第28話 密室の二人
ちびゴーレムたちが廃材と天幕で即席に作り上げた隠れ家の中は、完全な暗闇だった。
水都シアンの街の喧騒は遠く離れ、広場には不気味なほどの静寂が降りている。微かに聞こえてくるのは、少し離れた場所に停められているゴルダンの竜の馬車から漏れる、火竜の低い寝息だけだ。
「……冷えるな」
暗闇の中、すぐ隣からスパーダの低く押し殺した声が聞こえた。
大人二人が身を潜めるにはあまりにも狭い空間。身動き一つとれないほど密着した状態の中で、アリシアは自分の膝を抱え込むようにして小さく縮こまっていた。
「私は大丈夫、です。……これくらい」
強がって答えたものの、アリシアの肩は小刻みに震えていた。
夜風の冷たさだけが原因ではない。これから現れるかもしれない「真犯人」に対する、得体の知れない恐怖だ。
もし、本当に家族のように愛する団員の中に、父を殺し、サーカスを密輸に利用している裏切り者がいたらどうしよう。マグダだったら? バルガスだったら? あるいは、いつも陽気なチャイやバジュラだったら?
疑心暗鬼が黒い渦となって胸を満たし、アリシアの歯の根がカチカチと鳴り始める。極度の緊張に、呼吸が浅くなっていくのが自分でもわかった。
その時だった。
暗闇の中で、不意に大きくて温かいものが、アリシアの震える両手をすっぽりと包み込んだ。
「え……」
「……息を吐け。過呼吸になるぞ」
それは、スパーダの手だった。
剣ダコのある、ごつごつとした男の手。かつて裏社会で生き抜き、冷徹な潜入捜査官として血生臭い任務をこなしてきたはずのその手は、驚くほど優しく、そして焼けつくように熱かった。
スパーダは何も言わず、ただアリシアの小さな手を自分の両手で力強く握りしめた。
『俺がついている。何も恐れるな』
言葉はなくとも、その掌から伝わってくる絶対的な安心感が、アリシアの凍りつきそうだった心をゆっくりと溶かしていく。
(スパーダさん……っ)
彼の体温が伝わるたび、恐怖の震えは嘘のように治まっていった。
代わりに、今度はまったく別の理由で、アリシアの心臓が早鐘を打ち始めた。
狭い空間。すぐ隣に彼がいる。触れ合う肩から伝わる熱と、鼻腔をくすぐる清潔な石鹸の香り。彼が自分だけに向けてくれる、この過保護なまでの不器用な優しさ。
ドクン、ドクン、ドクン。
静寂の隠れ家の中に、自分の大きな心音だけが響き渡っているように感じられた。顔が火のように熱くなる。
その瞬間――ポォッ、と。
「……っ!?」
アリシアの腰元に下げられていた小さなランタンの中で、不自然な光が灯った。
感情とリンクする炎の精霊、イグニスだ。
恐怖が消え去り、スパーダの手を握られたことで極限まで高鳴ってしまったアリシアの『恋心』を正確に読み取ったイグニスは、この緊迫した張り込みの最中であるにもかかわらず、空気を読まずに眩い「ピンク色」の光を放ち始めようとしたのだ。
(嘘っ、イグニス、今光ったらダメ……っ!)
隠れ家の天幕の隙間からピンク色の光が漏れれば、広場に近づく犯人に確実に見つかってしまう。作戦が台無しになるだけでなく、二人の命すら危うい。
アリシアが声にならない悲鳴を上げ、パニックになりかけた、その刹那。
バサッ!
