第38話 星を掴む二人の軌跡
重力を忘れたかのような、純粋で誇り高き飛翔。彼女の体は、夜空に見立てたテントの天井付近を、まるで光を纏った鳥のようにしなやかに舞う。
下でロープを操るスパーダの動きは、神業の領域に達していた。
彼はアリシアの呼吸、筋肉の微かな収縮、空中での軌道を完全に読み切り、寸分の狂いもなく滑車をコントロールする。アリシアが手を伸ばす、まさにその完璧なタイミングと位置に、次のバーが吸い込まれるように現れるのだ。
二人は言葉を交わすことなく、一本のロープを介して完全に心を同調させていた。
「すごい……なんて美しいんだ……!」
観客席から、感嘆の吐息が漏れる。
アリシアが空中で大きく身を翻し、最も難易度の高い大技、連続の空中回転へと入る。
スパーダの腕の筋肉が隆起し、ロープの張力を極限まで繊細に調整する。アリシアの体が空中で美しい弧を描き、スパーダが送り出したバーをピタリと掴み取った瞬間、テントが揺れるほどの大歓声が爆発した。
それは、彼女のこれまでの空中ブランコ人生において、間違いなく最高の輝きを放つパフォーマンスだった。
経営の重圧からも、過去の悲しみからも解き放たれ、愛する人に支えられて飛ぶ彼女の姿は、見る者すべての心を打つ至高の芸術となっていた。その感情の高まりに呼応するように、イグニスの光がテント内を温かく、そして華やかに照らし出し、アリシアの軌跡を星の尾のように追いかけていく。
着地と同時、観客全員が立ち上がり、割れんばかりのスタンディングオベーションが巻き起こった。
拍手はいつまでも鳴り止まず、興奮の冷めやらない観客たちから「明日も来るぞ!」「もっと見せてくれ!」という声が次々と飛び交う。
この瞬間、エトワール・メモリアの王都での長期にわたるロングラン公演が、決定づけられたのだった。
熱狂の舞台袖で、息を弾ませて戻ってきたアリシアを、スパーダが静かに迎えた。
彼はロープから手を放すと、いつかの夜と同じように、清潔なタオルを彼女に差し出した。
「……完璧だったぞ、アリシア」
スパーダの低く落ち着いた声には、隠しきれない甘い称賛の色が滲んでいた。
「スパーダさんが、下で合わせてくれたから……!」
アリシアは満面の笑みを浮かべ、彼から受け取ったタオルを胸に抱きしめた。
二人の間には、もはや言葉以上の絆が確かに結ばれていた。
王都の夜空に響き渡る歓声の中、エトワール・メモリアの新たな、そして輝かしい未来の幕が、今まさに開いたのだった。
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王都グラン・エルディスでの大公演は、連日立ち見が出るほどの記録的なロングランとなった。
観客の熱狂は日を追うごとに増し、『エトワール・メモリア』の名は王都中に轟いた。
その結果、サーカス団にはかつてないほどの莫大な利益がもたらされたのだ。
数週間後。
分厚い興行税の完納付証明書を握りしめ、アリシアは王立国庫管理局の重厚な扉を出た。
「終わった……本当に、全部返し終わったのね」
隣を歩くスパーダを見上げ、アリシアは信じられない思いで呟いた。
「当然の結果だ。君たちのパフォーマンスと、俺の完璧な財務管理が噛み合えば、あの程度の借金など造作もない」
スパーダは相変わらず涼しい顔で言い放つが、その足取りはどこか軽やかだった。
サーカステントに戻ると、そこには歓喜に沸く団員たちの姿があった。
完済の知らせと共に、アリシアから久々の特別ボーナスが支給されたのだ。
「ドワッハッハ! 見てみな、この見事な霜降りの肉を! 今日は奮発して、最高級の肉でとびきりのシチューを作ってやるよ!」
ドワーフの料理長マグダが、魔法の樽よりも大きな肉の塊を掲げて豪快に笑う。
「やったわ! これでやっと、最高純度の新しいラメの粉が買えるわ! アタシの最高傑作ちゃんをもっとキラキラにしてあげるんだから!」
スライムのシルヴィが、ボーナスの入った革袋を胸に抱きしめて人型の体をくねらせる。
「ヒャッハー! 俺は魔導ホイールの特注エンジンパーツを買うぜ!」
「オレは火竜たちに極上の骨付き肉だ!」
「俺は新しいバランス用の大樽を特注するぞ!」
ジグ、ゴルダン、バルガスたちも、これまで我慢を強いられてきた鬱憤を晴らすように、子供のような笑顔で騒いでいた。
その騒がしくも温かい日常の風景は、経営難に喘いでいた頃の暗い影を完全に払拭していた。
「……よかった。みんな、本当に嬉しそう」
控室の入り口からその様子を眺めていたアリシアは、ホッと胸を撫で下ろした。
すると、背後からスパーダが近づき、彼女の手元にドンッと分厚い帳簿を置いた。
「完済したからといって、浮かれるな。経営はここからが本番だ。無駄遣いをすれば、またすぐに元の木阿弥だぞ」
「はいっ、分かっています、スパーダさん」
アリシアは背筋を伸ばし、彼から帳簿を受け取った。それは、ルベルの街で出会った日から彼がつけ直してくれた、あの緻密な計算が並ぶ帳簿だ。
「……確認しておけ」
スパーダに促され、アリシアはページをパラパラとめくった。
前半には、これまでの売上と借金返済の緻密な記録が並んでいる。しかし、借金がゼロになったページを越え、さらに後半の真新しいページに差し掛かった時、アリシアの指がピタリと止まった。
「え……?」
そこには、ただの数字の羅列ではなかった。
『来年度の巡業ルート案』
『空中ブランコ用・新型安全滑車の導入計画』
『王都以降の長期的な予算立て及び、団員の給与引き上げ案』
何ページにもわたり、びっしりと書き込まれた未来の計画。それは、単なる「国から派遣された査察官」や「密輸事件を追う潜入捜査官」が書くような、一時的な業務記録ではなかった。
「スパーダさん……これ……」
アリシアが震える声で振り向くと、スパーダは少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「……機材の老朽化が進んでいる。先の投資を怠れば、いずれ興行に支障をきたす。巡業ルートも、季節ごとの集客率を計算して再構築した方が効率的だ」
言い訳のように早口で語る彼を見て、アリシアの瞳からポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼は、組織の任務で一時的に滞在しているだけだと言っていた。事件が解決すれば、帰ってしまうのではないかとずっと不安だった。
けれど、彼は随分と前から、この帳簿に「このサーカスと共に生きていく未来」を思い描いてくれていたのだ。
冷徹な計算式の裏に隠された、彼の深く不器用な愛情。
「っ……スパーダさん!」
アリシアは帳簿を胸に抱きしめ、堪えきれずに彼の胸に飛び込んだ。
「ば、馬鹿、急に抱きつくな。帳簿が折れるだろうが」
文句を言いながらも、スパーダの大きな手は、アリシアの背中を優しく、そして力強く抱きしめ返していた。




