第24話 冷たい水底
水都シアンでの公演は、連日立ち見が出るほどの大盛況を記録していた。
青と緑の幻想的な照明が水面のように揺らめき、団員たちのパフォーマンスは観客を熱狂の渦へと巻き込んでいく。サーカス団『エトワール・メモリア』は、間違いなく息を吹き返しつつあった。
しかし、その華やかな舞台裏で、若き団長アリシアの心は冷たい水底に沈んだままだった。
あの日、夜のテントでスパーダの正体を知ってから、数日が経っていた。
彼が国庫管理局の役人ではなく、王立隠密衛兵隊の潜入捜査官であること。このサーカスを密輸組織の隠れ蓑だと疑い、自分に近づいたこと。そして何より、最愛の父である先代団長の死が、事故ではなく暗殺だったという残酷な可能性。
アリシアは、スパーダと一切口をきかなくなっていた。
彼が視界に入るたび、裏切られた悲しみと、父の死の真相に対する恐怖で胸が張り裂けそうになるのだ。スパーダもまた、無理に彼女に話しかけようとはせず、ただ黙々と裏方の力仕事や機材の点検をこなし、陰から彼女を守るように立ち回っていた。
二人の間に流れる、重く冷たい沈黙。
その異変に、サーカス団の家族たちが気づかないはずがなかった。
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「あらあら、何があったのか知らないけど若い二人が意地を張っちゃって。見てるこっちがもどかしいわねぇ」
昼下がりの薄暗い備品倉庫。
アリシアが次の演目で使う小道具を探していると、背後からスルスルと絹のリボンが伸びてきて、パタンと倉庫の扉が閉められた。
「えっ? メルーラ?」
振り返ると、下半身が大蛇の蛇半身、メルーラが扉の外で妖艶に微笑んでいるのが見えた。恋バナが大好物で世話焼きな彼女は、アリシアとスパーダの距離を縮めようと、裏でこっそり手を回したのだ。
「少しそこで、二人きりで頭を冷やしなさいな。言葉が足りないなら、体温で感じ取ればいいのよ」
メルーラが楽しげに笑いながら去っていく気配がした。
アリシアがハッとして倉庫の奥を振り返ると、そこには、高い棚の上の備品を整理していた黒シャツ姿のスパーダが立っていた。
「……」
「……っ」
狭い倉庫の中、二人きり。
スパーダの整った顔立ちが、窓から差し込む僅かな光に照らされている。彼から漂う爽やかな石鹸の香りが、狭い空間に満ちてアリシアの鼻腔をくすぐった。
スパーダは何も言わず、ただ静かにアリシアを見下ろしている。その瞳には、以前のような冷徹な査察官の刺々《とげとげ》しさはなく、どこか痛みを堪えるような、ひどく静かで熱を帯びた色が浮かんでいた。
ドクン、とアリシアの心臓が跳ねる。
彼に騙されていたと分かっているのに、こうして至近距離にいるだけで、彼に守られていた時の温かい記憶が蘇ってしまう。
「……ごめんなさい、私、急ぐので」
耐えきれなくなったアリシアは、逃げるように身を翻し、メルーラが閉めた扉を強引に開けて倉庫から飛び出した。
背中に突き刺さるスパーダの重い視線を振り切るように、彼女は息を切らしてテントの外へと駆け出した。
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「ふぅ……っ、はぁ……」
冷たい風を求めて外の空気を吸い込んだアリシアは、胸を押さえて荒い呼吸を整えた。
スパーダの顔を見るたびに、感情がぐちゃぐちゃになってしまう。
「アリシア団長。こんなところで、どうされたんですか?」
不意に、人当たりの良い穏やかな声が降ってきた。
顔を上げると、新聞記者のダンビローグが柔和な笑顔を浮かべて立っていた。彼は手帳を片手に、心配そうな眉を下げる。
「ダンビローグさん……いえ、少し風に当たっていただけで」
「そうですか。……最近、少しお顔の色が優れないようですね。それに、あの査察官殿とも、なんだか距離があるように見受けられますが。何か、ひどいことでも言われましたか?」
ダンビローグの言葉に、アリシアは肩をビクッと震わせた。
彼の瞳は優しげに細められているが、その奥底で、何かを探るような鋭い光が微かに瞬いたように見えた。
「……何でもありません。経営方針のことで、少し意見が合わなかっただけです」
「なるほど。いや、私も心配していたんですよ」
ダンビローグは小さくため息をつき、アリシアに一歩近づいた。
「彼は優秀な役人なのでしょうが、やはり『外部の人間』です。損得勘定ばかりで動く冷酷な男は、この温かい家族のようなサーカスには、どうにも似合わない。……あなたが無理をしていないか、私はずっと気になっていたんです」
恩人である記者の優しい言葉。
しかし、なぜか今の彼から発せられるその声は、アリシアの肌にぞわりとした冷たい感触を残した。
「……ご心配ありがとうございます。でも、大丈夫です。このサーカスは、私がちゃんと守りますから」
アリシアは無理に笑顔を作り、足早にその場を立ち去った。
ダンビローグは彼女の後ろ姿を、笑みの消えた冷ややかな目で見送っていた。




