第22話 孤独な記憶
冷たい雨が打ち付ける薄暗い路地裏。腐りかけた残飯の臭いと、血の匂いが混ざり合う泥水の中。
それが、スパーダという男の最古の記憶だった。
孤児として過酷な環境で育った彼は、生きるために他者を蹴落とし、ゴミを漁り、時には命を奪い合う世界しか知らなかった。
泣き叫んでも、誰も助けには来ない。温かい食事や、凍える夜に肩を抱いてくれる優しい手など存在しない。信じられるのは己の拳と、研ぎ澄まされた直感だけ。生き抜くために、スパーダは幼い頃から自らの感情を完全に殺す術を学んだ。
悲しみや恐怖は弱さとなり、裏社会では命取りになる。心を分厚い氷で覆い隠し、ただ生き延びるという本能だけを頼りに獣のように生きてきた。
やがて、その裏社会の泥水の中で培われた頭脳と高い戦闘力、そして感情を持たず任務を遂行する冷徹な手腕が評価され、彼は国家の暗部を担う王立隠密衛兵隊に拾われた。
組織は彼に「スパーダ」という名を与え、生きるための「職場」を提供したが、そこにも人間らしい「家族」や「帰る場所」は存在しなかった。彼はただの優秀な潜入捜査官であり、国家の癌を切り裂くための鋭利な刃としての役割を果たすだけの機械に過ぎなかった。
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水都シアンの朝は、運河の水面に反射する眩しい陽光と共に訪れた。
大成功を収めた昨夜の祝賀会の余韻が色濃く残るサーカステント周辺では、団員たちが心地よい疲労と二日酔いを抱えながらも、次なる公演へ向けて活気のある声を響かせていた。
「おいバルガス! 昨日の腕相撲、最後は俺が勝ってたよな!?」
「寝言は寝てから言えジグ! 俺の完璧なバランス感覚の前にひれ伏したくせに!」
ケンタウロスのバルガスとゴブリンのジグが朝から元気に言い合い、ドワーフの料理長マグダが銅の大鍋から温かいスープの匂いを漂わせている。
しかし、その賑やかな日常の風景の輪の中に、スパーダと若き団長アリシアの姿はなかった。
スパーダは、巨大テントから少し離れた資材置き場の物陰に身を潜め、冷たい壁に背を預けて佇んでいた。
視線の先には、足早に団員たちの間を通り抜けていくアリシアの姿がある。彼女の目は微かに赤く腫れ上がっており、昨夜、夜のテントの中でどれほど深い絶望と悲しみの涙を流したのかを如実に物語っていた。
スパーダが視線を向けていることに気づいたのか、アリシアはビクッと細い肩を震わせると、怯えたようにスッと目を逸らし、彼から距離を取るように調理場へと逃げるように走り去っていった。
完全に、拒絶されている。
スパーダは自嘲気味に深く息を吐き出し、夜風で冷え切った空を仰いだ。
当然の報いだと思った。彼女が世界で一番尊敬していた父親を「暗殺されたかもしれない」と残酷な現実として突きつけ、彼女が何よりも大切にしている家族である団員たちの中に犯人がいると疑ったのだ。何より、団の立て直しという希望の仮面を被り、彼女の心に嘘をついて近づいたこの罪は重い。
スパーダは一人、重い足取りで巨大テントのさらに裏手、誰の目にもつかない影へと歩を進めた。
ひんやりとした朝の空気が、彼の胸に再び分厚い氷の膜を張っていくのを感じる。元の孤独で冷徹な潜入捜査官に戻るだけだ。感情など最初からなかったのだから、切り捨てるのは容易いはずだ。そう自分に言い聞かせるが、胸の奥に空いた巨大な穴は、冷たい風を吸い込んで刃物で抉られるように鋭く痛んだ。
目を閉じれば、昨夜の祝賀会での光景が色鮮やかに蘇る。
マグダが魔法の樽で作った絶品のピクルスの心地よい酸味と、腹の底から温まるような手料理。ケンタウロスのバルガスと力任せに張り合い、子供のようにむきになった腕相撲。竜人のゴルダンの豪快な笑い声と、猫獣人のチャイの厄介なからかい。
種族を超え、過去のトラウマを抱えた者たちが集まり、一つのテーブルを囲んで騒がしく笑い合うあの食卓が、どれほど温かく、眩しいものだったか。
自分のような、血生臭い裏社会の泥水しか知らない人間に、彼らは不器用ながらも「家族」としての居場所を与えようとしてくれたのだ。
そして何より、経営難に苦しみながらも、純粋にサーカスを愛し、前を向いてひたむきに生きるアリシアのあの笑顔。
夜のテントで、不器用な自分に全幅の信頼を寄せ、美しい空中ブランコを魅せてくれた彼女。
彼女のひたむきな姿と不器用な優しさ、そして団員たちと囲んだ騒がしい日常こそが、スパーダの永い間凍てついていた心を救ってくれた、世界で唯一の存在だったのだと、すべてを失ってしまった今になって初めて痛感していた。
「……暗闇を照らしたあの光は、俺には残酷なほど眩しすぎたぜ」
誰に聞かせるでもなく呟いたその声は、ひどく掠れ、震えていた。
王立隠密衛兵隊としての任務を全うするならば、彼女に憎まれようと、冷徹に犯人を暴き出さなければならない。しかし、アリシアに拒絶され、一人テントの裏で孤独を感じている今、スパーダの胸を支配しているのは、任務の遂行に対する使命感ではなく、アリシアという一人の少女を決定的に傷つけ、失ってしまったという途方もない後悔と喪失感だった。




