第9話 手当のぬくもり
「スパーダさん!」
取材を終えたアリシアが、こちらに気づいて小走りで駆け寄ってくる。夕日に照らされた彼女の笑顔は、裏表のない純度百パーセントの輝きに満ちていた。
「どうした、団長。暇なら帳簿の再確認でもするんだ」
「もう、相変わらず冷たいですね。さっき、機材の最終メンテナンスをするって言ってたじゃないですか。私も手伝いますよ!」
スパーダの素っ気ない態度にも慣れてきたのか、アリシアはめげることなく彼の隣に並んだ。そして、少しだけ恥ずかしそうに上目遣いで彼を見る。
「さっきは、トランポリンを直してくれてありがとうございました。……スパーダさんがいてくれて、本当に助かりました」
真っ直ぐに向けられた感謝の言葉に、スパーダは小さく息を吐いた。
「……査察対象の資産価値を維持するためだ。勘違いするな」
口では冷たく突き放しながらも、彼の足元ではちびゴーレムたちが「親方!」と言わんばかりにコトコトとついて回っており、その説得力はひどく薄っぺらいものになっていた。
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今日の公演も無事に終わり、すっかり夜も更け、サーカステントは静寂に包まれていた。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った空間で、魔石のランタンが淡い光を落としている。遠くから猛獣使いのゴルダンが連れている火竜の静かな寝息が、かすかな地響きのように聞こえてくるだけの穏やかな夜だ。
その薄暗い明かりの下で、スパーダはただ一人、機材の最終メンテナンスを行っていた。
明日の水都シアンへの移動に備え、昼間に修理した巨大トランポリンのバネだけでなく、テントを支える重要な滑車やワイヤーの繋ぎ目を一つ一つ丁寧に確認していく。
その時、背後から控えめな足音が近づいてきた。
「夜遅くまで、ありがとうございます。スパーダさん」
振り返ると、寝間着の上に薄手のショールを羽織ったアリシアが立っていた。
「……まだ起きていたのか。団長が寝不足で倒れでもしたら、明日の移動に支障が出る。とっとと寝るんだ」
「機材のチェック、私も手伝います。これでも一応団長ですから、自分のサーカスのことくらいちゃんと把握しておきたいんです。スパーダさんだけに負担をかけるわけにはいきませんし」
冷たく追い払おうとするスパーダの言葉を押し切り、アリシアは彼の隣にしゃがみ込んだ。
「邪魔はしないように。勝手にしたらいいさ」
「邪魔はしません。ほら、そこのワイヤーを押さえておけばいいんですよね? 私だって空中ブランコ乗りですから、ロープの扱いには慣れて――」
アリシアはスパーダが調整しようとしていた太いワイヤーの端に手を伸ばした。
しかし、それは素人が素手で触れるには少しばかり張力が強すぎた。スパーダが「やめろ」と鋭く制止するより早く、留め具から外れかかっていたワイヤーが跳ねた。
「あっ!」
鋭い金属の繊維が、アリシアの手のひらを掠めた。
「痛っ……」
アリシアが顔をしかめ、自分の手首を抑える。手のひらから、ツーッと赤い血が一筋、滲み出していた。
「……だから言っただろうが。ブランコ乗りが商売道具の手を痛めてどうする。もっと自分を大切にしろ」
スパーダは深くため息をつくと、持っていた工具を乱暴に床に置き、アリシアの手を無言で引き寄せた。
「あ、ごめんなさい、大した傷じゃないから……このくらいなら洗えばすぐ治ると思います」
「黙っていろ」
スパーダは懐から、真っ白で上質な布地のハンカチを取り出した。そして、アリシアの手のひらに滲んだ血を、驚くほど丁寧で優しい手つきで拭い始めた。
「少し、沁みるぞ」
スパーダは腰のポーチから小さな小瓶を取り出し、透明な消毒液をハンカチに含ませて傷口に当てる。
ちくりとした痛みにアリシアが肩をビクッと震わせると、スパーダの手に込められた力がふっと緩んだ。傷を刺激しないよう、羽で撫でるような繊細なタッチに変わる。
至近距離で手当てをしてくれるスパーダの顔が、ランタンのオレンジ色の光に照らし出されていた。
普段は氷のように冷たい眼光が、今はただアリシアの小さな傷口だけに集中している。整った鼻筋、長く伏せられた睫毛。どこか影を帯びた端正な横顔は、見惚れてしまうほどに美しかった。
そして何より、傷を扱うその指先の、過保護なほどの優しさ。
夕方は「査察対象の資産価値を維持するためだ」と冷たく突き放された。けれど、この手当ての温もりまでが、ただの職務だとは到底思えなかった。彼の指先から伝わってくるのは、間違いなく彼女自身を大切に扱う熱だった。
トクン、トクンと、アリシアの胸の奥で心臓が早鐘を打ち始める。顔が熱くなり、自分の鼓動が彼に伝わってしまうのではないかと不安になるほどだった。
「……よし。浅い傷だ。明日には塞がるだろう」
スパーダは手当てを終えると、ハンカチを握らせたままアリシアの肩を掴んで立たせた。
「えっ、スパーダさん、ハンカチが……」
「洗って返せ。血の匂いをさせたままうろつかれては、魔獣たちが興奮して厄介だからな」
スパーダも立ち上がると、工具を拾い集め、アリシアに背を向けた。
「もう君の手伝いは不要だ。さっさと自分のテントに戻って休むんだ」
それだけをぶっきらぼうに言い残し、彼は足早に暗がりへと消えていった。
あとに残されたのは、静かな夜の空気と、ランタンの灯りだけ。
アリシアは自分の手のひらに残された、スパーダの真っ白なハンカチを見つめた。上質な布地には、彼から微かに香っていた爽やかな石鹸のような匂いが残っている。
「……洗って返せ、か」
アリシアはハンカチを両手で包み込むようにして、そっと自分の胸元に押し当てた。
痛かったはずの傷口はもう全く気にならなかった。代わりに、胸の奥がギュッと締め付けられるように苦しくて、同時にどうしようもなく甘い熱で満たされていた。
ただサーカスのために働いてくれる有能な人だから、感謝しているだけだと思っていた。でも、この胸の痛みはもう誤魔化しようがない。冷たい言葉の裏側に隠された、彼の不器用な優しさを知ってしまったから。
月明かりが差し込むテントの中で、アリシアは大切そうにそのハンカチを握りしめたまま、スパーダの後ろ姿が消えた暗がりをいつまでも見つめていた。




