第33話 極上の演舞
広場の隅、暗がりに身を潜めていたスパーダは、一連の完璧な連携を静かに見つめていた。
左腕の傷の痛みはとうに忘れている。彼の研ぎ澄まされた捜査官としての頭脳は、視界を奪われ、パニックに陥って逃げ惑うダンビローグの次の動きを、チェスの駒を読むように完全に計算し尽くしていた。
(ジグとゴルダンが退路を断ち、シルヴィとイグニスが視覚と方向感覚を奪った。……奴が向かうのは、唯一光が届かない、噴水の裏の暗がりだ)
スパーダの視線が、広場の中央で立ち尽くすアリシアを捉えた。
アリシアもまた、スパーダの視線を探していた。二人の視線が、月明かりと明滅するランプの光の中で交差する。
スパーダは、左腕から流れる血をものともせず、アリシアに向けて小さく、しかし全幅の信頼を込めて頷いた。そして、ダンビローグが逃げ込むであろう噴水の裏の暗がりを、視線で鋭く指し示した。
――そこへ飛べ。奴の頭上を取れ。
言葉はなくとも、二人の間には完璧な意思疎通があった。
彼は潜入捜査官として自分を騙していたかもしれない。それでも、夜のテントで空中ブランコの居残り練習に付き合ってくれた時、寸分の狂いもなくロープを引いてくれたあの絶対的な安心感と信頼感は、決して嘘ではなかった。
「……行くわよ!」
アリシアはスパーダの指示を微塵も疑うことなく、広場に設置されていた装飾用の長い旗鉾のロープを掴んだ。
そして、空中ブランコで培った圧倒的な身体能力と遠心力を利用し、夜空へと優雅に身を投げ出した。
「おおおおっ!!」
街の人々が、月夜を舞う団長の美しさに息を呑む。
アリシアは、星屑のようなラメが舞う空間を、まるで重力を持たない鳥のようにしなやかに飛翔した。
一方、ダンビローグは盲目の状態で、スパーダの読み通りに噴水の裏の暗がりへと逃げ込もうと足掻いていた。
「ここから逃げ切れさえすれば、まだ、まだやり直せる……!」
だが、彼の頭上に、月光を背負ったアリシアが音もなく降下してきた。
アリシアは空中で反転すると、持っていた重い装飾用のロープの先端を、ダンビローグの足元に向かって的確に投げつけた。
「なにっ!?」
ロープがダンビローグの足首に絡みつく。
アリシアは着地の反動を利用して、そのロープを力いっぱい引き絞った。
「ぐわぁっ!」
足元を掬われたダンビローグは、石畳に顔面から激しく転倒し、持っていたナイフを手放した。
「今よ、チャイ!!」
アリシアの叫びが、広場に響き渡る。
「うにゃはは! 大捕物のフィナーレだにゃー!!」
時計塔の屋根から、猫獣人のチャイが歓声を上げて飛び降りた。
彼の手から放たれたのは、頑丈な金属の糸で編まれた巨大な投網だった。
バサァッ!!
月光を遮るように広がった投網は、転倒したダンビローグの体を寸分の狂いもなく完全に包み込み、捕獲した。
「離せっ! 離せぇぇっ!!」
網の中で芋虫のように這いずり回り、無様に喚き散らす真犯人。
しかし、その周囲を、バルガス、ゴルダン、ジグ、マグダ、バジュラたち団員が円を描くように取り囲み、完全に逃げ道を塞いだ。
静寂が、広場に落ちた。
そして次の瞬間。
「ブラボー!!」
「最高のショーだったぞ、エトワール・メモリア!!」
街の人々から、割れんばかりの拍手と大歓声が巻き起こった。
彼らは、目の前で繰り広げられた追跡劇と捕縛劇が、すべて「計算し尽くされた極上のエンターテインメント」であると信じて疑わなかった。
誰も傷つかずに、芸術的な連携で悪を討つ。それこそが、先代団長グロリアントが愛し、アリシアが受け継いだ、このサーカス団の誇りだった。
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「……見事な手際だ」
歓声に包まれる広場の隅から、漆黒の外套を羽織ったスパーダがゆっくりと歩み寄ってきた。
彼の左腕は血で濡れていたが、その顔には、先ほどまでの冷徹な捜査官の険しさはなく、どこか憑き物が落ちたような、穏やかで誇らしげな表情が浮かんでいた。
「スパーダさん……!」
アリシアが駆け寄る。
「ありがとう。あなたが合図を出してくれたおかげで、迷わずに飛べました」
「俺はただ、逃走経路を読んだだけだ。それを信じて、あのタイミングで正確に飛んだ君の身体能力と度胸の賜物だ」
スパーダは、不器用ながらも真っ直ぐにアリシアを称賛した。
網の中で捕らえられたダンビローグは、スパーダの姿を見ると、憎悪に満ちた声で吠えた。
「ふざけるな……! こんなお遊びのような連中に、私のような完璧な計画を立てた人間が……!」
「完璧な計画、だと?」
スパーダが冷たく見下ろす。
「お前は、このサーカス団の絆を、ただの隠れ蓑だと侮辱した。他人の愛や信頼を、計算で測れる薄っぺらいものだと思い込んでいた。……それが、お前の最大の敗因だ」
スパーダは、周囲を取り囲む団員たちを見渡した。
経営難に苦しみ、文句を言い合いながらも、いざとなれば誰よりも互いを思いやり、命を懸けて背中を預け合う、最高の家族たち。
「彼らの絆は、お前の浅はかな悪意などで引き裂けるほど、ヤワなものではない」
スパーダの言葉に、団員たちが誇らしげに胸を張る。
アリシアもまた、涙ぐみながらも、満面の笑みを浮かべた。
「さて、王都の治安維持部隊には俺から連絡を入れておく。……お前には、冷たい牢獄の中で、一生かけて自分の罪と向き合ってもらうぞ」
スパーダがダンビローグを冷徹に宣告すると、ダンビローグはついに絶望し、ガクリと首を垂れた。
こうして、水都シアンの夜空の下、先代団長の死の真相と、サーカス団を巡る密輸事件の黒幕は、エトワール・メモリアの団員たちによる、芸術的で最高に熱い『総力戦』によって、見事に幕を下ろしたのだった。
「おっしゃあ! 大捕物も終わったことだし、今度こそ俺たちの祝賀会をやり直そうぜ!」
バルガスが蹄を鳴らして高らかに宣言する。
「ドワッハッハ! 美味い酒なら樽ごと用意してあるぞ!」
ゴルダンが笑い、マグダが「あんたたち、朝まで寝かさないよ!」と腕まくりをする。
歓喜に沸く団員たちの輪の中で、アリシアはそっとスパーダを見上げた。
彼が自分を騙していた傷は、まだ完全には癒えていない。
けれど、彼が身を挺して自分を守ってくれたこと、そして、彼がこのサーカスの絆を心から信じ、肯定してくれたことは、紛れもない真実だった。
「……スパーダさんも、腕の治療してから合流しましょう」
アリシアが、少しだけはにかみながら誘う。
スパーダは一瞬だけ驚いたように目を見張ったが、やがて、夜風に吹かれながら、これまでにないほど優しく、柔らかな微笑みを浮かべた。
「……ああ。喜んで」
月光と、魔石ランプの幻想的な光に照らされた水都の広場に、家族の温かい笑い声がいつまでも響き渡っていた。