「……っ、静かに」
スパーダが反射的に動き、自身が羽織っていた漆黒の分厚い外套を大きく翻し、アリシアの頭からすっぽりと、ランタンごと覆い隠したのだ。
光は完全に遮断された。
しかしそれは同時に、スパーダの外套という『さらに狭い密室』の中に、二人が完全に閉じ込められたことを意味していた。
「……っ、スパーダ、さん」
スパーダは片膝をついた体勢で、アリシアに覆い被さるようにして彼女とランタンを抱き込んでいた。
距離、ゼロ。
彼の胸板がアリシアの顔のすぐ目の前にあり、力強い心音と、低く規則正しい呼吸がダイレクトに伝わってくる。スパーダの長い腕がアリシアの背中をしっかりとホールドし、彼女の小さな体は完全に彼の腕の中に閉じ込められていた。
「落ち着け、アリシア。お前が焦れば、精霊の火は余計に燃え上がる。……深呼吸しろ」
耳元で、吐息が直接触れるような至近距離で囁かれた、甘く低い声。
その破壊力に、アリシアの頭は完全に真っ白になった。
落ち着けと言われても、こんなに強く抱きしめられ、彼の匂いと体温に包み込まれた状態で、どうやって心を静めればいいというのか。
「す、すみません、でも、心臓が、いうこと、きかなくて……っ」
「……だよな。俺も、同じだ」
スパーダの口から微かにこぼれたその独り言に、アリシアは息を呑んだ。
暗闇で顔は見えないが、アリシアを抱きしめるスパーダの腕にも、微かな力がこもっていた。冷静沈着なはずの彼の鼓動もまた、アリシアのそれと同じように、少しだけ早く、不規則に脈打っていたのだ。
彼も、自分と同じように戸惑い、熱を感じてくれている。
その事実が、不思議とアリシアの心を凪のように静めていった。
ゆっくりと深呼吸を繰り返す。スパーダの背中にそっと手を回し、その確かな温もりに身を委ねる。
やがて、主の心が落ち着きを取り戻したのを感じ取ったイグニスは、ランタンの中でシュンと音を立て、元の淡いオレンジ色の火種へと戻り、静かに眠りについた。
「……消えたな」
スパーダが小さく息を吐き出し、外套を少しだけ緩めた。
しかし、彼はアリシアから完全に離れることはせず、彼女の肩を抱き寄せたまま、天幕のわずかな隙間から再び外の監視へと意識を戻した。アリシアもまた、彼の腕の中に収まったまま、静かに夜の闇を見つめた。
恐怖はもう、欠片もなかった。
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どれほどの時間が過ぎただろうか。
水都の夜が最も深く、冷たくなる午前二時。
ザッ……。
広場の入り口の石畳を、何かが擦るような微かな音が響いた。
スパーダの体が、腕の中でピクリと強張る。アリシアも息を殺した。
誰もいないはずの荷馬車の列に向かって、一つの影が足音を忍ばせて近づいてくる。
雲が切れ、淡い月明かりが広場を照らし出した。
影の主は、周囲を神経質に見回しながら、手押し車に積んだ重そうな木箱を運んでいた。向かう先は、各街の衛兵が危険で近づけない、猛獣使いゴルダンの『竜の馬車』だ。
男は竜の馬車に近づくと、懐から布袋を取り出し、中から噴煙器のようなものを取り出し、竜めがけて煙をあおいだ。
『グルルル……』
寝込みを襲われて威嚇しようとした火竜だったが、その煙を吸った瞬間、ふらふらと頭を揺らし、そのままドスンと音を立てて深い眠りに落ちてしまった。竜向けの強い睡眠効果がある煙であった。
竜を無力化した男は、慣れた手つきで馬車の床下にある隠し扉を開け、手押し車の木箱を次々とその中へ押し込み始めた。
「……かかったな」
スパーダの極寒の刃のような声が、暗闇に響いた。
彼が天幕の隙間から鋭い眼光を放つ。
月明かりが、木箱を押し込む男の横顔をはっきりと照らし出した。
その顔を見た瞬間、アリシアは声にならない悲鳴を上げ、両手で強く口元を覆った。
「ここからは俺の仕事だ。……お前は、ここで見ていろ」
スパーダはアリシアにそう言い残すと、音もなく隠れ家を飛び出し、冷酷な真犯人の背後へと、漆黒の死神のように忍び寄っていった。




