第36話 墓前の誓い
風が木々を揺らす音だけが響く。
しかし、その沈黙を破ったのは、入り口に鎮座するはずの石像、ガーゴイルのゲオルグの鼻で笑うような声だった。
「フン。何を今更、神妙な顔をしてやがる」
ゲオルグは石の腕を組み、ニヤリと愛ある毒舌の笑みを浮かべた。
「俺たちをただのバカの集まりだと思っていたのか? お前みたいな殺気立った男が、ただの文官なわけがねえことくらい、最初から薄々勘づいていたさ。……だがな」
ゲオルグの言葉に続くように、バルガスが高らかに蹄を鳴らした。
「ああ、そうだ! お前がどこの馬の骨だろうが、隠密の犬だろうが、そんな肩書きはどうでもいいんだよ!」
「その通りさ」
マグダが豪快に笑い、スパーダの肩をバンッと力強く叩いた。
「あんたは、ボロボロだった滑車を完璧に直し、夜遅くまでうちの団長の練習に付き合い、ちびゴーレムたちと一緒に汗を流してくれた。何より、あの卑劣なゲス野郎から、身を挺してアリシアを守り抜いてくれたじゃないか」
「あんたが流したその左腕の血は、アタシたち家族を守るために流してくれた尊いものよ。騙されただなんて、これっぽっちも思ってないわ」
シルヴィが優しい声で微笑む。
「ドワッハッハ! 俺たちは、国やら肩書きやらの難しいことは分からねえ。だが、お前が誰よりもこのサーカスを、そしてお嬢を大切に想ってくれていることくらい、嫌でも伝わってきてるぜ!」
ゴルダンが豪快に笑い飛ばすと、団員たち全員が「そうだそうだ!」と大きく頷いた。
スパーダは、驚きのあまり言葉を失い、ゆっくりと頭を上げた。
彼らの瞳には、怒りや軽蔑の色は微塵もなかった。ただ純粋な感謝と、彼を「家族」として受け入れる無防備なまでの温かさだけが溢れていたのだ。
「……これだから、お前たちの作るショーは客を狂わせるんだな」
スパーダは呆れたように呟いたが、その声は微かに震え、氷のように冷たかった彼の瞳には、熱いものが込み上げていた。生まれて初めて知る、無条件の許しと受容。彼の孤独な心は、この瞬間、完全に救済されたのだった。
「スパーダさん」
アリシアが、花が咲いたような眩しい笑顔で彼を見上げる。
「ありがとうございます。お父様の無念を晴らしてくれて、私たちのサーカスを立て直してくれて。……あなたが来てくれて、本当に良かった」
スパーダは、少しだけ照れくさそうに視線を逸らし、「……俺はただ、計算通りの仕事をしただけだ」と不器用にそっぽを向いた。その耳の先がほんのりと赤く染まっているのを見て、団員たちからドッと温かい笑い声が巻き起こった。
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「さあ野郎ども! 先代への挨拶も済んだことだし、いよいよ明日からの大公演に向けて、最終調整に入るぞ!」
「おおおおっ!!」
ジグの号令と共に、団員たちは気合を入れ直し、明るい足取りで墓地を後にし始めた。
アリシアも彼らに続いて歩き出そうとしたが、ふと、胸の奥に冷たい風が吹き込むのを感じて足を止めた。
(事件が、解決した……)
先代団長の暗殺の真実は暴かれ、密輸組織は壊滅した。
それはつまり、隠密衛兵隊の潜入捜査官であるスパーダの『任務』が、完全に終わってしまったことを意味している。
(スパーダさんは、組織に帰ってしまうの……?)
背中を向けて歩き出す団員たちの後ろ姿を見つめながら、アリシアはギュッと胸元を握りしめた。
借金も返せる。サーカスの未来も明るい。なのに、彼がいなくなってしまうかもしれないという想像だけで、息が止まりそうになるほど苦しかった。彼に惹かれている自分の気持ちは、もう痛いほど自覚している。彼がいないサーカスなんて、まるで光を失った星空のように感じられた。
不安に駆られて振り返ると、スパーダは皆の後を追わず、一歩下がった場所で、ただ一人、先代団長グロリアントの墓石の前に立ち尽くしていた。
彼は漆黒の外套を揺らす風の中、姿勢を正し、静かに目を閉じていた。
スパーダの脳裏に浮かぶのは、自分が生きてきた血生臭い孤独な世界と、アリシアたちが教えてくれた温かく眩しい世界。
組織に戻れば、また感情を殺した冷徹な捜査官に戻る。国を守るための孤独な歯車として生きる日々が待っている。
だが、彼はもう、あの無防備で純粋な彼女の笑顔がない世界で生きることはできないと、魂の底から理解していた。
「……あんたは、本当に偉大なものを残してくれたな」
スパーダは、誰にも聞こえないほどの小さな、しかし確固たる決意を込めた声で、墓石に向かって語りかけた。
「俺は、愛も家族も知らない、裏社会の泥水の中で生きてきたような男だ。こんな俺が、彼女の隣に立つ資格があるのかは分からない」
スパーダはゆっくりと目を開け、少し先で不安そうに立ち止まっているアリシアの小さな背中を見つめた。
「だが……俺の命に代えても、彼女の笑顔だけは失わせない。組織でも、国でもない。……あなたの娘さんと、このサーカスは、俺が一生かけて守り抜きます」
それは、ただの役人から監視対象への言葉ではなく。
一人の男から、愛する女性の父親へ向けた、生涯を懸けた男同士の『誓い』だった。
風が吹き抜け、百合の花びらがふわりと空へ舞い上がる。スパーダは深く一礼し、踵を返してアリシアの元へと歩き出した。
――しかし。
その神聖で秘密めいた男の誓いを、こっそりと聞き耳を立てていた者がいた。
「うにゃははっ……聞いちゃったにゃ」
墓地の入り口にある大きなオークの木の枝の上。
長い尻尾を揺らしながら寝そべっていた猫獣人のチャイが、ピクピクと耳を動かし、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「お堅い役人の旦那も、ついに覚悟を決めたみたいだにゃー。こりゃあ、王都の公演が終わっても、当分退屈しそうにないにゃ!」
チャイは楽しげに喉を鳴らすと、身軽な動きで木から飛び降り、団員の後を追って王都の青空の下へと駆け出していった。
大波乱と愛に満ちた王都グラン・エルディスでの大公演が、今、最高のフィナーレに向けて幕を開けようとしていた。




