第37話 交渉
王都グラン・エルディスの中心部にそびえ立つ、堅牢な石造りの建物。その最深部にある王立隠密衛兵隊の長官室で、スパーダは巨大なマホガニーの執務机を挟み、初老の長官と対峙していた。
「ダンビローグの身柄と、密輸組織の全容解明。見事な手際だった、スパーダ」
長官は報告書に目を通しながら、満足げに頷いた。
「先代団長グロリアントの暗殺事件も明るみに出たことで、あのサーカス団は今や王都中で話題の的だ。これで一件落着だな。お前にはすぐに次の任務を与えよう。東の国境沿いで不穏な動きが――」
「お待ちください、長官」
スパーダは低く、しかしよく通る声で言葉を遮った。
「俺は、引き続き幻想白夜サーカス団『エトワール・メモリア』に同行することを提案します」
長官は怪訝そうに眉をひそめた。
「任務は完了したはずだ。ただのサーカス団に、お前ほどの優秀な捜査官を張り付かせる余裕など、我が隊にはないぞ」
「ただのサーカス団ではありません」
スパーダは淀みなく言葉を紡いだ。
「彼らは国中を巡業し、貧民から貴族まであらゆる階層の客を集めます。特に、先遣隊として各街を回るエルフのラットリアは、巧みな話術で街の噂話や不審な動きをいち早く察知する極めて優秀な能力を持っています。情報収集の拠点として、あのサーカス団はこれ以上ない価値を持っています」
長官は顎を撫でながら、スパーダの提案を冷徹な頭脳で吟味した。
「なるほど。絶えず移動し、警戒されずに情報を集められる拠点か。悪くない。……ならば、彼らを引き続き囮として使い続けろ。組織の残党が報復に来る可能性もある。その時は彼らを餌にして――」
その瞬間。
長官室の空気が、氷点下まで凍りついた。
スパーダの全身から、これまで長官にすら向けたことのない、凄まじいまでの殺気が放たれたのだ。
かつて血生臭い裏社会で生き抜き、数々の修羅場を潜り抜けてきた彼の、本気の凄み。長官は思わず息を呑み、背筋に冷たい汗を伝わせた。
「……彼らには、指一本触れさせません」
スパーダの眼光は、極寒の刃のように鋭く研ぎ澄まされていた。
「彼らは囮ではありません。俺が守るべき対象です。もし彼らを危険に晒すような真似をすれば、俺は命令に背いてでも、敵をすべて排除する」
長官は、目の前の有能な部下が、かつての感情を持たない機械から、何者にも代えがたい「守るべきもの」を得た一人の男へと変貌していることを悟った。
スパーダを失うことは、国家にとって大きな痛手だ。それに、情報拠点としてのサーカス団の価値は確かに高い。
「……よかろう」
長官は深くため息をつき、一枚の書類に羽ペンを走らせた。
「本日付けで、お前を『幻想白夜サーカス団の専属護衛兼、特務諜報員』に任命する。そこがお前の『任務地』だ。エリート捜査官としての権限は残しておく。……せいぜい、その大切な拠点を守り抜くことだな」
「はっ」
スパーダは深く一礼し、長官室を後にした。
その足取りは、王都の青空の下へ向かって、これまでにないほど軽く、迷いのないものだった。
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その夜、王都グラン・エルディスの中央広場に設営された巨大なサーカステントは、かつてないほどの熱気と興奮に包まれていた。
「さあさあ、幻想と白夜の夢のコアへようこそ!」
入り口でガーゴイルのゲオルグが客を捌ききれないほど、会場は超満員に膨れ上がっている。密輸組織の壊滅と、先代団長の無念を晴らしたという劇的なニュースは、王都中の人々をこのテントへと惹きつけていた。
ファンファーレが鳴り響き、ショーの幕が上がる。
ドワーフの料理長マグダの仕込んだ絶品のピクルスの香りが漂う中、特攻隊長のジグが魔導ホイールで轟音を響かせ、ケンタウロスのバルガスが見事なバランス芸を披露する。ゴルダンの火竜が炎を吹き、チャイが身軽に宙を舞い、バジュラが六本の腕でジャグリングを繰り広げる。
団員たちのパフォーマンスは、これまでにないほどの気迫と完成度で、観客を熱狂の渦へと巻き込んでいった。
しかし、その熱狂が最高潮に達したのは、テントの照明が一度すべて落とされ、静寂が訪れた時だった。
炎の精霊イグニスの放つ一筋の柔らかい光が、遥か上空のプラットフォームに立つ一人の少女を照らし出す。
エトワール・メモリアの若き団長にして、花形スターの空中ブランコ乗り、アリシアだ。
スライムのシルヴィが仕立てた、星屑のように輝く衣装を身に纏ったアリシアは、冷たいバーを握りしめ、静かに深呼吸をした。
恐怖やプレッシャーは、もう微塵もなかった。
父の死の真相が明らかになり、長年胸に閊えていた重い十字架が下ろされた。そして何より、彼女の視線の先――遥か下の舞台袖の暗がりには、漆黒の外套を脱ぎ捨て、裏方用の黒シャツ姿になったスパーダが立っているからだ。
スパーダは、滑車のロープを両手でしっかりと握りしめ、アリシアを見上げていた。
彼の研ぎ澄まされた視線と、絶対的な力強さを秘めた腕。彼が下で支えてくれているという事実が、アリシアに無限の勇気を与えてくれる。
(スパーダさん……。私、飛ぶわ!)
壮大な音楽と共に、アリシアは虚空へと身を投げ出した。




