第40話 ポケットの宝物
王都グラン・エルディスでの大公演は、連日連夜、超満員の観客を熱狂の渦に巻き込み、記録的なロングラン公演となっていた。
莫大な興行税を完済し、サーカス団『エトワール・メモリア』はかつてないほどの活気と笑顔に満ち溢れている。
公演終わりの深夜。
喧騒が嘘のように静まり返った控室で、アリシアは一人、翌日の舞台小道具の片付けをしていた。
ふと、長椅子の上に無造作に置かれている漆黒の上着に目が留まった。スパーダが、裏方用の作業着に着替えるために脱いでいったものだ。
「スパーダさんったら、相変わらず脱ぎっぱなしなんだから……」
アリシアは苦笑しながら、その上着をハンガーに掛け直そうと持ち上げた。
その拍子に、内ポケットからコロンと何かが床に転がり落ちた。
「え……?」
拾い上げたアリシアは、思わず目を丸くした。
それは、キラキラと光る綺麗なガラス玉や、真新しい真鍮のネジだった。
アリシアには見覚えがあった。鉱山街ルベルでの巡業先で、ちびゴーレムたちが彼に懐いてプレゼントしていたものだ。あの時、その場を目撃していたアリシアは、彼が「……こんなガラクタ、必要ない」と無表情で受け取っていたため、てっきり捨てられてしまったのだと思っていた。
しかし、床に転がった小さな布の包みの中には、その贈り物だけでなく、別にもらったと思われる不器用に編み込まれた野花の花飾りや、水辺で拾ったキラキラ光るだけのただの石ころまでが、潰れないように大切にしまわれていたのだ。
無駄を極端に嫌い、効率だけを求めていたはずの冷徹な彼が。
こんな不格好で、何の金銭的価値もない贈り物を、ずっと肌身離さず、大切に内ポケットに忍ばせていたのだ。
「……ずるいよ、スパーダさん」
アリシアの胸の奥が、ギュッと締め付けられるように甘く痛んだ。
彼は言葉こそ冷たく厳しいけれど、その本質は誰よりも優しく、不器用で、このサーカス団のみんなを深く愛してくれている。
アリシアは、そのいびつな花飾りや石ころを元のポケットにそっと戻し、上着を胸に抱きしめた。
「あらあら、いいもの見つけちゃったわね」
不意に背後から、艶やかな声がした。
振り返ると、蛇半身のメルーラが、扉の枠に寄りかかって妖艶に微笑んでいた。
「メルーラ……」
「あの堅物で不器用な男が、アタシたち家族をどれだけ大切に思っているか。……これで、アンタもハッキリ分かったでしょう?」
メルーラはスルスルとアリシアに近づくと、彼女の耳元に小瓶を近づけ、とびきり甘い香水をほんの一滴だけ首筋に落とした。
「彼、今は舞台装置の最終点検をしてるわ。他の連中には、アタシが適当に野暮用を言いつけて近づけないようにしておくから……行きなさい。あとは、アンタが素直になるだけよ」
頼れる姉御肌のキューピットにウインクされ、アリシアは顔を真っ赤にしながらも、力強く頷いた。
+++
スパーダの元へ向かう前、アリシアは一度自分の団長室へ戻った。
執務机の上には、水都シアンで彼が「計算の効率化のためだ」と言って買ってくれた、青いガラス細工の美しい羽ペンが置かれている。
アリシアはその羽ペンを手に取り、静かに見つめた。
彼と出会ってからの日々が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
最初は、テントを差し押さえに来た冷酷な査察官だと思っていた。
しかし彼は、素人離れした手際で舞台装置を直し、過酷な練習の後は誰よりも優しく労ってくれた。父の死の真相を知った時、共に真犯人を追い詰め、身を挺して自分を守ってくれた。
そして今、彼は王立隠密衛兵隊の特務諜報員という立場でありながら、国ではなく、このサーカスに残ることを選んでくれたのだ。
『俺の任務地は、ここだということだ』
彼がくれたその言葉が、どれほどアリシアの心を救い、幸福で満たしてくれたか。
ガラスの羽ペンを両手で包み込むように握りしめ、アリシアは深く息を吸い込んだ。
「……伝えなきゃ。私の、今の気持ちを全部」
迷いは、もうなかった。
アリシアは引き出しから『あるもの』を取り出し、夜の巨大テントへと駆け出した。
+++
静まり返った夜の巨大テント。
観客のいない暗い空間で、スパーダは一人、空中ブランコの滑車を入念に点検していた。
「スパーダさん」
背後からの呼びかけに、スパーダは振り返った。
月明かりに照らされたアリシアが、少しだけ緊張した面持ちで立っている。彼女から漂う微かな甘い香水の匂いに、スパーダは一瞬だけ目を細めた。
「どうした、アリシア。こんな夜更けに。明日の公演に響くぞ」
「……スパーダさんに、ずっと、お返ししたかったものがあるんです」
アリシアはゆっくりと歩み寄り、両手で包み込むようにして『それ』を差し出した。
スパーダの目が、わずかに見開かれる。
それは、以前アリシアが機材のワイヤーで手を怪我した時、彼が血を拭うために貸してくれた、真っ白で上質なハンカチだった。
「ただ洗って返すだけじゃ、足りない気がして」
スパーダが受け取ったそのハンカチの隅には、エトワール・メモリア(星の記憶)にちなんだ美しい『星』の刺繍と、流れるような金糸で『S』というスパーダのイニシャルが、丁寧に縫い付けられていた。
「これは……」
「スパーダさんは、ずっと独りで生きてきたって言ってたから……」
アリシアは、潤んだ瞳で真っ直ぐにスパーダを見つめた。
「これからは、ここがあなたの帰る場所です。あなたはもう、私たちの大切な『家族』だから。……だから、そのハンカチを持っている限り、あなたは絶対に独りじゃありません」
孤児として過酷な環境で育ち、生きるために感情を殺し、温かい家族の記憶を持たずに生きてきたスパーダ。彼にとって組織は自分を活かす「職場」でしかなく、誰かと心を通わせることを諦めていた。
しかし今、手の中にある小さな刺繍入りのハンカチは、彼が確かにこの温かい場所に迎え入れられ、愛されているという何よりの証明だった。
スパーダは言葉を失い、そのハンカチを壊れ物のように大切に、静かに上着の内ポケットにしまった。
そして、ゆっくりとアリシアの手を取った。




