第20話 偽りの仮面が割れる時
「あなたは……本当は、何者なんですか?」
アリシアの悲痛な声が、水を打ったように静まり返った夜のテントに響いた。手の中にある、重厚な銀色のバッジ。そこに刻まれた『王立隠密衛兵隊』という文字が、月明かりと、イグニスが放つ淡いピンク色の光に照らされて冷たく自己主張している。
国庫管理局の徴税査察官であるはずの彼が、なぜ、国家の裏に潜む重罪や大規模な犯罪組織を追う隠密部隊の証を持っているのか。
スパーダは、アリシアから数歩離れた場所に立ち尽くしていた。先ほどまで、彼女の頬に触れようとしていた大きな手は、今は力なく虚空を彷徨い、やがてゆっくりと下ろされた。その端正な顔からは、ほんの数秒前まで浮かんでいた甘く熱を帯びた表情が完全に消え失せ、分厚い氷で覆われたかのように無機質で冷徹なものへと変わっていた。
「……それを返してくれ」
低く、感情の読めない声だった。
スパーダはゆっくりと手を差し出した。その瞳は、アリシアという一人の少女を見る目から、明確に『監視対象』を見定める捜査官のそれへと切り替わっていた。
「答えてください、スパーダさん」
アリシアはバッジを胸に抱きしめるようにして、一歩後ずさった。
「どうして、あなたが隠密衛兵隊のバッジを……。ただの査察官じゃ、なかったんですか? 私たちの税金の計算をして、サーカスを立て直すために来てくれたんじゃ……」
「……」
「何か言ってください! お願いだから……さっきまでのあなたは、嘘だったんですか?」
悲鳴のようなアリシアの問いかけに、スパーダは深く、重い溜息をついた。
これ以上、素性を隠し通すことは不可能だった。彼女がバッジの文字をはっきりと見てしまった以上、誤魔化しはきかない。それに、何よりも――彼女の真っ直ぐで傷ついた瞳を見ていると、これ以上の嘘を重ねることが、ひどく恐ろしいことのように思えたのだ。
「……そうだ。俺は国庫管理局の人間ではない。王立隠密衛兵隊から派遣された、潜入捜査官だ」
その言葉が落ちた瞬間、アリシアの足元から崩れ落ちるような絶望感が広がった。
「潜入、捜査官……?」
「俺の本当の目的は、税の取り立てやサーカスの立て直しではない。ある重大な密輸事件の真相を突き止めるため、身分を偽ってこのサーカスに潜り込んだ」
スパーダの淡々とした告白に、アリシアは呼吸を忘れたように彼を見つめた。
外からは、まだバジュラやゴルダンたちが祝賀会で騒ぐ楽しげな笑い声が聞こえてくる。しかし、テントの中の空気は、真冬の湖底のように冷え切っていた。
「密輸事件って……どういうことですか。私たちが、何かの犯罪に関わっているとでも言うんですか?」
「王都周辺で、違法な魔石や危険な魔法薬が大量に出回っている」
スパーダは、感情を排した業務報告のような口調で語り始めた。
「それらの密輸品は、国家の安全を脅かすだけでなく、正規のルートを通らないため莫大な脱税に繋がる。だからこそ、国の機関が連携しながら総力を挙げて追っている事件だ」
「それが、どうしてうちのサーカスと……」
「流通ルートだ」
スパーダの鋭い眼光が、アリシアを真っ直ぐに射抜いた。
「俺たちの部隊が長年の内偵で突き止めた、密輸品の流通ルートと時期。それが、君たち幻想白夜サーカス団『エトワール・メモリア』の巡業ルートと完全に一致しているんだ」
「っ……!」
アリシアは言葉を失った。
「そんな……偶然です! 私たちはただ、各地の街を回って公演をしているだけで……違法な魔石や魔法薬なんて、見たこともありません!」
「偶然で片付けるには、あまりにも一致しすぎている。だからこそ俺は、このサーカス団の内部に主犯、あるいは密輸組織の協力者がいると疑い、査察官を装って潜入した」
アリシアの頭の中で、これまでのスパーダの言動がフラッシュバックした。
初日に客席から冷たい目で舞台を監視していたこと。夜遅くにテント周辺を見回っていたこと。帳簿の数字を、ただの計算ミスとしてではなく、裏に隠された資金の流れを探るような執拗さで確認していたこと。
すべては、このサーカスの立て直しのためではなく、自分たちを『犯罪者』として疑い、証拠を掴むための監視行動だったのだ。
「じゃあ……」
アリシアの声が震えた。
「あなたが帳簿を見てくれたのも、機材のメンテナンスをしてくれたのも……すべては、私たちが犯罪をしていないか監視するため……私たちを、疑っていたからなんですか?」
「……そうだ」
スパーダは、躊躇しながらも肯定した。
「俺の任務は、証拠を見つけ出し、組織の繋がりを暴くこと。お前たちに近づき、信頼を得るのが一番の近道だった」
その言葉は、鋭いナイフとなってアリシアの胸を深く抉った。
過酷な居残り練習に付き合ってくれた夜。怪我をした手にハンカチを巻いてくれた、あの過保護なまでの優しさ。ルベルでの撤収作業の朝、頬の煤を優しく拭ってくれた温もり。そしてつい先ほど、大成功を収めた公演を褒めてくれ、彼女の背中を優しく撫でてくれたこと。
あれらすべてが、自分を油断させ、情報を引き出すための『捜査』の一環だったのか。
「……ひどい」
アリシアの瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出した。
今まで優しくしてくれたのは監視のためだったのかと傷つき、彼女の心はスパーダから決定的に離れていくのを感じた。
「私……本当に、嬉しかったんです。あなたが来てくれて、厳しい言葉の裏にある優しさに触れて……このサーカスを一緒に守ってくれる人ができたって、本気で思ってました。なのに……っ」
アリシアの悲痛な涙を前に、スパーダの胸の奥で、経験したことのない鈍い痛みが走った。
孤児として育ち、生き抜くために感情を殺してきた彼にとって、任務のために人を騙すことなど日常茶飯事だった。嘘をつくことに、罪悪感など抱いたことはない。
しかし今、目の前で泣き崩れる少女の涙は、彼の心に耐え難い苦痛をもたらしていた。




