた!」


「三つ目の導き灯をここに置きます」


 俺は最後の導き灯を地面に置いた。


 リオのランプ。


 俺のランタン。


 ポルカの月光。


 そして導き灯。


 四つの灯りが、小さな空き地でつながる。


「【小さな灯】」


 金色の光が広がり、影狼の足を止めた。


 セラが前へ出る。


「走れる?」


「リオは背負います」


 俺が言うと、セラは即座に首を振った。


「あなたは灯りを持って。私が背負う」


「でも」


「適材適所」


 セラはリオを背負い上げた。


 ミリアが導き灯を固定し、俺が帰り道へ光を伸ばす。


 ポルカが先頭で尻尾を振った。


「ぽう!」


 北門へ続く灯りの線が、森の闇の中に浮かび上がる。


「戻ります!」


 俺たちは走った。


 背後で影狼が吠える。


 黒蛾が羽音を立てる。


 黒燭の赤黒い火が、森の中で揺れる。


 しかし、導き灯は消えなかった。


 一つ目。


 二つ目。


 北門守護灯。


 帰る道が、確かにそこにあった。


 黒森を抜けた瞬間、北門から村人たちの声が上がった。


「戻ったぞ!」


「子どもがいる!」


「門を開けろ!」


 ガルム爺の手灯が揺れる。


 ロッテさんが布を持って走る。


 ニナが安眠灯を抱えて飛び出しかけ、老婆に止められる。


 俺たちは北門の内側へ駆け込んだ。


 門が閉まる。


 北門守護灯が強く光り、追ってきた影狼たちを弾いた。


 リオはセラの背中で、ぼろぼろ泣いていた。


「ここ、黒い人の村じゃない?」


「違うわ」


 セラが優しく言う。


「ここはノクスヴェイル。灯りを取り戻している村よ」


 リオは涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。


 広場の灯り。


 井戸灯。


 宿の食堂灯。


 窓辺の灯り。


 それらを見て、彼は小さく呟いた。


「ほんとの灯りだ……」


 その声に、胸が詰まった。


 けれど、安心するにはまだ早かった。


 リオは震える手で、俺の袖を掴んだ。


「お願い」


「はい」


「まだいるの」


 広場の空気が凍る。


「小屋に、まだ月灯狐がいる。子どももいる。黒い人たちが、明日の朝に王都へ運ぶって」


 ポルカが甲高く鳴いた。


「ぽうっ!」


 ミリアの顔が怒りで赤くなる。


 セラが短剣を握る。


 俺は黒森を振り返った。


 遠く、森の奥で赤黒い火が一つ、また一つとともっていく。


 黒燭商会の隠し小屋。


 捕らえられた月灯狐。


 そして、リオ以外の子どもたち。


 村の灯りを守る戦いは、まだ終わっていなかった。


 むしろ、これから森の奥へ踏み込まなければならない。


 俺はランタンを握り直した。


「助けます」


 リオの小さなランプが、俺の言葉に応えるように淡く光った。

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